第四十二話 勝ちの後に残るもの
人のいなくなったあとの道ほど、ものを考えさせる。
三家の座を終えた義鑑は、阿蘇の館を下りながら、供を少し離し、吉弘鑑理だけを近くに置いていた。夏の終わりの風が山の木々を鳴らしている。日差しはまだ強いが、吹き抜ける風の底にはもう秋の硬さがあった。
しばらくは、馬の蹄の音ばかりが続いた。
やがて義鑑が、ぽつりと言った。
「阿蘇は、手に余るようになるな」
吉弘はすぐには答えなかった。
「……はい」
「ここで手を打たねば、後には重い」
「その通りかと」
義鑑は前を見たまま続けた。
「龍造寺まで抱えた。あれで、ただの肥後の一勢力では済まぬ」
吉弘は低く言う。
「いまならまだ押さえられましょう」
「押さえる、か」
義鑑の口元に、笑いとも苦みともつかぬものが浮かんだ。
「潰すにしても名目が要る」
吉弘は、その言葉を待っていたように頷いた。
「はい。今こちらから露骨に兵を向ければ、かえって阿蘇を一つにいたします」
「わかっておる」
義鑑は少しだけ苛立ったように言った。
「だからこそ腹が立つ」
吉弘は黙る。
義鑑が機嫌を損ねたのではない。
当主として、まさに苛立つべきところへ苛立っているのだと、長く仕えてきた鑑理にはよくわかる。
「あの鬼童」
義鑑が言う。
「まことに鬼童よ」
風が木の葉を鳴らす。
「なぜ阿蘇に生まれた」
吉弘は目を伏せた。
「殿……」
「義鎮は勇はある」
義鑑は、自分で続けた。
「だが、いま欲しいのはあの手の冷たさだ。兵を見、市を見、敵の先まで見る。なぜ当家にはああいう子がない」
吉弘は少し困ったように言った。
「御嫡男にも、また御嫡男の取り柄がございます」
「取り柄で足りればよい」
義鑑は吐き捨てるようには言わない。だが、低い声音の方がかえって重い。
「家を広げる時に、ただ強いだけでは足りぬ。それに、あれは粗暴すぎる」
吉弘は、そこで初めて小さく息を吐いた。
「それでも今は、刃を抜く時ではございませぬ」
「うむ」
「阿蘇は伸びております。ならば、伸びるほどに出る綻びを拾うべきかと」
義鑑は黙って聞く。
「勝つ家には人が寄ります。物も集まります。人が寄るところには、こぼれる者も出ます」
表では裁き、裏では拾う。
いま大友に要るのは、その両方だ。
「いずれにせよ」
義鑑が言った。
「阿蘇はこのまま育ててよい家ではない」
「はい」
「名目を待て。きっかけを拾え」
「承知」
義鑑は、それきり口を閉ざした。
阿蘇の山は、後ろにあってなお目障りだった。
今日の座で秩序の顔は立てた。
だが、それだけでは足りない。
鬼童を抱えた家を、ただ見ているわけにはいかなかった。
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そのころ、別の道を下る蒲池当主の顔色は、さらに悪かった。
供は少なく、原野恵俊が後ろに従っている。阿蘇の館が見えなくなっても、蒲池当主の肩に乗った硬さは少しも抜けなかった。
先に口を開いたのは、蒲池当主の方だった。
「原野」
「は」
「見たか」
「何を、にございますか」
「何を、だと」
蒲池当主の声が少しだけ荒くなる。
「龍造寺を持って行かれたのだぞ」
原野は目を上げた。
「はい」
「しかも、あの場でわしは飲まされた」
「はい」
「それで終わりか」
「終わりますまい」
原野は平らに答える。
蒲池当主は馬上で歯を食いしばった。
「阿蘇の若君ひとりに、ここまで運ばれるとはな」
「若君ひとりではございませぬ」
原野は言う。
「阿蘇家そのものが変わりました」
「わかっておる!」
吐き捨てるように言ってから、蒲池当主は少しだけ息を乱した。
怒りの向く先が定まらない顔だった。
阿蘇か。龍造寺か。大友か。あるいは自分自身か。
「家兼も、鍋島も、もう戻るまいな」
その声は、さきほどより低かった。
「戻りますまい」
原野ははっきり言った。
「戦の途中で旗を返し、その後に関知せずと申した。あれで龍造寺へ戻る道は閉じました」
蒲池当主は何も返さない。
返せば、その通りだと認めることになる。
「今は表立って動けませぬ」
原野が言う。
「約もございます」
「約など」
「軽く見てはなりませぬ」
原野の声も、少しだけ硬くなった。
「今度兵を寄せれば、阿蘇は正面から境目へ入る理を得ます。しかも大友が裁いた文にございます」
蒲池当主は、それを聞いて顔を歪めた。
「ならば、ただ黙っておれと言うか」
「表では」
原野は答える。
「だが、表だけで済ませるとも申しておりませぬ」
蒲池当主の目が細くなる。
「拾える者はいるか」
「勝つ家には、こぼれる者もおります」
原野は、そこでそれ以上を言わなかった。
だが、その沈黙だけで足りた。
蒲池当主は前を向いたまま、小さく言った。
「阿蘇め」
それは呪いのようでもあり、次の火種のようでもあった。
