第三十三話 県境の兵
天文十五年(1546年)七月
夏の熱は、言い訳を許さない。
朝から日が高く、風はあるのに涼しくはない。田は青く盛り、門前の市には荷と人が流れ、黒川からは石が下り、鍛冶場の火は変わらず赤い。見えるところだけ見れば、阿蘇はよく回っていた。
よく回っていたからこそ、宗運は次を急いだ。
その日、惟種は惟豊と宗運に呼ばれ、小座敷へ入った。障子は半ば開き、外の蝉の声が遠くうるさい。だが、部屋の中の空気は静かだった。
惟豊はすでに座についている。
宗運の前には板が数枚、帳面が二つ。
その置き方だけで、今日は相談ではなく報告と決裁の場だとわかる。
惟種が座ると、宗運はすぐに口を開いた。
「若君、前に申し上げた通り、大友来訪のあとから兵の骨は組み始めております」
惟種は頷いた。
そこはもう知っている。
だが今日は、その進み具合を正式に聞く場だ。
「今どれほどだ」
「三百五十」
宗運はためらいなく答えた。
「常に動かせる者が、です。村へ完全には戻さず、警固、走り、普請、訓練を続けております」
惟豊が問う。
「無理は出ておらぬか」
「今のところは」
宗運は板を一枚進めた。
「田の増え、市の伸び、飴と玻璃の銭が利いております。さらに境目戦のあとの人の流れもあり、食わせる算段は立ちます」
惟種は板へ目を落とした。
槍。
弓。
走り役。
荷駄。
番役。
まだ森羅衆にはなっていないが、その前身となる組まで、すでに分けられている。
「三百五十、か」
「夏の終わりには四百を見ます」
宗運は続ける。
「必要なら五百まで届きましょう。ですが、いま大事なのは数ではなく、崩れぬ形です」
惟種は少しだけ笑った。
「私が言いそうなことを、先に言うな」
「若君のお考えを、使える形に直すのが役目ですので」
宗運は平然としている。
惟豊がそこで板を見ながら言った。
「中身は」
「槍と近接が二百弱。弓が七十。警固・伝令・普請・荷駄が五十ほど。鉄砲の前身に回す者が三十」
「森羅衆の種だな」
「はい」
宗運は頷いた。
「まだ二十丁に届くかどうかというところですが、扱いに慣れさせる者は先に要ります」
惟種はその言葉を聞きながら、やはりこの人は速いと思った。
鉄砲隊そのものはまだ早い。
だが鉄砲を使える軍の骨を先に作る。
それがもう進んでいる。
「大友の調略は」
惟豊が問う。
宗運の顔つきがわずかに変わる。
「静かに増えております」
そこからは、別の板だった。
境目衆へ届く誘い。
市に流れる風聞。
新たに入った者の中の不審。
山道を探る影。
硝石丘の場所を嗅ごうとした形跡。
「まだ戦ではございませぬ」
宗運は言った。
「ですが、このまま放っておけば、秋にはもっと面倒になります」
惟種は眉を寄せた。
「花音衆は」
「働いております。場の分けも、出入りも、今のところ破られておりませぬ」
「よし」
惟種は小さく息を吐いた。
火薬場はまだ育てる途中だ。
ここで覗かれるのはまずい。
だが宗運の耳と花音衆が抑えているなら、まだ大丈夫だ。
「兵の話に戻します」
宗運はそこで、三枚目の板を出した。
「ここから先は、若君のお考えを入れたい」
惟種は顔を上げた。
「もう始めておるだろう」
「はい。ですが、骨を組むのと、動きを教えるのは別です」
惟豊が黙って聞いている。
「若君の手元に、試しの組を置いております。二十七名。高森を頭に、北里、光永も付けております。表ではただの供回り頭と若侍ですが、実際には若君の理を試すための小組です」
惟種は少しだけ目を細めた。
そこまでやっていたか。
「勝手に進めたな」
「怒られますか」
「いや」
惟種は板を見た。
「正しい」
宗運はわずかに口元を動かすだけだった。
「では、何を教えるかにございます」
「まず崩れぬことだ」
惟種はすぐに答えた。
「前へ出ることより、退く時に崩れぬこと。頭が倒れても止まらぬこと。左右を見て、合図で動くこと」
宗運が頷く。
「そこは、もう始めさせております」
「何」
「笛、旗、声。三つの合図を分けました」
惟種は思わず少し笑った。
「宗運よ、本当に人の仕事を減らすな」
「若君が言う前に形にしておけば、話が早い」
惟豊がそこで、ほんの少しだけ笑った。
「宗運は近ごろ、惟種の先回りを覚えたな」
「覚えざるを得ませぬ」
蝉が外で一段高く鳴いた。
部屋の中の空気は変わらない。
惟種は板を見ながら、頭の中で形を組み直した。
三百五十。
