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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第四十一話 三家の座

 その日の館は、妙に静かだった。


 人は多い。

 廊下には足音が絶えず、門前には馬が繋がれ、控えの間では湯が沸き、使いの者が出入りしている。だが、それでも静かに感じられるのは、誰もが声を低くしているからだった。


 今日の座は、怒鳴るためのものではない。

 静かに、だが一歩も引かぬための座である。


 惟豊は正面に座し、その後ろ少し下がって宗運、さらに横に惟種を置いた。


 惟種は父に言われた通り、最初から前へ出るつもりはない。だが、座の空気を読む目だけはいつもより鋭かった。


 やがて到着が告げられる。


「大友義鑑公、御着にございます」


 惟豊が立つ。


 義鑑は飾り立てぬ姿で入ってきた。供は多すぎず、少なすぎず、ただそれだけで大友の威が分かる来方だった。その後ろに吉弘鑑理が控えている。


 礼が交わされ、ほどなく次が告げられる。


「蒲池殿、御着にございます」


 蒲池当主は、顔を硬くして入ってきた。後ろに原野恵俊。前へ出る気勢のある来方ではない。だが、縮んでもいない。まだ逃げ切れると思っている顔だった。


 三者が座に着く。


 上座に義鑑。

 これに向かって惟豊。

 そして蒲池。


 形の上では並ぶ。

 だが、同じ重さではない。


 湯が出され、最低限の礼が済む。

 最初に口を開いたのは義鑑だった。


「此度のこと、勝ち負けのままには捨て置けぬ」


 声は高くない。

 だが、それで十分だった。


「龍造寺、蒲池、阿蘇の間に起きた働き、境目を荒らし、そのままでは後日に尾を引く。ゆえに今日の座は、誰が強い弱いを言い募るためではない。乱れをこれ以上広げぬため、それぞれの筋を明らかにするための座とする」


 一拍置く。


「まずは申せ。此度の一件、どう見る」


 視線が惟豊へ向いた。


 惟豊は静かに口を開いた。


「では申します」


 座の空気が、すっと阿蘇へ寄る。


「此度、阿蘇は攻められた側にございます。龍造寺の兵が前へ出、蒲池の兵が後ろに控え、境目へ押し寄せた。ゆえにこれを防ぎ、退けました」


 短い。

 だがまずはそこだ。


「阿蘇はみだりに越境して争いを広げたのではない。自領へ押し入った兵を防ぎ、その後も無益な追い崩しはせず、負傷者を拾い、戦後の乱れを抑えました」


 蒲池当主が、そこでわずかに口を挟む。


「阿蘇殿、それは」


「まだ終わっておらぬ」


 惟豊が遮る。


 声は低い。

 しかし、それで十分だった。


「さらに申せば、龍造寺をどう扱うかについても、阿蘇は勝手に首を刈って終わらせる道を取らなかった。家を残し、兵を鎮め、後の乱れを防ぐ道を取った」


 そこで初めて、蒲池の顔が少しだけ強張った。


 龍造寺の処理を「乱れを防ぐため」と言われると、表向き否定しにくい。


「だが」


 惟豊はそこで声を変えた。


「そもそもの乱れの元はどこにあるか」


 座の空気が張る。


「龍造寺が独りで動いたと申すなら、なぜ蒲池は兵を出したのか。後詰とはいえ旗を立て、戦の途中でそれを返したのは誰か。さらに戦ののちには関知せずと切り捨てた」


 蒲池当主の眉が動く。


「その監督不行届きにより、阿蘇は兵を動かし、血を流し、戦後の始末まで負わされた。ならば、蒲池に責がないとは申せますまい」


 原野恵俊が一歩前へ出る気配を見せたが、蒲池当主が手で制した。


 義鑑は何も言わない。

 まだ、言わせている。


 蒲池当主は慎重に口を開いた。


「申し開きをいたします」


「申せ」


 義鑑。


「此度、蒲池に阿蘇を本気で侵そうという意図はございませなんだ。龍造寺がことを早め、戦を大きくしたのでございます。こちらはあくまで境目の不測に備えたのみ」


 惟種は、父の横でその言葉を聞いた。


 やはりその筋で来た。


「後詰に兵を置いたことは事実にございます。しかしそれは、いざという時に備えたのであって、阿蘇へ押し入る本意があったわけではない」


 原野がそこで口を継いだ。


「行き違いが大きくなったのでございます。龍造寺の気が急き、蒲池もまた境目を案じた。その結果、ことが乱れた。されど、ここで一方のみへ過大の責を負わせるは筋が違いましょう」


