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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第三十八話 家兼の決断

 天文十五年(一五四六年)九月。


 戦場には、まだ血と火薬の匂いが残っていた。


 阿蘇の兵は追撃を控え、負傷者の救護と戦場の整理に取りかかっている。菊池勢は崩壊し、蒲池勢は撤退。最後まで抵抗を続けていた龍造寺勢も、家兼の命によって武器を下ろしていた。


 阿蘇にも少なからぬ死傷者が出ている。


 とりわけ龍造寺の百人は、数で勝る阿蘇左翼を押し込むほどの働きを見せた。宗運が中央から兵を回して包囲へ移らなければ、さらに損害は増えていたかもしれない。


 惟種は宗運とともに、負傷した兵が運ばれていく様子を見ていた。


 これまでにも戦は経験している。


 だが、自分たちで鍛えた常備兵と、作り上げた鉄砲をこれほど大きく動かした戦は初めてだった。


 常備兵は期待以上に動いた。


 鉄砲も役に立った。


 地図も、巡検も、訓練も無駄ではなかった。


 それでも、勝ったからといって喜べることばかりではない。つい先ほどまで元気に話していた兵が、今は担架に乗せられている。


 その光景を見ていると、胸の奥が落ち着かなかった。


「若君。龍造寺家兼殿がお見えです」


 宗運の声に、惟種は顔を上げた。


「うむ。会おう」


 ほどなくして、龍造寺家兼が鍋島清房、龍造寺胤栄らを伴って姿を現した。


 九十を過ぎた老人である。


 さすがに戦の疲れは隠せず、歩みもゆっくりとしている。それでも眼差しに衰えはなく、周囲を確かめながら進む姿には、長い年月を戦場で生き抜いてきた者だけが持つ落ち着きがあった。


 惟種は、その姿を見ながら思う。


(……本当に九十を超えているのか)


 前世から、龍造寺家兼という人物は知っていた。


 一族を失い、老齢になってなお龍造寺再興を諦めなかった執念の人だ。


 だが、実際に目の前で見ると、その凄みは想像していた以上だった。


 一方、家兼も惟種を見ていた。


 阿蘇の若君が幼いことは聞いている。


 それでも実際に対面すれば、驚かずにはいられなかった。


 まだ六つほどの童である。


 この童が鉄砲を並べ、兵を動かし、数に勝る連合勢を破ったというのか。


 もちろん、その傍らには甲斐宗運がいる。家兼自身、この男の用兵は戦場で嫌というほど見せつけられた。阿蘇の勝利が童一人の才覚だけによるものではないことくらい、よく分かっている。


