第四話 田を起こし、市を寄せる
襖が静かに開き、**甲斐 宗運**が入ってきた。
昨夜も見た顔だ。
だが、朝の光の下で改めて見ると印象が少し違う。
月代はなく、頭はすでに法体のものだ。
されど、寺の僧には見えない。衣は地味な色合いで、華美さはないが質がよく、袖の扱いにも歩み方にも無駄がない。経を読む手というより、兵と米を数え、人と国を動かす手だと分かる。
入道の姿を取りながら、館の空気を握っているのは、紛れもなく実務の男だった。
この人なら、話が通る。
**阿蘇 惟種**は、布団の上で少しだけ身を起こした。
まだ身体は重い。けれど、頭の中は先ほどよりずっと澄んでいる。
「宗運、参れ」
「は」
宗運は病床の前へ進み、静かに膝をついた。
昨夜のような探る色はまだ残っている。だがそれだけではない。少なくとも今朝は、こちらの話を聞くつもりで来ている。
「お加減はいかがにございます」
「昨夜よりはましだ」
「それは重畳」
言いながらも宗運の目は、惟種の顔色と呼吸をきちんと見ている。
ただの挨拶ではない。どこまで話が持つかを量っているのだろう。
惟種は、その慎重さにむしろ安心した。
昨夜は夢の話をした。
今朝は現状を整理した。
ならば次は、現実に落とす番だ。
「昨夜のこと、覚えておるな」
「忘れるには、いささか重い話にございました」
惟種はわずかに口元を緩めた。
「夢をそのまま信じよとは申さぬ」
「はい」
「されど、試せることは試すべきだ」
宗運は黙ってうなずいた。
急かしもせず、先回りもせず、ただ相手に続けさせる。そういう聞き方だった。
惟種は、小箱の奥にしまった紙を思い出す。
田。市。兵。病。
今日、話すのはそのうち二つまでだ。
田を主とし、市は軽く触れる。それ以上は欲張らない。
「まずは、田だ」
宗運の目が、わずかに細くなる。
「昨夜も、そのように」
「うむ。戦は飯で決まる」
「左様にございます」
「兵がいても、食えねば終わる。城があっても、蓄えが尽きれば終わる。敵と戦う前に、まず飢えぬ国を作らねばならぬ」
宗運は無言のまま続きを待つ。
「新しく田を開くより先に、いまある田からもっと取れるようにしたい」
「いまある田から、にございますか」
「そうだ」
惟種は少し息を整えた。
「夢では、田をただ耕してはおらなんだ」
宗運の眉が、ほんのわずかに動いた。
「夢ではこうやっていた。
水の多い田、痩せた田、草に負ける田――同じようには扱わなんだ。
まず水を見て、次に種を選り、草を減らし、痩せた田には力を足しておった」
自分で口にしながら、惟種は前世の断片的な知識を、夢の光景として言い換えているのを感じていた。
それでいい。
むしろ今の自分には、その方が正しい。
「水を見直す。足りぬ田と、余る田があるはずだ。そこを揃える」
「ふむ」
「次に、種だ。良いものを残し、悪いものを捨てる」
宗運は口を開いた。
「良いもの、とは」
「夢では、実りの悪いものは軽く、良いものは重かった」
「重い」
「水に入れると、浮くものと沈むものがあった。浮くものは捨て、沈むものを残しておった」
宗運は黙り込んだ。
夢の話として聞くには妙に細かい。だが荒唐無稽というほどでもない。そういう顔だった。
「なるほど……」
「すべてがその通りとは限らぬ。だが、試す価値はあろう」
「ございますな」
宗運はすぐには頷かず、一度言葉を噛んでから答えた。
そこがこの男らしい。
「さらに、草だ。夢では、草も田の敵として扱っておった」
「草を」
「放っておけば、田の力を食う。抜け」
「百姓は申しましょうな。草取りで腹は膨れぬ、と」
「ならば、実りが違うところを見せればよい」
