第三十九話 三家の座
阿蘇の館では、まだ戦の音はしていなかった。
だが、静かだからといって安らかではない。
静かな時ほど、遠くの動きが近く感じられる。
惟豊は朝から座を立たずにいた。
宗傳が帳面を開き、留守居の役目を一つずつ片付けていく。門前の警固、蔵の開け閉め、道の見張り、馬の差配、兵糧の積み出し。戦は前線だけで起きるものではない。出した兵を崩さず、残した家を空にせぬのもまた戦だった。
昼がまだ深くならぬうちに、門の方で急ぎの声が上がった。
館の空気が、すっと変わる。
「戦場より急報!」
惟豊は顔を上げた。
「通せ」
入ってきた走り役は、土と汗にまみれていた。馬を飛ばしてきたのだろう、息もまだ整いきっていない。だが、膝をついたその姿に崩れはなかった。
「申せ」
「勝ちにございます!」
その一言で、座の空気がまず変わった。
だが惟豊は動かない。
「誰が」
「阿蘇にございます。龍造寺方、突撃を止められ、退き筋を押さえられ、ついに槍を伏せました。若君ご無事、宗運様ご無事」
宗傳が小さく息を吐く。
惟豊もまた、そこでようやく一つだけ息を抜いた。
勝ちも大事だが、それ以上に、出した骨が折れていないことが大事だった。
「龍造寺は」
惟豊が問う。
「家兼殿みずから首を差し出す構えを見せられました」
「……ほう」
「されど、若君が『首はいらぬ』と」
宗傳が顔を上げる。
惟豊は何も言わない。だが目は先を促していた。
「兵を止め、槍を伏せ、いまは阿蘇に下れと。家名は消さず、忠と武功を立てれば、後に道を開くと申されました」
座が静まり返る。
惟豊は、その報をしばらく黙って受けた。
惟種らしい。
だが、らしいで済ませられる軽さではない。
龍造寺の首ではなく、家そのものを取る。
それは勝ち方としては大きい。だが同時に、その分だけ外の目も重くなる。
「鍋島は」
「鍋島清房も、いまは兵を抑える側へ回っております」
「百武、家宗は」
「悔しさは強いようですが、家兼殿の命に従い、槍を下ろしました」
惟豊はうなずいた。
「よい。続けよ」
走り役は、そこでさらに声を低くした。
「もう一つ」
「何だ」
「蒲池より使者が参りました」
宗傳の顔つきが変わる。
「早いな」
「はい。しかも――」
走り役は一度、唾を呑んだ。
「此度の働き、蒲池家は関知せず。龍造寺が勝手に兵を進めたこと。蒲池は後詰に備えたのみで、攻め入る真意などなかったと」
宗傳が、低く息を吐いた。
「切ったか」
「はい」
惟豊の眉が、ごくわずかにだけ動く。
蒲池は、迷った末に切ったのではない。
負けを見た瞬間、迷わず切ったのだろう。
「若君は」
「『ならば龍造寺を返す先は、もはや蒲池ではあるまい』と」
その言葉に、惟豊はほんの少しだけ目を閉じた。
間違ってはいない。
むしろ、理としてはきれいすぎるほどきれいだ。
蒲池が関知せずと言い切った以上、龍造寺を預かる筋は阿蘇に立つ。
だが、その筋が立つということは、同時に阿蘇が龍造寺を呑み込む形になるということでもある。
大友が見逃すはずがない。
「宗運は何と」
「龍造寺兵の手当てを優先し、主立った者の身柄と兵の離散を抑えるとのことにございます。また、蒲池へ向かう支度は見せるが、すぐには踏み込まぬと」
惟豊はそこではじめて、はっきりとうなずいた。
「よい」
それは勝ちを誉めたのではない。
勝ったあとに崩れぬ順を踏んでいることへの「よい」だった。
「下がって休め」
走り役が退く。
人が去ると、座の中には重い静けさが落ちた。
宗傳が先に口を開く。
「戦そのものは、こちらの望む以上の形で終わりましたな」
「うむ」
「龍造寺が流れ、蒲池が切った。となれば」
「次は大友だ」
惟豊の声は低かった。
宗傳も黙ってうなずく。
この流れで、大友が口を出さぬはずがない。
肥後の秩序を預かる顔を持つ以上、阿蘇が龍造寺を取り込み、さらに蒲池へまで手を伸ばすのを黙って見てはいまい。
その予感が座に落ちたのと、ほとんど同じ時だった。
廊下の外で、また別の足音が止まる。
「豊後より急使!」
宗傳が惟豊を見る。
惟豊は短く言った。
「通せ」
今度の使者は、先ほどの戦場の使いとは違っていた。
埃はかぶっている。急ぎで来たのも同じだ。
だが、その姿勢には最初から“主命を運ぶ者”の硬さがある。
使者は座の前に膝をついた。
「大友義鑑公より、阿蘇殿へ仰せにございます」
