第四十四話 盗まれた脇差
宗運の脇差が無い、と最初に言い出したのは、夜番を替わった若侍だった。
評定の熱がようやく館の柱から抜け始めた頃である。
宗運は昼のうちに広間から脇差を外し、奥の控えへ置いていた。置き場所は決まっている。触れてよい者も限られている。だから最初は、誰かが別の棚へ移したのだろうと、誰もがそう思った。
だが、探しても出ない。
棚の奥も、文箱の陰も、具足櫃の間も、夜具の脇も、すべて改めた。宗運の近くに仕える者、広間の掃除に入った者、湯を運んだ者、記録板を片づけた者、皆の顔が青くなった。
脇差は、ただの脇差ではなかった。
阿蘇家から宗運へ与えられた品である。
古い由緒を持ち、宗運個人の差料であると同時に、阿蘇の柱として遇される証でもあった。宗運にとっては刀一本ではない。主家から預かった信そのものだった。
宗運は最初、怒らなかった。
むしろ、怒るより先に静かになった。
その静かさの方が、周りの者にはよほど恐ろしかった。
「もう一度改めよ」
低い声で言う。
「誰が、いつ、何のために、この部屋へ入ったかも書き出せ」
「はっ」
若侍たちが散る。
宗運は動かず、置き台の空いた場所だけを見ていた。
その顔にこそ出なかったが、惟種にはわかった。
あれは、宗運にとって渡してはならぬ物だった。
守れぬなら、持つ資格も無いとすら思っている顔だった。
惟種は宗運の横顔を見ながら、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じていた。
(やはり、ここへ来るか)
史はここで折れる。
守昌が脇差を欲しがり、断られ、娘に盗ませた。露見を恐れて離反へ走り、宗運が攻める。そこから先は、阿蘇家の内に深い傷が残る。
それを知っている。
だが、知っているからといって、黙って史に従う気は無かった。
「宗運」
「はい」
「人を改めるなら、広くしすぎるな」
宗運がわずかに顔を向ける。
「広く、ですか」
「数を追えば、皆が怯えて口を噤む。まず、今日広間と控えへ近づけた者を切れ」
宗運は黙って聞く。
「評定の後、龍造寺衆も出入りした。供も動いた。阿蘇家中ばかりを疑えば、かえって見誤る」
「……左様ですな」
宗運はそれだけ言った。
若君の言うことは理にかなっている。そう受け取った顔だった。だが惟種はそれだけではない。最初から、どこへ向かうべきか知っている。
「あと」
惟種は続けた。
「女の部屋も改めよ」
宗運の目がわずかに細くなった。
「女の」
「うむ」
「なぜ、そのように」
「盗む気のある男は、最初から手で取る。だが人に盗ませる男もいる」
宗運はすぐには返さなかった。
宗運の娘。守昌の妻。
そこへ疑いを向けることの重さは、宗運自身がよく知っている。
だが宗運は、そこで情を先に置く男ではなかった。
「……わかりました」
短く答えた。
館の中で、改めが始まった。
表立って騒ぎ立てはしない。
だが実際には、廊下も、控えも、女房部屋も、出入り口も、みなひそやかに封じられていく。高森が若侍を差配し、北里が帳面を持って走り、光永は誰が何を運んだかを記し始めた。鍋島清房は、まだ預かり衆となったばかりでありながら、顔色ひとつ変えず、人の流れを見ていた。
その間にも宗運は、ひとつも余計な言葉を発さない。
やがて、最初の綻びが見つかった。
女房の一人が、宗運の娘の居間に、不自然な風呂敷包みを見たという。
別の者は、それがすぐに隠されたと証言した。
さらに若い侍女が、夕刻に隈庄守昌付きの男が裏手で誰かと短く言葉を交わしていたと話した。
そこまで聞いて、宗運はようやく立った。
「娘を呼べ」
声は、まだ静かだった。
だがその静けさが、かえって周りの背を冷やした。
惟種も立つ。
「わしも行く」
「若君」
宗運が言いかける。
「行く」
惟種は短く返した。
宗運はそれ以上止めなかった。
宗運の娘は、呼ばれてすぐに出てきた。
顔色が悪い。目が泳いでいる。何も知らぬ者の顔ではない。
宗運は娘を見て、しばらく何も言わなかった。
「……持っておるな」