宗運の目が少しだけ深くなる。
「それと、山の草だ」
「山の草、にございますか」
「刈って、田へ戻す。痩せた田には、何かを足さねばならぬ」
夢の中では、もっと整理されていた気がする。
だが今の自分に言えるのはこの程度だ。
「夢では、山の草まで田の力に変えていた」
その一言に、宗運ははっきりと考え込んだ。
百姓仕事を知らぬ若君の思いつき、と片づけるには具体性がある。だが、全面的に信じるにはまだ足りない。そんな顔だ。
「若君」
「何だ」
「水をいじり、種を選り、草を抜き、さらに山の草まで運ぶとなれば、村の手間は増えましょう」
「増えるだろうな」
「百姓は嫌がります」
「嫌がる」
惟種はあっさり認めた。
宗運の目がわずかに動く。
ここで神の夢だ何だと押し切る若君なら扱いは簡単なのだろう。だが惟種はそうしない。
「だから、いきなり広げるな」
「……小さく試す、にございますな」
「そうだ。ひとつか、ふたつ。御料に近い田でよい」
「失敗しても、言い逃れの利くところで」
「うむ」
宗運はそこで、ようやく小さく頷いた。
「それなら立ちますな」
「何がだ」
「名目です。若君のご快癒祈願として田の手入れを改めた、とでも申せば、余計な詮索を減らせましょう」
惟種は宗運を見返した。
やはり早い。
話の意味を拾うだけでなく、それを通す名目まで即座に考える。
「水の見立ては誰にやらせる」
「井手に詳しい者をひとり。村の事情に通じた者をひとり。あとは口の軽くない者を選びます」
「種は」
「まずは御料で見本を作ります。百姓は、見たこともない話には腰が引けますゆえ」
「よい」
宗運はそこで一度言葉を切った。
「ただし、二度作る話は急ぎませぬ」
惟種は少しだけ眉を上げる。
「なぜだ」
「土地を選びます。欲をかいて最初から広げれば、かえって田を疲れさせるやもしれませぬ。まずは水、種、草、そこまでで様子を見る方が確かです」
惟種は、内心でうなずいた。
そうだ。
そこが宗運の強さだ。
自分は未来知識の断片を持っている。
だが、この土地の実情、この時代の制約、人の心の動きは、宗運の方がはるかに強い。
「宗運」
「は」
「そなたは正しい。急ぐな。だが遅れるな」
宗運の目が、わずかに鋭くなる。
「肝に銘じます」
惟種は少しだけ息を吐いた。
ここまではよい。
そして、次だ。
「ただ、田は実るまで時がかかる」
「左様にございます」
「待つ間に、市にも少し手を入れたい」
宗運の眉が、今度こそわずかに上がった。
驚いたというより、そこまで見ていたか、という顔だった。
「市、にございますか」
「うむ。田は土の中だ。成果が見えるまで時がかかる。だが市は、人の出入りが増えれば変わったことが早く見える」
宗運は黙って聞いている。
「役を軽くする」
「市の役を」
「すべてではない。ひとつかふたつでよい。まずは門前か、館に近いところだ」
「……商人を寄せるためにございますな」
「そうだ。物が集まれば、人が集まる。人が集まれば、噂も銭も集まる」
宗運はそこで、ほんの少しだけ口元に手を当てた。
「田は時がかかる。市は、それより先に動くやもしれませぬな」
「だから両方だ」
惟種はそう言い切った。
「田だけでは遅い。市だけでは腹が減る。だから、どちらも要る」
宗運は何も言わず、しばらく惟種を見ていた。
その目にあるのは、昨夜のような「夢を見る子ども」への警戒だけではなかった。
この若君は何をどこまで考えているのか。そう量る目だった。
「若君」
「何だ」
「夢をそのまま信ずるほど、私は甘くありませぬ」
「分かっておる」
「田の話には理がございます。市の話にも筋はある。ですが、どちらも全部がその通りに運ぶとは限りませぬ」
