第四十五話 南より来たる縁
阿蘇の山へ、南の風が上がってきていた。
冷え切るにはまだ早い。だが、夏の湿りを引きずった風とはもう違う。乾いて、遠くの土を運んでくるような風だった。
その風の中を、島津日新斎が来た。
名目は、南よりの挨拶である。
だが、ただの挨拶で済むはずもないことは、館の者なら誰でも知っていた。
近ごろの阿蘇は、あまりに目立つ。
龍造寺を呑み、蒲池を約に縛り、評定のうちには石高が一・五倍を超えたと座の上で明かされた。人も銭も物も集まり、しかもそれを支える理まである。そうした家へ、島津が何も見ずに縁を結ぶはずがなかった。
惟豊は表の礼を尽くした。
日新斎もまた、老いてなお崩れぬ姿でそれを受けた。痩せている。だが弱っては見えぬ。むしろ肉の落ちた分だけ、目と声がよく通る。
形式ばった応酬ののち、日新斎は静かに言った。
「若君と少し話したい」
惟豊は即座にうなずいた。
「かまいませぬ」
それだけで、話の重さは十分に伝わった。
場は変えられた。
広間ではない。
かといって、あまりに内々でもない。
近習が遠く控え、宗運がひとつ離れて座し、惟豊もまた完全には退かない。だが、言葉を交わすのは日新斎と惟種だった。
日新斎はしばらく若君を見ていた。
童と呼ぶには、目が古い。
老成と呼ぶには、まだ幼い。
噂に聞く“鬼童”という言葉は軽いが、ただの風聞とも言い切れぬ。そんな顔だった。
「以前」
日新斎が口を開いた。
「若君は、鉄砲はただ兵を強くするためだけに欲しいのではない、と申されたな」
惟種はうなずく。
「申しました」
「ならば問う」
日新斎の声は静かだった。静かだが、老いた者が若い者を試す時の、あの逃げ道を塞ぐ静けさである。
「此度の戦、阿蘇はまさしく火をもって勝ったようにも見える」
惟種は黙って聞く。
「兵を強くするためではない、と言うた言葉は、あれは飾りか」
宗運が、わずかにだけ息を詰めた。
惟種は、すぐには答えなかった。
この問いは、鉄砲のことだけを聞いているのではない。
若君が何を見て国を作ろうとしているか、その芯を問うている。
惟種は静かに口を開いた。
「戦に勝つために、鉄砲は要ります」
日新斎の目が細くなる。
「ほう」
「そこは偽れませぬ」
惟種は言った。
「火を持たぬ家は、これから先いずれ遅れます。遅れた家は、戦で負けます」
「では、兵を強くするためではない、とは嘘か」
「半ばです」
惟種はそう答えた。
日新斎の口元が、わずかにだけ動く。
気に入ったのか、あるいはさらに面白くなったのか、そのどちらともつかぬ動きだった。
「日新斎殿には、兵を強くするためではないと申しました」
惟種は言った。
「ですが、それだけではない、という意味にございます」
「続けよ」
「戦に勝つために、鉄砲は要る。ですが、筒さえ持てば勝てるわけではありませぬ」
惟種の声は小さい。だが言葉はよく通る。
「火縄、玉薬、硝石、鍛冶、山、運ぶ道、支える銭、撃っても崩れぬ兵、撃たぬ時に乱れぬ列、それを全部持っておらねば、結局は火に使われるだけです」
日新斎は何も言わない。
「私は、兵だけを強くしたいのではありませぬ」
惟種は続けた。
「火の世に負けぬ家を作りたいのです」
宗運の目が、わずかにだけ動く。
その言葉は評定の場でも語られた。だが、今は相手が違う。南の老将を前にして、若君はさらに一段上から言葉を置いていた。
「火の世、か」
日新斎が繰り返す。
「はい」
「若君は、そのように世を見るか」
惟種はうなずいた。
「南蛮の火は、もう来ております」
それは誰も否定できない。
「海の向こうから来るものは、珍しい品だけではございませぬ。火と鉄と銭です。いずれどの家も火を持つでしょう。持たぬ家は滅びます。ですが、持つだけの家もまた滅びます」
惟種は、老将をまっすぐ見た。
「ゆえに先に備えるのです。森羅衆は、そのための兵です。兵を勝たせるためでもある。ですが、それだけではない。火に呑まれぬ国の形を、先に作るためにございます」
日新斎は、そこで初めて目を伏せた。
考えているのではない。
聞いた言葉を、島津の国と、自分の歩んできた道と、その先にあるものへ重ねている顔だった。
惟種はさらに言った。
「九州より日ノ本をすべるには、まだ遠うございます」
その一言で、日新斎が顔を上げた。
「されど、それに近きことは成せましょう」
座の空気が、そこで一つ変わった。
「そう遠からぬうちに、日ノ本を覆うほどの大きな家が現れます」
宗運が息を呑む。
惟豊も動かないが、その沈黙の奥で耳を鋭くしているのが分かる。
「ならば、それに呑まれぬだけの家を、先に作っておかねばなりませぬ」