その一言で、娘の肩がはっきり震えた。
「父上、わ、私は」
「出せ」
娘はその場で膝をつき、泣き出した。
「申し訳ございませぬ……申し訳ございませぬ……」
懐から出てきたのは、包み布に巻かれた脇差だった。
宗運はそれを受け取らなかった。近くの者に持たせたまま、ただ娘を見下ろす。
「誰に言われた」
娘は泣きながら首を振る。
「自分で、ではありますまい」
宗運の声は低い。
「守昌か」
その名が出た瞬間、娘は顔を伏せたまま、ついに何も隠せなくなった。
「……はい」
宗運は目を閉じた。
それは怒りより、疲れに近い顔だった。
惟種はそれを見て、胸が詰まる。
「夫が欲しいと申しました」
娘の声は細い。
「父上の脇差は、阿蘇家から賜ったよい品だと……欲しいと……されど父上は決して渡されぬと……」
「だから盗んだか」
宗運の言葉は冷たかった。
「……私は……夫に逆らえず……」
「逆らえぬなら、盗んでよいのか」
娘は何も言えない。
宗運の手が、わずかに震えていた。
怒りか。悲しみか。どちらでもあるのだろう。
惟種は一歩進み出た。
「守昌を呼べ」
宗運が振り向く。
「若君」
「いまのうちだ」
惟種は言った。
「この場で押さえねば、外へ走る」
宗運の目が鋭くなった。
「……なぜ、そのように」
「逃げ道が見えた者は、たいてい外を見る」
惟種はそれだけ言った。
宗運はすぐに高森を振り返った。
「隈庄守昌を呼べ。いや、違う。呼ぶな。押さえよ」
「はっ!」
「城へ戻る前にだ。館の内で押さえろ」
高森が飛ぶ。
北里も走った。
惟種は胸の内で息を吐いた。
これで、史の折れ方は変わる。
守昌はまだ内通していない。
いや、耳は拾われているかもしれぬ。だが、少なくとも動く前に押さえることはできる。
ほどなくして、守昌は両脇を取られて連れてこられた。
怒鳴りもせず、暴れもせず、ただ顔だけが青くなっている。状況は飲み込んでいるのだろう。脇差が見つかったと知った顔だった。
宗運は守昌をまっすぐ見た。
「言い訳はあるか」
守昌は一度、娘の方を見た。娘は顔を上げられない。
「……一度、所望いたしました」
「知っている」
「だが、お断りになった」
「だから盗ませたか」
守昌の喉が動く。
「出来心にございました」
「出来心で、阿蘇家から賜った脇差を盗ませるか」
守昌は何も言えなかった。
宗運の顔には、もう父としての色より、阿蘇家臣としての冷たさが出ていた。
「わしを愚弄しただけでは済まぬ」
宗運の声はさらに低くなる。
「主家の信を汚した」
守昌はそこで初めて膝を折った。
「お赦しを」
「赦す理がどこにある」
「一命だけは……」
宗運は答えなかった。
その沈黙を破ったのは惟種だった。
「まだ斬るな」
座の空気が変わる。
宗運がゆっくりと若君を見る。
「若君、これは」
「重い」
惟種は言う。
「重いが、まだ家中の不始末で収まる」
「収まりますまい」
宗運の声には、初めて感情が混じった。
「脇差そのものではございませぬ。阿蘇家の恩と信を盗ませたのです」
「わかっている」
「ならば」
「だからこそ、ここで血にするな」
惟種は守昌を見るでもなく言った。
「ここで斬れば、家中の私闘に見える。娘まで巻けば、傷は長く残る。外はそこを待っている」
宗運は黙る。
理ではわかる。
だが感情は別だ。
「宗運」
惟種は声を少しだけ落とした。
「人は切れば終わる」
宗運の眉が、わずかに動く。
「刀はまた打てる」
「……若君」
「この脇差が大事なのは知っている」
惟種は言った。
「阿蘇家から賜ったもの。お前の忠の証だ。だからこそ渡せなかったのもわかる」
守昌も、娘も、顔を上げない。
「だが」
惟種はそこで一歩進んだ。
「それでも、わしは人を取る」
宗運が、何かを言おうとして止まる。
「宗運に免じて言うのではない」
惟種の声は小さい。だが、座の隅まで届いた。
「わしが嫌だ」
宗運の目が、はっきりと揺れた。
「お前に娘を斬らせたくない」
その言葉の方が、理よりも深く刺さる。
「若君……」
「これは若君の我だ」
惟種は言った。
「宗運、抑えろ」