 それでも。


 この童が阿蘇という家の中心にいることも、また疑いようがなかった。


 家兼は惟種の前まで進むと、静かに頭を下げた。


「龍造寺家兼にございます」


「阿蘇惟種だ。まずは兵を収めてくれたこと、礼を言う」


「礼など、とんでもございませぬ。我らは敗れた身にございます」


 家兼は一度言葉を切り、改めて惟種を見据えた。


「此度、阿蘇へ兵を向けたのは某の判断にございます。蒲池殿への恩義があったとはいえ、出陣を決めたのは某。家中の者は、その命に従ったまでのこと」


 その声に迷いはなかった。


「すべて某の責任にございます。咎はそれがしが取りますゆえ、どうか兵たちには寛大な処置をお願いしたい」


 惟種は家兼を見つめた。


 降伏した以上、何らかの責任を問われることは覚悟しているのだろう。


「どのように責任を取るつもりだ」


「某の首にて」


 家兼はそう答えると、腰に残していた脇差へ手を掛けた。


 降伏の申し入れに来た老将への礼として、宗運は護衛を付けたうえで脇差の帯刀を許していた。


 だが、その刃が抜かれた瞬間、周囲の阿蘇兵が動いた。


 家兼は構わず切っ先を自らの喉元へ向ける。


「いらぬわ!!」


 惟種の声が響いた。


 あまりの大声に、家兼の手が止まる。


 宗運もすでに腰を浮かせていたが、惟種の声を聞いて動きを止めた。清房は慌てて家兼の傍らへ寄る。


「家兼様!」


「……某の首は、いらぬと?」


 家兼は切っ先を下げながら、信じられぬものを見るように惟種を見た。


「うむ。いらぬ」


「されど、我らは阿蘇へ兵を向けた身。何の咎もなしとは参りますまい」


「咎を問わぬとは言っておらぬ。だが、家兼殿の首を取ったところで何になる。おぬしが死んでも、龍造寺の兵が減っても、わしには何の得もない」


 惟種は宗運を見た。


 宗運も、惟種が何を言い出すのか察したらしい。


 開戦前から、龍造寺はできる限り戦そのものから外したいと話していた。そのために宗運自身が左翼へ動き、全滅させるのではなく囲む形を選んだ。


 宗運は僅かに頷いた。


 惟種は家兼へ向き直る。


「首などいらぬ。わしが欲しいのは、おぬしらよ!」


「……我らを?」


「そうだ。龍造寺家兼、鍋島清房、胤栄、それに龍造寺の将兵たち。百人で阿蘇の二百人を押したではないか。あれほどの者たちを、むざむざ失うなど惜しいにもほどがある」


 家兼は黙って聞いていた。


 敵であった惟種が、自分たちの働きを高く評価している。


 それは分かる。


 だが、敗れた龍造寺をこの童がどう扱うつもりなのかまでは、まだ見えない。


「そもそも、龍造寺は再興を目指しているのであろう?」


「……いかにも」


「大いに結構!」


 惟種は勢いよく頷いた。


「ならば、その再興、わしが行ってやる!」


「……は?」


 家兼は思わず聞き返した。


「龍造寺の旧領を取り戻し、もう一度その旗を立てる。おぬしらが望んでいるのはそれであろう?」


「それは……」


「ならば阿蘇の力を使えばよい。わしが責任を持って成し遂げてやる!」


 家兼は言葉を失った。


 つい先ほどまで、自分は龍造寺をどう生き残らせるかだけを考えていた。


 菊池は崩れ、義武も鹿子木も死んだ。


 頼みとしていた蒲池には殿を押しつけられ、自分たちだけを残して撤退された。


 龍造寺再興のために頼れる相手は、ほとんど失われたと思っていた。


 その蒲池も菊池も破った阿蘇が、今度は龍造寺を再興させてやると言っている。


 家兼は、阿蘇軍の強さを身をもって知っている。


 鉄砲だけではない。


 兵の統制、部隊の動き、甲斐宗運の用兵。


 阿蘇が本気で力を貸すのであれば、龍造寺の再興はもはや夢物語ではなかった。


 だからこそ、確かめねばならない。


「若君。つまり、我らを阿蘇の兵として使われると?」


「当然だ。阿蘇についてもらう以上、働いてもらわねば困る」


「……使い潰すおつもりか」


 家兼の問いに、惟種は眉をひそめた。


「使い潰す? 何を言っておる。そんなことをするわけがなかろう」


 少し呆れたように首を振る。


「わしは、おぬしらを高く買っておる。それに――」


 惟種は家兼をまっすぐ見た。


「少なくとも、わしは家兼殿を尊敬しておる」


「……某を、ですか」


「うむ。九十を過ぎてなお戦場に立ち、一族を失っても家を立て直そうとしておる。わしには同じことができるとは思えぬ」


 家兼の表情が僅かに変わった。


「その執念がどれほどのものか、すべて理解できるとは言わぬ。だが、簡単にできることではない。それくらいは分かる。一人の男として、尊敬に値する」


 取り繕っているようには見えなかった。


 家兼は長く生きてきた。


 敵から罵られたこともあれば、味方から持ち上げられたこともある。老いた身を気遣う言葉なら、数え切れないほど聞いてきた。


 しかし、六歳の童から一人の男として尊敬していると言われる日が来るとは思わなかった。


「それに、家兼殿」


 惟種が少し身を乗り出した。


「龍造寺の旧領を取り戻したところで、そこで終わるつもりはないぞ」


「……と、申されますと?」


「わしについてくるなら、旧領どころではない。もっと凄い景色を見せてやる!」