惟種の言葉は、もはや肥後一国の童のものではなかった。
「阿蘇も、島津も」
日新斎の目が、ほんの僅かに細くなる。
「どうせ見るなら、小さな境目ではなく、天下と、その外まで見ませぬか」
静かになった。
風が庭の木を鳴らす音だけが、少し遅れて聞こえた。
宗運は、何も言わなかった。
言える場ではなかったし、たとえ言えても、この場で若君の言葉に何かを足すのは余計だと分かっていた。
日新斎は長く黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「大きいことを申す」
「はい」
「童の口で」
「はい」
「だが、ただの大言ではないな」
惟種は答えなかった。
答える必要がなかった。
日新斎はわずかに笑った。
「よい」
その一言には、何かを面白がる老いの気配と、軽々しく見ぬという重さとが同時にあった。
「貴久に伝えよう」
惟種は深く頭を下げた。
「ありがたく」
「ただし」
日新斎が言う。
「阿蘇がそのような家を目指すなら、ただ賢いだけでは足りぬ。いずれ汚れるぞ」
惟種は顔を上げた。
「それでも進みます」
「進むか」
「進まねば、呑まれます」
日新斎はそこで、はっきりとうなずいた。
「よい」
それで十分だった。
日新斎はその日のうちに館を発った。
返答は持ち帰り、貴久へ通すという。
その後ろ姿を見送りながら、宗運は小さく息を吐いた。
「若君」
「うむ」
「ずいぶんと大きく出られましたな」
「大きく出ねば、老いた狸は動かぬ」
宗運の口元が、わずかにだけ緩む。
「まことに」
惟豊は何も言わなかった。
だが、その沈黙は否定ではない。
若君が今の阿蘇の外までを見ていることを、父もまた、もうとっくに知っていた。
ほどなくして、南より返書が届いた。
島津貴久の名である。
文面は簡潔だったが、そこに込められた意味は軽くない。
阿蘇若君惟種と、島津家の姫との将来の縁を約する。
縁組は吉日を待ち、年の頃に応じてあらためて婚礼を整える。
ただし、その証として姫は早めに阿蘇へ移し、両家の縁を口約束に終わらせぬ。
館の空気がまた一つ変わった。
惟豊は文を読み終え、それを宗運へ渡した。
「来るな」
「はい」
「南が、まことに若君へ賭けた」
「ようございますな」
宗運はそう言ったが、その一方でこれは大友や蒲池へ見せるにはあまりに大きい縁だとも分かっていた。
惟種は文を受け取ると、しばらく黙っていた。
政略だ。
だが、それだけではない。
日新斎は若君の理を見て、貴久はそこへ島津の先を乗せた。
この縁は、ただの親しみではなく、次代への賭けだった。
姫は月の変わらぬうちに阿蘇へ来た。
もちろん、いきなり婚礼ではない。
乳母、侍女、年寄り役、それに島津方の近習を少し伴っての移住である。名目は将来の縁の証。実際には、南と阿蘇とを結ぶ生きた綱そのものだった。
館の門前に轎が着いた日、家中は静かにざわついていた。
人は多い。
だが声は低い。
島津の姫が入るというのは、それほどのことだった。
惟豊は大宮司としての顔と当主としての顔の両方で迎え、宗運は差配を誤らず、女房衆もまた緊張のうちに動いた。
惟種は、形式の上では正しく出迎えた。
だが、まだ夫婦という年ではない。
姫もまた、阿蘇家の女房衆のもとへ下がり、しばらくはそこで暮らすこととなる。
それでも、家中の目にはもう十分だった。
島津の姫が、阿蘇へ入った。
それだけで、九州の地図の線が一本、目に見えぬところで引き直されたのだ。
鍋島孫四郎は、その光景を少し離れて見ていた。
まだ若いが、こういう場の意味を読み取るには十分な年だった。
若君のそばに仕えて日が浅い。だが、その若君がただ戦に勝つだけではなく、南の大身と縁を結ぶところまで来ていることは、嫌でも腹に落ちる。
龍造寺家兼もまた、それを知った時にはしばらく言葉がなかった。
「そこまで参ったか」
そう漏らしただけだった。
戦に勝ち、龍造寺を抱え、石高を一・五倍の上へ押し上げ、今度は島津の姫まで入る。
阿蘇はもはや、肥後の一家としてだけは測れぬところへ来ていた。
惟種は、南よりの文と、姫を迎えたあとの静かな館の空気とを見ながら、ふと日新斎の顔を思い出していた。
あの老将は、若君の言葉を軽くは聞かなかった。
聞き、測り、そして通した。
それは阿蘇にとって大きな追い風である。
だが、風というものは、吹けば必ずどこかに波を立てる。
南との縁は固まった。
ならば、それを面白く思わぬ者もまた、確かにいる。
阿蘇の山に、冬の気配が少しずつ深まっていた。
その静けさの下で、次の火種もまた、形を取り始めていた。