 宗運の目がわずかに細くなる。


 うまく濁している。

 だが濁しているだけだ。


 義鑑が今度は宗運へ目を向けた。


「宗運」


「は」


「阿蘇の実務を預かる者として、何と見る」


 宗運は深く頭を下げた。


「阿蘇は、此度の件を『行き違い』の一言で済ませるつもりはございませぬ」


 座が静まる。


「龍造寺が前へ出たことは事実。されど蒲池が後詰を置いたことも事実。戦の途中で旗を返したことも事実。さらに戦後、関知せずと使者を寄こしたことも事実にございます」


 原野が口を開きかけたが、宗運はそのまま続けた。


「関知せず、と申されるなら、それはそれで筋がございます」


「……何」


 蒲池当主が眉を寄せる。


「つまり、龍造寺はもはや蒲池の内にはあらず、ということにございます」


 一瞬、座の空気が止まった。


 惟豊は何も言わない。

 だが、その沈黙が宗運の言葉を支えていた。


「蒲池殿みずから関知せずと仰せになった。ならば、此度の戦で槍を伏せた龍造寺を、どこへ返す理がありましょう」


 原野が鋭く言った。


「それは飛躍にございます!」


「飛躍ではありませぬ」


 宗運は平らに返す。


「関知せぬ。責を負わぬ。戦後の始末にもあずからぬ。そう仰せなら、阿蘇が預かるほかございませぬ」


 義鑑がそこで、初めて口を挟んだ。


「そこだな」


 静かな声だった。


「龍造寺の扱いが、この座のひとつの芯であろう」


 惟豊がうなずく。


「その通りにございます」


 そして、ここで初めて阿蘇は要求を出す。


「阿蘇としては、三つ求めます」


 義鑑の目が細くなる。

 蒲池当主の顔も硬くなる。


「第一。龍造寺家ならびにこれに連なる者は、当面阿蘇預かりとし、蒲池はこれに異を唱えぬこと」


 蒲池当主が、すぐに顔をしかめた。


「それは」


「まだ二つございます」


 惟豊は止まらない。


「第二。此度の監督不行届きにより阿蘇が受けた損に対し、蒲池は相応の見舞いを出すこと」


 原野がすかさず口を挟む。


「監督不行届きとはまだ――」


「第三」


 惟豊は原野を見もしない。


「再び同様の乱れを生ぜしめぬため、境目筋・往還・番所・争論地につき、阿蘇が管理にあたること」


 ここで、さすがに座が動いた。


 蒲池当主は露骨に表情を変えた。

 原野も息を呑む。

 吉弘鑑理は目を伏せたまま何も言わない。


 そして義鑑が、ようやく言った。


「……大きく出たな、阿蘇殿」


 惟豊は平然としている。


「被害を受けた側が、再び同じことを許さぬための求めにございます」


「境目管理まで阿蘇へ寄せるは、いささか過ぎるのではないか」


「過ぎるほどのことをされた、とも申せましょう」


 蒲池当主がここで堪えきれずに口を開いた。


「待たれよ!」


 座の視線が蒲池へ集まる。


「龍造寺は勝手に動いた! 蒲池は巻き込まれたに過ぎぬ! それをもって見舞いだの、管理だのと申されては、あまりに過大にございます!」


 宗運が静かに言う。


「ならば蒲池殿は、何の責も負わぬと仰せか」


「それは……」


「兵を出し、旗を立て、しかも途中で返し、戦後には関知せずと切る。それで何もなかったことにせよ、では済みませぬ」


 蒲池当主の顔が赤くなる。


 だが反論しきれない。


 義鑑はその様子を見たうえで、ゆっくりと口を開いた。


「阿蘇の理は分かる」


 惟豊は黙って聞く。


「だが、勝ちに乗じて境目一帯を丸ごと阿蘇へ寄せるは、また別の乱れを呼ぶ」


 ここで大友が切る。


「龍造寺を預かる。それだけでも、阿蘇は十分に果実を取る。なお境目まで一挙に寄せるのは、秩序を保つ裁きとは言い難い」


 惟種は、その言葉を聞きながら思う。

 やはりそこは切ってくる。


 義鑑は今度、蒲池を見た。


「されど蒲池にも責がないとは言わぬ」


 蒲池当主の顔が強張る。


「龍造寺の独断と申すなら、なおさら後詰を置いたそなたの監督は問われる。関知せずと言い切った以上、龍造寺をそなたの側へ戻せとも言いにくい」


 原野が顔を上げる。


 それがもう、苦しい。


 義鑑は大きく裁いた。


「ゆえに、こう置く」


 座が完全に静まる。


「龍造寺家ならびにこれに連なる者は、当面阿蘇預かりとする」


 蒲池当主の顔から血の気が引いた。


「義鑑公……!」


「異議は聞く。だが、そなたが関知せずと言うた以上、筋はそこにある」


 義鑑はさらに続ける。


「次に、蒲池は此度の乱れにより阿蘇へ損が出たことを認め、見舞いとして米・金子・馬・武具、そのほか相応の品を出せ」


 ここで賠償を正面から言わず、見舞いに置いた。


 蒲池当主は苦い顔をしたが、それならばまだ飲める。


「そして境目のことだが」


 義鑑が、少しだけ間を置く。


「境目一帯を阿蘇へ寄せることはならぬ。されど、再発防止のため、争論地・往還・番所・境目筋については、阿蘇にも見張りと改めの権を認める」


 惟豊はそこで初めて小さく目を細めた。