夏の終わりに四百。
その中に森羅衆の種。
花音衆はすでに動く。
大友は裏で緩めに来る。
(そういえば、そろそろ龍造寺が挙兵する頃だ……)
ふと、その考えが浮かんだ。
前世の知識が、季節とともに勝手に浮き上がる。
前世では天文14年(1545年)、龍造寺家純と龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興する
阿蘇から見れば遠い。
だが、遠いから無関係とは限らない。
(阿蘇に被害がないとも限らない)
大友だけ見ていればよい年ではない。
北でも火が上がる。
火は風で飛ぶ。
(ここは県境で常備兵の練兵をするのも吉か……)
惟種は、そこでようやく口を開いた。
「県境でやらせよう」
惟豊が目を上げる。
「何をだ」
「練兵だ」
宗運は少しだけ眉を動かしただけで、驚きはしない。
「大友のためか」
「それもある」
惟種は言った。
「だが、それだけではない」
「申せ」
「いま阿蘇は備えている。ならば備えていること自体も見せるべきだ」
惟豊は腕を組んだ。
「見せる」
「うむ。隠して抱えるだけでは、相手は好きに想像する。なら、こちらにとって都合のよい形で見せる」
宗運が、そこで初めて深く頷いた。
「県境の練兵なら、名分は立ちますな」
「境目を乱さぬため。阿蘇の地を守るため。何とでも言える」
惟種は続けた。
「しかも、常備兵の訓練にもなる。地形の確認にもなる。周囲にも、“阿蘇はもうただの山の家ではない”と見せられる」
惟豊は少し考え、やがて言った。
「やりすぎれば、逆に相手を煽るぞ」
「煽るだろうな」
惟種は認めた。
「だが、どうせもう大友は揺らしにきている。なら、ただ揺らされるより、揺れぬ形を見せた方がよい」
宗運が低く言った。
「加えて、兵の足も鍛えられる」
「そうだ」
「高森らの試し組も、県境で動かせます」
「うむ」
惟豊はそこで決めた。
「よし。県境で練兵を行え」
短い。
「ただし、露骨に挑発するな。あくまで阿蘇の地を守る備えとして見せろ」
「承知」
宗運が答える。
「兵の数は」
「三百を見せる。残りは奥に置け」
「承知」
惟種はそこで、もう一つだけ加えた。
「高森の組は前に出しすぎるな。まだ試しだ」
「そこは心得ております」
「それと、陣の変えをやらせる」
宗運が板を寄せる。
「横へ開く。細く抜ける。退いてまとまる。三つでよろしいですか」
「まずはそれでいい」
惟種は言う。
「兵は複雑なことを一度には覚えぬ。まずは三つ。だが三つができれば、戦で死ににくくなる」
惟豊は、その言葉を聞きながらふっと息を吐いた。
「いつの間にやら、兵を死ににくくする話をするようになったな」
「勝たせるより、先に死なせぬ方が大事だ」
惟種はそう答えた。
「死ねば、勝っても減る」
宗運が、その一言を小さく繰り返した。
「勝っても減る、か」
「そうだ」
「まことに若君らしい」
そこから先は、細かな詰めだった。
どこの峠筋を使うか。
どれほどの荷を出すか。
見せる武具と隠す武具。
練兵の日数。
花音衆と山の耳をどこまで付けるか。
話が一段落したころには、外の陽も少し傾いていた。
惟豊が立ち上がる。
「よし。兵はそのまま進めよ。県境の練兵も行う」
「承知」
宗運も立つ。
「若君」
「うむ」
「高森の組には、明日からもう少し強く陣の変えを入れます」
「やれ」
「泣きますぞ」
「泣かせるな。だが甘やかすな」
「承知」
宗運はそう言って、いつものように何でもない顔をした。
だが、惟種にはわかる。
この人も、もう先を見ている。
大友だけではない。
阿蘇の外で何かが動き始める時、それを兵の形へどう落とすかを。
小座敷を出たあと、惟種は廊下の先で少しだけ足を止めた。
外は夏だ。
田は青い。
市は賑わう。
山は動く。
火も育つ。
その中で、兵まで揃い始めている。
これだけでも、史実の阿蘇にはなかった速さだ。
だが、まだそれだけではない。
(龍造寺……)
その名が、胸の内で静かに浮かぶ。
まだ誰にも言わぬ。
言えば、こちらが仕掛けたようになる。
だが備えは打てる。
そして、その備えを見た誰かが勝手に怯えることもある。
惟種は、夏の光の中で目を細めた。
県境での練兵。
それは阿蘇にとってただの備えでしかない。
だが、その備えは、思わぬところへ波を打った。
それは、これまでの史実にはない動きの始まりでもあった。




