第三十七話 老将の決意
天文十五年(一五四六年)九月。
蒲池の本体が背後から鉄砲を撃ちかけられた頃、龍造寺家兼はなお阿蘇軍の左翼と向き合っていた。
龍造寺の兵は百。対する阿蘇勢は二百。数では倍の開きがあったが、戦いは龍造寺が押していた。
鍋島清房が兵をまとめ、胤栄らが前へ出る。阿蘇の槍列はよく耐えていたものの、龍造寺の攻めを受けて少しずつ後退していた。阿蘇側にも死傷者が出ており、決して一方的な戦いではない。
しかし、家兼は勝てるとは思っていなかった。
阿蘇の兵は押されても崩れず、負傷者を後ろへ下げながら隊列を保っている。さらに中央から甲斐宗運が兵を率いて動き、龍造寺勢の側面へ回り込み始めていた。
こちらが前へ出るほど、囲みは深くなる。
「……厄介な男よ」
家兼は宗運の動きを目で追った。
阿蘇左翼の兵を押していたはずが、いつの間にかこちらが引き込まれつつある。宗運は力任せに押し返そうとはせず、龍造寺の前進を利用して包囲を進めていた。
そこへ、戦場の様子を探らせていた者が戻ってきた。
「申し上げます。菊池勢が崩れました。義武殿、鹿子木殿、ともに討死とのことにございます!」
「……両名ともか」
「はっ。また、蒲池の前衛も退いております。中央で阿蘇の鉄砲を受け、戦列が半ば崩れた模様!」
家兼は中央へ目を向けた。
白煙が風に流れ、その向こうでは蒲池の旗が後方へ移動している。少し前まで繰り返し響いていた銃声も、今は間隔が開いていた。
初めて見た時は、何が起きているのか分からなかった。
鉄砲が恐ろしい武器であることは知っている。しかし、これまで聞き及んだ鉄砲は、一度撃てば次の支度に時を要するものだった。
ところが阿蘇は、兵を組に分けて順に撃たせていた。一組が撃ち終われば次の組が前へ出る。銃声が重なるたびに白煙が広がり、蒲池の兵は前へ進もうとしても足を止められる。
その間も阿蘇の槍兵は隊列を崩さず、敵が近づけば押し返す構えを保っていた。
「それにしても、鉄砲にこのような使い方があったとは……」
家兼は思わず感嘆した。
鉄砲の数もさることながら、兵が命じられたとおりに動いていることが恐ろしい。あれだけ撃ち続けながら、阿蘇の中央は少しも乱れていなかった。
蒲池の兵には、もともと命を懸けて阿蘇を滅ぼす理由がない。あれほどの火を浴びせられれば、退こうとするのも無理はなかった。
「家兼様!」
清房が馬を寄せてきた。
「蒲池の本体も退き始めております。阿蘇の別働隊が林から現れ、後方を脅かしているとのこと」
「本体までか」
「このままでは我らだけが残されます」
家兼は周囲を見渡した。
菊池の旗はすでに見えず、蒲池の前衛も後詰も退こうとしている。龍造寺はまだ戦えるが、阿蘇の包囲は着実に狭まっていた。
この戦の勝敗は、もはや明らかだった。
その時、蒲池の方角から一騎の使者が駆けてきた。
「龍造寺家兼様! 蒲池鑑盛様よりのお言葉にございます!」
使者は馬を降り、息を整える間も惜しんで口を開いた。
「蒲池勢はこれより撤退いたします。龍造寺勢はこの場を死守し、蒲池の兵が退き終わるまで阿蘇勢を引きつけよ、とのことにございます」
胤栄が眉をひそめた。
「……死守せよと?」
「はっ。さらに、見事この場を守り抜かれたならば、今度こそ龍造寺再興のために兵を貸す、と仰せにございます」
その言葉に、龍造寺の将たちが顔を見合わせた。
百人で阿蘇の包囲を受け止め、蒲池の兵が逃げ切るまで戦い続けろという。しかも、それを果たせば龍造寺の再興を助けるというのである。
「何を申しておる!」
胤栄が声を荒らげた。
「我らにここで死ねと言うのか! 守り抜けたところで、兵も将も失っては何を再興するというのだ!」
「胤栄、控えよ」
家兼の一言に、胤栄は口を閉じた。
使者もまた、困惑を隠せぬ様子だった。鑑盛の言葉を伝えるのが役目であり、それ以上のことを答えられる立場ではないのだろう。
「鑑盛殿の言葉は分かった。戻られよ」
家兼がそう告げると、使者は頭を下げ、急いで馬へ戻った。
その背を見送りながら、清房が低く言った。
「……我らを殿にするつもりですな」
「そういうことよ」
「蒲池勢が退き終わる頃には、こちらの囲みは閉じておりましょう」
家兼もそれは理解していた。
蒲池鑑盛の判断が分からぬわけではない。菊池が壊滅し、前衛四百も崩れ、後詰の背後にまで阿蘇兵が現れた。これ以上戦えば、蒲池自身が大きな損害を受ける。
ならば、自軍を退かせたいと思うのは当然だった。
そして、その退却を守らせるには、今も阿蘇兵と戦っている龍造寺が都合よい。
「……蒲池は、我らを助ける気はなかったのだろうな」
家兼は静かに呟いた。
かつて落ち延びた自分たちを匿ってくれた恩はある。あの時に居場所を与えてもらえなければ、龍造寺は再起を考えることすら難しかった。
だからこそ、今回の出兵にも応じた。