 惟種の顔に笑みが浮かぶ。


 家兼は、その変化に気づいた。


 それまでの惟種は、幼いながらも勝者としての立場を理解し、言葉を選んでいるように見えた。


 ところが今は違う。


 何か面白いことを思いついた童のように、目を輝かせている。


「家兼殿は、天下をどう思う?」


「天下……にございますか」


「うむ。武家が天下を語れば、都へ上り、将軍を支え、あるいはその上へ立つ。おおよそ、そのような話になるであろう?」


「さように考える者が多うございましょう」


「だがな、わしはそれだけでは足りぬ」


 家兼は目を細めた。


 阿蘇はまだ九州の一勢力である。


 今回の勝利がいかに見事だったとしても、天下を語るには遥かに遠い。


 それなのに、目の前の童は天下を取れるかどうかではなく、その先を語ろうとしている。


「そ、それは……いったい何を望まれるので?」


 惟種は待っていたとばかりに笑った。


「天下のその先よ!!」


「天下の……先?」


「そうだ! 家兼殿、世界は広いぞ! 明も天竺も南蛮もある。海の向こうには、わしらの知らぬ国も、品も、知恵も山ほどある!」


 惟種は、いつの間にか身を乗り出していた。


「わしはそれを見たい。大きな船を造って海を渡り、遠い国の者と会い、互いの品や知恵を持ち寄る。九州の中だけで争っていては、一生見られぬ景色があるのだ!」


 家兼は圧倒されていた。


「龍造寺の再興など、そこで終わりではないぞ。旧領を取り戻し、国を豊かにし、兵を鍛え、その先へ進む」


 惟種は家兼へ手を伸ばした。


「わしについてくるなら、おぬしらにも見せてやる。まだ誰も見たことのない景色を、な!」


 その声は、戦場で命令を飛ばしていた時とはまるで違っていた。


 家兼はしばらく何も言えなかった。


 天下統一を望む者なら、これまでにもいた。


 大きな野心を語る武将も珍しくはない。


 だが、この若君は天下を手に入れた後のことを楽しそうに語っている。


 まるで天下を治めることさえ、その先へ進むための道の一つにすぎないというように。


 家兼には、その景色が想像できなかった。


 自分は九十余年を生き、ようやく「龍造寺を再興する」という願いだけを追ってここまで来た。


 それだけでも、途方もなく遠かった。


 ところが目の前の童は、その願いを当然のように引き受け、さらに遥か先を見ている。


(……まぶしいのう)


 家兼は心の中で呟いた。


 自分が、その景色を見ることはあるまい。


 九十を過ぎた身だ。


 明日命が尽きても不思議ではない。


 龍造寺の再興すら、自分の目で見届けられるかどうか分からない。


 だが、清房や胤栄たちは違う。


 これから先を生きる者たちならば、この若君とともに、その景色を見ることができるかもしれない。


 家兼は惟種の顔を改めて見つめた。


 先ほどまで、あれほどの軍を相手に戦っていた将とは思えないほど、無邪気に笑っている。


 それでも、この童の話をただの夢物語と片付けることはできなかった。


 すでに阿蘇は、田を増やし、市を広げ、鉄砲を揃え、常備兵まで作り上げている。


 何より、家兼自身がその力を戦場で味わった。


 夢を語るだけの童ではない。


 夢を、一つずつ形にしている。


(戦場では鬼。夢を語れば童……)


 家兼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


(鬼童、か……)


 なるほど。


 これほど奇妙な呼び名もないが、これほど似合う呼び名もない。


 家兼は気づけば、小さく笑っていた。


「……ふ、ふふ」


 突然笑い始めた老将に、惟種が不思議そうな顔をする。


「家兼殿?」


「いや、失礼いたした。九十余年生きてまいりましたが、これほど愉快な話を聞いたのは初めてにございます」


 家兼は笑みを収め、ゆっくりと姿勢を正した。


 その眼差しには、もう迷いがなかった。


「若君。一つ、お願いがございます」


「何だ?」


「某は老い先短い身。若君の仰せになる景色を見ることは、叶わぬでしょう」


 惟種が何か言おうとしたが、家兼は穏やかに続けた。


「されど、龍造寺にはまだ若い者がおります。清房も、胤栄も、これから家を支える者たちも」


 家兼は背後にいる二人へ目を向けた。


「どうか、その者たちに見せてやっていただきたい。某には見られぬ、天下のその先を」


 惟種は大きく頷いた。


「無論だ! そのためにも、まずは龍造寺を再興せねばならぬな!」


「……ありがたき幸せ」


 家兼は深々と頭を下げた。


 清房と胤栄は僅かに顔を見合わせた。


 龍造寺家兼が、これほど迷いなく他家の若君へ頭を下げる姿など、二人とも見たことがない。


 だが、異を唱える者はいなかった。


 龍造寺が求め続けてきたものを、阿蘇は与えると言っている。


 しかも、それを実現できるだけの力を、この戦で自ら示した。


 家兼は顔を上げると、惟種へ静かに告げた。


「分かり申した」


 そして、改めて深く頭を垂れる。


「龍造寺一同、これより阿蘇家の指図に従いまする」

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