「それでよい」
惟種は即座に答えた。
「全部を鵜呑みにする家臣など、かえって恐ろしい」
宗運の目がわずかに細くなった。
「使えるものは使え。危ういものは止めよ。間違いは捨てよ」
「……若君は、それでよろしいので」
「夢を現にするのは、そなたの役目でもある」
その言葉に、宗運は深く頭を下げた。
「承りました」
惟種はそこでようやく少し肩の力を抜いた。
受け取った。
全面ではない。だが確かに受け取った。
「市は、どこから触る」
宗運はすぐに答えた。
「門前がよろしいかと」
「理由は」
「人が集まる理がございます。神前に近く、名目も立つ。荒事を禁じ、役を少し軽くすれば、商人も様子を見に来ましょう」
「館近くではなく」
「館近くはいずれでよろしい。まずは“安心して物が売れる場”と見せることが肝要にございます」
惟種はうなずいた。
なるほど。
市の理屈は分かっても、どこから手を付けるのが自然かは、やはり宗運の方がよく知っている。
「役を軽くするのは、ひとつだけでよい」
「はい」
「欲を出すな。商人が寄る気配だけ見せればよい」
「承知いたしました」
そこで惟種は少しだけ咳き込んだ。
やはり長く話すときつい。胸の奥にまだ熱の名残がある。
宗運はそれを見て取ったのだろう。声を和らげた。
「今宵のところは、ここまでにいたしましょう」
「まだ兵のことも――」
「それは、田と市が動き出してからでも遅くはございますまい」
惟種は少しだけ口をつぐむ。
悔しいが、正しい。
一度に多くを抱えれば、よい知恵も潰れる。
宗運は病み上がりの惟種を見ながら、さらに続けた。
「若君のお考えは、まだ他の者には広げませぬ」
「うむ」
「御屋形様――**阿蘇 惟豊**様にも、まずは小さき成果を見てから申し上げる方がよろしいかと」
「それでよい」
「では私は、田を見る者と、市に手を入れる口実を整えます」
惟種は小さくうなずいた。
「宗運」
「は」
「昨夜も今朝も言ったが、時間がない」
宗運は正面から惟種を見返した。
「国にも、家にも、若君にも――にございますか」
惟種は一瞬だけ黙り、それからうなずいた。
「そうだ」
宗運はそれ以上、問わなかった。
だが、その沈黙の中で何かを受け取った顔をしていた。
「急ぎましょう」
それだけ言って、深く頭を下げる。
惟種は、その姿を見つめた。
入道の姿をした重臣。
だが祈るだけの僧ではない。
人と米を数え、村を動かし、家を支える男だ。
この男がいるなら、まだやれる。
「今日はここまでだ」
「は。若君はどうか、お休みくだされ」
宗運は静かに立ち上がり、襖の前で一度だけ振り返った。
「若君」
「何だ」
「田も市も、すぐには実を結びませぬ」
「分かっておる」
「ですが、今から手を入れねば、五年後も何も変わりませぬ」
惟種は、ほんの少しだけ笑った。
「だから今からやるのだ」
宗運は一礼し、部屋を出ていった。
襖が閉じる。
静けさの戻った部屋で、惟種は長く息を吐いた。
疲れた。だが悪くない疲れだ。
小箱の中には、折りたたんだ紙がある。
田。市。兵。病。
宗運に話したのは、そのうちまだ田と市だけだ。
それでいい。
一度に全部を語れば、夢物語で終わる。
ひとつずつ。小さく。確かに。
まずは田を起こす。
次に市を寄せる。
その先に、兵と病の話がある。
惟種は目を閉じた。
宗運は使える。
だが盲信はしない。
それがありがたかった。
**阿蘇**を守るには、夢を見る者だけでは足りない。
夢を削り、現実に変える者が要る。
そう思いながら、惟種は浅く呼吸を整えた。
次に話す時には、もう少しだけ先へ進めるはずだ。