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阿蘇の館では、まだ人の行き来が続いていた。
三家の座を終えたところで、家の中まで静まるわけではない。控えの間では記録がまとめられ、使いの者が出入りし、門前では供の馬が引かれていく。戦場のような血の匂いはない。だが、政治の座を終えたあとの館には、別の疲れが残る。
その中で、惟豊はひとまず一段を越えた顔で座していた。
正面には、龍造寺家兼、鍋島清房、龍造寺家宗、石井兼清、小河信安、納富信景、福地信重、百武賢兼、それに野田勢の名代が並んでいる。いずれも戦に敗れ、今日から阿蘇の内に列する者たちだった。
惟種は父の少し後ろ、宗運はその横に控えている。
最初に口を開いたのは惟豊だった。
「此度の沙汰を申し渡す」
座の空気が静まる。
「龍造寺の家は潰さぬ」
家兼が、わずかに顔を上げた。
「だが、いまは阿蘇預かりとする」
惟豊の声は低く、重い。
「譜代と同列には置かぬ。されど、ただの客分としても扱わぬ。預かり衆として列し、それぞれに相応の扶持を与える」
救いであり、同時に線引きでもあった。
「家兼」
「は」
「そなたは龍造寺衆の惣代として家中を束ねよ。いまは家の顔を失うな」
家兼は深く頭を下げた。
「承る」
「清房」
鍋島清房が顔を上げる。
「は」
「そなたは宗運のもとにて実務と兵のことを学び、働け」
そこで座がわずかに動いた。
龍造寺家中の中で、清房だけが半歩、阿蘇の内へ深く入る。
誰もその意味を取り違えない。
清房は静かに頭を下げた。
「承る」
惟豊は続ける。
「家宗」
「は」
「そなたは龍造寺の旗を預かれ。軽々しく折るな」
家宗の顔はなお硬い。
だが、旗を持つことまで奪われなかったのは、家の面目がまだ死んでいないということでもあった。
「石井、小河、納富、福地、百武」
呼ばれた者たちが、それぞれ応じる。
「各々、組を率いて阿蘇の軍に働け。いまは仮の列である。働きによって増しも削りもある」
百武の目に、ほんのわずかに光が戻る。
武で返せる余地がある。
この手の武辺には、それで足りる。
「野田勢は一隊として召し抱える」
名代が頭を下げた。
惟豊は一度、座の全体を見渡した。
「いずれも今は仮の列である」
その言葉が、ひとつずつ腹へ落ちていく。
「忠を尽くし、武功を立てるなら、後に龍造寺の家を改めて立てる道を許す。だが今は阿蘇の内にあって、阿蘇の理に従え」
家兼が、もう一度深く頭を下げた。
「ありがたき沙汰にございます」
それは礼であると同時に、老将としての受け入れでもあった。
惟豊は最後にもう一つだけ言った。
「鍋島孫四郎は若君のそばに置く」
座の空気が、そこで微かに揺れた。
鍋島清房の子、孫四郎。別名 鍋島直茂。
鍋島直茂は、戦で名を上げただけの武将ではない。敗れた主家を見捨てず、しかもその遺領をまとめ上げ、ついには新たな支配の形へと作り替えた男である。今山で武名を轟かせ、沖田畷ののちには乱れた龍造寺家中を束ね、豊臣・徳川という天下人の力を利用しながら肥前の実権を掌中に収めていった。その冷静さと胆力は、乱世を生き延びるための知略であると同時に、佐賀藩二百六十年の礎を据える政治の才でもあった。
まだ若い。だが、若いからこそ、これからの置き場が意味を持つ。
清房は少しだけ間を置き、それから頭を下げた。
「……承る」
忠の証であり、半ば人質であり、また将来の種でもあった。
惟種はそこで初めて、孫四郎へ目を向けた。若い顔だった。だがその目は、ただ怯えているだけではない。座の言葉をよく聞き、自分がどこへ置かれたのかを測っている目だった。
家兼もまた、その処置に異は唱えなかった。
鍋島の若い者を若君の近くへ置く。
それは阿蘇へ下るというより、若君に賭ける意味が強い。
老将はもう、それを否定しなかった。
人が静かに下がっていく。
家兼は老いを崩さず。
清房は考えを隠したまま。
家宗はなお飲み込み切れぬ顔で。
百武は悔しさを残しつつ、それでも武功の場を見つめる顔で。
座が少し静かになったあと、宗運が小さく息を吐いた。
「ひとまずは、ですな」
「うむ」
惟豊は短く答えた。
「終わったようで、終わってはおらぬ」
惟種は黙っていた。
龍造寺は入った。
蒲池は面目を失った。
大友は裁定者の顔を立てた。
今日だけ見れば、阿蘇は勝ったままでいる。
だが、勝った家がそのまま静かに眠れるほど、外は甘くない。
惟豊が立つ。
宗運も立ち、惟種もそれに続いた。
館の外では、風が山を渡っていた。
田はまだ実りを抱え、市はまだ人を吸い、家の内には今日から新たな者たちが加わる。
それだけ見れば、阿蘇はさらに大きくなってゆくように見える。
だが、家が大きくなる時ほど、外の視線もまた濃くなる。
勝ちのあとには、次の火種が残る。
人も、物も、思惑も、そこへ寄ってくる。
阿蘇家は平穏は終わらなかった。