長い沈黙が落ちた。
守昌は震えたまま動けない。
娘は涙を流し続けている。
家中の者たちも皆、宗運の返答を待っていた。
やがて宗運は、深く息を吐いた。
「……承る」
それは簡単な返事ではなかった。
理を飲み、怒りを押し込み、父である自分をさらに奥へ押しやって、ようやく出した声だった。
惟種はそこで初めて、次を告げた。
「守昌」
「は、はい」
「隈庄の家督と実権は取り上げる」
守昌が顔を上げる。
「き、きとく――」
「隠居せよ」
守昌の顔から血の気が引いた。
「娘とは離縁。今より後、宗運の家へ縁を引くな」
娘が嗚咽を漏らす。
「お前は城も兵も失う。以後は蟄居とする」
守昌はその場で額を地につけた。
「一命は」
「取らぬ」
惟種は言う。
「それを取れば、お前は楽になる」
守昌は息を呑んだ。
「生きて、恥を負え」
その方が、いまの守昌にはよほど重かった。
「娘」
惟種は今度、宗運の娘へ目を向けた。
娘は震えながら顔を上げる。
「お前は実家預かりとする」
「……はい」
「すぐには尼にせぬ」
宗運が目を上げる。
娘もまた、涙の中で驚いた顔をした。
「お前が自分の足で立てぬうちに、仏へ逃げることは許さぬ」
惟種の声は静かだった。
「しばらく宗運の家で謹慎せよ。そのうえで、なお髪を下ろしたいなら、その時に願い出よ」
娘は声もなく泣いた。
それは赦された安堵だけではない。
まだ生きて向き合わねばならぬものを突きつけられた涙でもあった。
宗運は、その娘を見たまま何も言わない。
惟種は最後に宗運へ向き直った。
「これでよいな」
宗運はしばらく黙ったのち、深く頭を下げた。
「……若君の仰せのままに」
その声には、感謝もあった。
だが感謝だけではない。
自分には背負いきれぬものを、若君に背負わせてしまったという苦さも、確かにあった。
守昌はその夜のうちに押さえ置かれ、隈庄へ戻されることなく館内の一角へ移された。家督の差配は後日改めて行うこととなり、娘は実家の女房部屋へ下げられた。館の空気は重く沈んだが、少なくとも、血は流れなかった。
数日後。
宗運は、ひと気のない庭先で惟種に呼び止められた。
「宗運」
「はい」
惟種の手には、一振りの脇差があった。
新しい。
だが軽くはない。
鞘も柄も飾り立てず、むしろ宗運に似合うようにと整えられたものだと、一目でわかる。
宗運の顔色が変わる。
「若君、それは」
「持て」
惟種はまっすぐ言った。
「……恐れながら」
宗運はすぐには受け取らない。
「私には、その資格がございませぬ」
「決めるのはお前ではない」
惟種は脇差を差し出した。
「盗まれたのは、物だ」
宗運が何かを言おうとする。
「わかっている。お前にとっては物ではない」
惟種は先に言った。
「阿蘇家から賜った証であり、信だ。だが、それでも失われたのは旧い証だ」
庭に風が渡る。
「ならば、これは新しい証だ」
宗運は、そこでようやく顔を上げた。
惟種の目は、逸れない。
「わしが預ける」
惟種は言った。
「これより先も、お前はわしの柱だ」
宗運は、すぐには動けなかった。
その一言の重さが、軽く受けられるものではないと知っていたからだ。
阿蘇家から賜った旧い脇差を失った。
そのうえで、今度は若君自身から新たな脇差を預けられる。
それは慰めではない。
返し切れぬ恩だった。
「……重うございます」
宗運は、ようやくそう言った。
「重いから持て」
惟種が返す。
宗運は、その場に深く平伏した。
「甲斐宗運、命尽きるまで違えませぬ」
惟種はそれを聞いても、もう何も言わなかった。
ただ、その背へ脇差を差し出したまま立っていた。
宗運は、両手でそれを受けた。
失ったものは戻らない。
だが、失わせたままにしないと、若君は言ったのだ。
そのことが、宗運には痛いほどわかった。
阿蘇の空は高く、風は冷たかった。
館の内に走った亀裂は、まだ消えてはいない。
だが、その亀裂の上から、若君は新しい一本を渡した。
それは、失われた脇差の代わりではない。
これから先を支えるための、新しい結び目だった。