しかし、蒲池が龍造寺を守るために戦っているわけではないことも、今となっては明らかだった。
「蒲池には恩がある。それは忘れぬ。だが、我らがここで滅んでも、鑑盛殿は兵を退かせるのであろう」
清房は何も答えなかった。
家兼は再び戦場へ目を向けた。
阿蘇の槍列はなお整っている。宗運の兵も回り込みを続けており、龍造寺が退くために使える道は狭まっていた。
こちらは百人で二百人を押した。阿蘇にも損害を与えている。それだけの働きをした兵たちを、これ以上失う必要があるのか。
「家兼様」
胤栄が進み出た。
「まだ戦えます。囲みが閉じる前ならば、突破もできましょう」
「うむ。できるやもしれぬ」
家兼はあっさりと認めた。
龍造寺の兵はよく戦っている。百人とはいえ、実戦を重ねた者も多く、今なお士気は衰えていない。全力で一方を突けば、包囲を破る望みは残っていた。
「だが、突破してどうする」
「それは……」
「菊池は崩れ、蒲池は退いた。我らがここから逃れたとして、その先で誰が迎えてくれる」
胤栄は答えられなかった。
家兼は声を荒らげなかった。ただ、目の前の戦場を示した。
「ここで十人失うか、二十人失うか。あるいは五十人か。その者たちを失って、龍造寺をどう立て直す」
「されど、このまま敵に降るなど……!」
「降るのが恥か」
胤栄が顔を上げた。
「わしとて、敵に頭を下げたいわけではない。だが、龍造寺は一度滅んだも同然の身よ。ようやく集めた者たちを、ここでまた失うわけにはいかぬ」
家兼は九十を越えている。
一族を失い、追われ、ようやく再興への道を探し始めた。そのために生き延びてきたのであって、戦場で華々しく死ぬためではなかった。
蒲池への義理は、百人の兵を出し、自らも戦場に立つことで果たしたつもりだった。
「わしはこの戦で武功を立てようと思っておらぬ。百を連れて帰るために来たのだ」
家兼は一度言葉を切り、胤栄と清房を見た。
「これ以上は無駄よ」
その言葉には、諦めよりも強い決意があった。
「まだ戦えることと、戦うべきことは違う。蒲池が退いた今、我らがここで何人討ち取ろうと、戦の勝敗は覆らぬ」
清房が静かに頷いた。
「仰せのとおりかと。阿蘇は我らを押し潰すこともできたはずですが、宗運は囲みを進めることを優先し
ております」
「うむ。わしも気になっておった」
阿蘇の左翼は龍造寺の攻撃に耐え、その間に宗運が兵を回している。包囲を完成させれば、こちらの逃げ道は断たれる。
ただ、それだけの兵を動かせるなら、もっと強く攻め立てることもできたはずだった。
宗運が何を考えているのか、家兼にも確かなことは分からない。
だが、降伏を申し入れる余地はあるかもしれなかった。
「清房。阿蘇は我らを受け入れると思うか」
「分かりませぬ。ただ、今のところ我らを討ち尽くそうとする動きには見えませぬ」
「そうか」
家兼は小さく頷いた。
降伏したからといって、必ず命が助かるとは限らない。将だけが討たれることもあれば、兵を捕られ、その後の処遇が分からぬこともある。
それでも、戦い続けるよりは道が残る。
「家兼様……」
胤栄はなお納得しきれぬ様子だった。
家兼はその顔を見て、わずかに笑った。
「悔しいか」
「……はい」
「ならば覚えておけ。今日、我らを追い詰めたのは何か。阿蘇の兵はよく鍛えられておった。鉄砲の使い方も、兵を回す手際も、我らの知る戦とは違う」
家兼は阿蘇の陣を見つめた。
「負けたことを忘れるな。だが、その悔しさだけで命を捨てるな。生きておれば、学ぶこともできよう」
胤栄はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
家兼は清房へ向き直った。
「兵を止めよ。これ以上、無駄に傷を増やすな」
「はっ」
「ただし、勝手に退かせるな。阿蘇に追われれば、かえって損害が増える。旗を伏せ、戦う意思のないことを示せ。使者も立てるのだ」
清房はすぐに命を伝えた。
前列ではなお槍を合わせていた兵たちが、突然の指示に戸惑いを見せた。阿蘇兵も容易には警戒を解かない。それでも龍造寺の旗が伏せられ、戦闘を止める合図が伝わるにつれ、両軍の間にわずかな距離が生まれ始めた。
家兼はその様子を見届けた。
百人すべてを無事に帰せるとは、もはや言えない。すでに倒れた者もいる。だが、ここで戦を止めれば、まだ多くを残せる。
それでよかった。
いや、今はそれしかなかった。
清房が戻り、家兼の前で膝をついた。
「兵には伝えました。阿蘇へも使いを出します」
「うむ」
「家兼様は、いかがなされますか」
家兼はゆっくりと馬の向きを変えた。
その先には、甲斐宗運の率いる阿蘇軍がある。
相手が何を求めるかは分からない。それでも、兵の命を預かる者として、最後は自ら話をつけねばならなかった。
家兼は周囲の将たちを見渡し、静かに命じた。
「皆、武器を下ろせ」
そして、阿蘇の陣へ目を向けた。
「わしが決着をつける」