 全面ではない。

 だが、十分に大きい。


 宗運もまた、それで足りると見た顔だった。


 さらに義鑑は、最後の釘を打つ。


「ただし、今後のため、約定書を交わす」


 蒲池当主が嫌そうに顔を上げる。


「約定……」


「うむ。此度の取り決めを文に落とし、三家で印を据える」


 そこで初めて、惟種が口を開いた。


「一条、加えていただきたい」


 座の視線が、幼い若君へ向く。


 蒲池当主の顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。

 だが惟豊は止めない。

 義鑑もまた、「申せ」とだけ言った。


「今後、蒲池・阿蘇の境目にて争論・働き生ずるとも、まず当事両家にてこれを鎮撫し、みだりに他家へ加勢・介入を請わぬこと」


 静かな一言だった。


 だが、重い。


 原野がすぐに言う。


「それでは、我らが縛られすぎます!」


 惟種は原野を見る。


「阿蘇も同じように縛られる」


「しかし」


「争いを広げぬための約だ」


 宗運が横から補う。


「義鑑公のお裁きが、後でも軽う見られぬためにも要りましょう」


 義鑑は、そこで惟種を見た。


 幼い。

 だが、いま出した条は単なる防戦ではない。

 次の争いまで見越した条だ。


「……よかろう」


 義鑑が言った。


「ただし、それだけでは軽い」


 惟種は黙って続きを待つ。


「もしこの約に背き、境目に兵を寄せ、あるいは他家へ加勢・介入を請い、再び争論を起こすときは――」


 義鑑は、言葉をはっきり切った。


「違約の側は、相手方による境目筋・往還・番所・争論地の一時監督を妨げず、またその鎮撫に要したる費えを償うものとする」


 蒲池当主が息を呑んだ。


 これでは、次に何かあれば阿蘇が境目へ入る理を得る。

 しかもそれを、大友の裁きの文で認めることになる。


「義鑑公、それは……!」


「重いか」


 義鑑は静かに言う。


「では二度と乱すな」


 その一言で、蒲池当主は黙った。


 もう、逃げる余地は狭い。


 惟豊はそこで、ようやく深く頭を下げた。


「阿蘇としては、その裁き、承る」


 宗運も続く。


「龍造寺の預かり、見舞い、境目の改め、約定書、いずれも阿蘇にて違えませぬ」


 義鑑は蒲池を見た。


「そなたは」


 長い沈黙ののち、蒲池当主は絞るように言った。


「……承るほか、ございますまい」


 原野が悔しげに目を伏せる。


 だが、もう終わっていた。


 ここで決まったのは、ただ戦後の始末ではない。

 龍造寺が阿蘇へ流れ着き、蒲池がそれを取り返せぬ形になったということ。

 そして次に蒲池が動けば、今度は約に背いた側として裁かれるということだった。


 約定書が持ち出される。


 筆が置かれ、文言が改められ、三家の前で読み上げられる。


 第一条。

 龍造寺家ならびにこれに連なる者どもは、当面阿蘇家預かりとし、蒲池家これに異議を申さぬこと。


 第二条。

 蒲池家は、此度境目に乱れを生じ、阿蘇家へ損害を及ぼしたるにつき、見舞いとして米・金子・馬・武具そのほか相応の品を差し出すこと。


 第三条。

 今後、境目筋・往還・番所・争論地につき、再発防止のため阿蘇家も改めと見張りにあたることを妨げぬこと。


 第四条。

 今後、蒲池・阿蘇の境目において争論・働き生ずるとも、まず当事両家にてこれを鎮撫し、みだりに他家へ加勢・介入を請わぬこと。


 第五条。

 若し此度の約に背き、境目に兵を寄せ、他家へ加勢・介入を請い、争論を再び起こすときは、違約の側は相手方による境目筋・往還・番所・争論地の一時監督を妨げず、なおその鎮撫に要したる費えを償うべきこと。


 読み終わると、座はしんと静まった。


 義鑑が立つ。


「これで終える」


 短い一言だった。


「勝った負けたの余波を、ここで止める。以後はこの文に従え」


 惟豊も立つ。


「阿蘇、違えませぬ」


 蒲池もまた立たねばならぬ。


「……蒲池も、承る」


 その声は重かった。


 だが、認めた以上は認めたのだ。


 人が動き出す。

 控えの者が文を下げ、印判の備えが整えられ、使者が走る。

 座は終わった。


 だが惟種にはわかっていた。


 これは終わりではない。

 むしろ始まりだ。


 龍造寺は阿蘇へ入る。

 蒲池は面子を失う。

 そして次に境目が乱れれば、今度は約に背いた側として裁かれる。


 惟種は、座を立つ蒲池当主の背を見た。


 あの顔は、まだ終わっていない顔だった。

 今日の屈辱を呑み切った顔ではない。


 ならば、いずれまた動く。


 その時、今日の文が生きる。


 惟豊が、ほんのわずかに惟種を見た。

 何も言わない。

 だが、その目だけで十分だった。


 野での勝ちを、家の勝ちへ変える。

 それはひとまず成った。


 次は、この勝ちをどう使うかだ。

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