惟豊は目だけで先を促した。
「此度、龍造寺・蒲池・阿蘇の間に起きた働き、肥後筑後の境を乱すこと少なからず。これを私戦のまま捨て置くべからず」
やはり来た。
宗傳は表情を変えない。
だが惟豊には、その無表情の裏にあるものがよくわかった。
「ゆえに」
使者は続ける。
「大友家は肥後の秩序を預かる家として、此度の件を聞き定める。蒲池当主、阿蘇当主、双方出座のうえ、龍造寺の扱い、戦後の始末、境目の鎮撫につき、三家の座を設くべし――との仰せにございます」
館の中がしんと静まった。
戦のあとを、自分たちの理で閉じさせぬ。
そのための手だ。
しかも、早い。
こちらが龍造寺を完全に固め、蒲池への問いを重くする前に、大友の秩序の中へ引き戻そうとしている。実に義鑑らしい。
「場所は」
惟豊が問う。
「阿蘇本拠がよかろうとの意にございます」
宗傳の目がわずかに細くなる。
配慮に見せかけた手だ。
阿蘇の顔を立てるように見せて、その実、阿蘇の内で大友の裁きの座を開かせる。
「日取りは」
「五日後」
短い。
考える間を、必要な分だけしか与えぬ日取りだった。
惟豊は、しばらく答えなかった。
断ることはできる。
理屈の上では。
攻められたのは阿蘇であり、勝ったのも阿蘇だ。ならば戦後の始末まで大友に差し図される筋はない、と押すこともできよう。
だが、それで済むなら、阿蘇はまだ小さい家でよかった。
今は違う。
立とうとする家は、こういう座を避けては立てぬ。
「承った」
惟豊はようやく言った。
使者が深く頭を下げる。
「三家の座、阿蘇が受ける」
宗傳がわずかに顔を上げた。
惟豊はそのまま続ける。
「大友の威を軽んずる気はない。されど、攻められた阿蘇が、勝ったあとの始末まで他家の好きにはさせぬ。出る以上は、その筋で出る」
「しかと」
使者はそれ以上何も言わず、控えへ下がった。
人が去ると、宗傳が静かに言う。
「受けられますか」
「受けるしかない」
惟豊は答えた。
「そして、受ける以上は呑まれぬ」
それがすべてだった。
宗傳が問う。
「阿蘇の出座は」
「表に立つは当主だ。我が出る」
「はい」
「宗運も要る」
「もちろんにございます」
惟豊は一度だけ黙ってから、さらに言った。
「惟種も出す」
宗傳は、そこでようやくはっきりとうなずいた。
「その方がよろしいかと」
「六つの童を出す座ではない」
「はい」
「だが、此度の戦の骨と、その後の龍造寺の扱い、その始まりはあれの口から出ている。宗運だけ出せば、阿蘇の知恵は家老のものと見られよう」
「若君が出れば」
「噂では済まぬ」
惟豊は低く言った。
「相手は、阿蘇の先に何が立っているかを見る」
宗傳は黙った。
それは危うい。
だが、いまの阿蘇には、その危うさごと見せねばならぬ場がある。
「宗傳」
「は」
「座を整えよ」
「承知」
「広間は広すぎる。だが狭すぎてもならぬ。威を立てる場であって、怒鳴り合う場ではない」
「はい」
「席順は大友を上に寄せる。だが阿蘇を低くしすぎるな。ここは阿蘇の本拠だ」
「かしこまりました」
「蒲池は」
惟豊はそこで少しだけ間を置いた。
「義鑑と並ぶようには見せぬ。並ぶ座に出すが、同じ重さを与える気はない」
「承知」
「膳は飾るな。戦の直後だ。だが粗末にもするな。阿蘇が回っている家だと見せるに足るほどでよい」
「はい」
宗傳が下がる。
惟豊は一人、庭の方へ目を向けた。
惟種はまだ戦場にいる。
宗運の横で、龍造寺兵の手当てを見、蒲池の切り捨てを聞き、そのうえで次に来るものまで見ているのだろう。
あれはもう、見るだけの子ではない。
だが、立たせる場所を違えれば、家ごと危うくもする。
「惟種」
名を呼んでも、返る声はない。
「見るだけで済む座ではないぞ」
それでも呼びたくなったのは、父としてか、当主としてか、自分でもわからなかった。
廊下の外で、宗傳の差配する声が響き始める。
畳を替え、人を配し、使者の控えを定め、座の間を整える。
野の戦は終わった。
だが館の中では、もう次の戦の支度が始まっていた。
惟豊は袖の中で手を握る。
勝ったあとの家を、勝ったまま座へ運ぶ。
それが、いまの自分の役目だった。
そして三日後、この館に大友義鑑が来る。
蒲池当主も来る。
阿蘇は迎える側として、そこに立つ。
ならば――受けよう。
ただし、阿蘇の理は渡さぬ。




