第三十一話 豊後の秤
天文十五年(一五四六年)四月下旬。
豊後、府内。
少し前、阿蘇から使者が来た。
昨年は実りもよく、市も戻りつつある。境目の騒ぎも収まり、今後も大友家との誼を大切にしたい。
そんな言葉とともに、阿蘇で作られた玻璃まで届けられた。
礼を失ってはいない。むしろ、妙に丁寧だった。
だから大友側も返礼を兼ね、阿蘇の様子を見る者を送った。
その役を任された臼杵鑑速は、阿蘇から戻ると、大友義鑑の前に座っていた。
春の日差しは柔らかく、庭の木々には若葉が広がっている。だが、座敷の空気は軽くない。
義鑑はしばらく何も言わず、臼杵の顔を見ていた。
阿蘇へ赴く前とは、どこか違う。
何かを見てきた顔だった。
「それで、どうだった」
義鑑が口を開く。
臼杵は一度だけ言葉を選んだ。
「阿蘇については、今しばらく様子を見るべきかと存じます」
義鑑の眉が僅かに上がった。
「おぬしがそう申すか。危うい家ではなかったのか」
「危ういとは思います」
「それでも待つ、と」
「はい」
臼杵は阿蘇で見たものを思い返した。
人と荷の増えた市。
絶えぬ鍛冶の音。
書付を抱えて忙しく館を行き交う者たち。
こちらの問いを柔らかく受けながら、必要なものだけを返してきた甲斐宗運。
そして最後に会った、あの童。
「順に申し上げます。まず、阿蘇そのものは確実に太っております」
義鑑は黙って続きを促した。
「市は賑わい、人も増えております。鍛冶の音も絶えず、館では文官どもが書付を抱えて次から次へと動いておりました」
「惟豊がやっておるのか」
「惟豊殿もおります。ですが、今の阿蘇があれほど早く動ける理由となれば、やはり甲斐宗運でしょう」
「やはり、あやつか」
義鑑は小さく頷いた。
甲斐宗運。
阿蘇を支える柱。
軍もできる。政もできる。人を見る目もある。
そして何より、阿蘇という家から心が離れていない。
「宗運、取れぬか」
「難しいかと。知行や位で動く男なら、とうに阿蘇を離れております」
「……やはりそう見るか」
「はい。あの男が見ているのは、己の利ではなく阿蘇そのものにございます」
義鑑は少し考えた。
「阿蘇ごとこちらへ従わせれば、宗運も手の内には入る」
「形だけならば」
臼杵は静かに返した。
「ですが、力で阿蘇を奪えば、宗運殿まで得たことにはなりますまい」
「心までは取れぬか」
「むしろ、最も厄介な敵を懐へ抱えることになりましょう。主を討ち、家を奪い、阿蘇を踏みにじった大友へ、あの男が心から仕えるとは思えませぬ」
義鑑は指先で膝を一度叩いた。
「なるほど」
◇
「では、攻める筋がないから待てと申すのか」
「いいえ。名目だけなら作れます」
義鑑の目が僅かに細くなる。
「島津との誼、守護の命への不服従、境目での兵。いずれかを拾い、繋げれば筋は立ちましょう」
「証がなくともか」
「戦を始めるための筋だけならば」
臼杵も、ほんの僅かに笑った。
それ以上は言わなかった。
義鑑にも意味は通じている。
「つまり、討とうと思えば討てる。それでも、今はやらぬ」
「割に合いませぬ」
臼杵の答えは簡潔だった。
義鑑は少しだけ姿勢を直す。
「申してみよ」
「勝つことと、得をすることは別にございます」
臼杵は落ち着いた声で続けた。
「阿蘇は山です。兵を入れれば銭も人も食う。大友が本気で兵を出せば勝てるとは思いますが、阿蘇を取るために田と市を荒らし、人と商人、職人を逃がせば、我らは欲しかったものを自ら壊してから手に入れることになります」
「取った後もあるな」
「はい。兵と役人を置き、反抗を押さえ、何年も銭を使うことになりましょう」
義鑑は小さく息を吐いた。
「豊かな阿蘇を欲して攻めても」
「手に入る頃には、今の阿蘇ではございませぬ」
その言葉で、座敷が少し静かになった。
「しかも、宗運も得られぬ」
「そうなるな」
義鑑は庭へ目を向けた。
「それだけではあるまい」
「はい」
「大内か」
臼杵は頷いた。
大友と大内。
かつて北九州を巡って争った大家同士である。
今は和している。
だが、和していることと、隙を見せてもよいことは別だった。
「こちらが阿蘇の山中へ兵を入れ、思いのほか損害を出したと知れば、大内が何も考えぬとは思えませぬ」
「攻めてくるか」
「そこまでは申せませぬ。ただ、大友が弱ったと見て動く機を探らぬほど、甘くはございませぬ」
「そうだな」
戦は、目の前の相手だけを見ればよいものではない。
一つの場所へ兵を集めれば、別の場所が薄くなる。銭を使えば、別の戦へ回せなくなる。失った兵は、すぐには戻らない。
義鑑はしばらく考え、やがて鼻で笑った。
「……阿蘇には勝てても、その間に大友が損をするか」
「某は、そう見ます」
「馬鹿らしいな」
「はい」
臼杵も否定しなかった。
◇
「それに、向こうから先に誼を求めてきております」
臼杵が続けた。
「玻璃まで付けてな」
「はい」
義鑑は傍らへ置かれた品へ一瞬だけ目をやった。
「それを受け取った直後に兵を出せば、周りはどう見る」
「よい顔はいたしますまい」
「大友へ礼を尽くしても、太れば討たれる」
「そう思わせれば、肥後を治めるのも難しくなりましょう」
義鑑は頷いた。
礼には礼を返す。
従う顔をしているうちは、その顔を潰さない。
情の話ではない。
守護として力を保つためにも、必要なことだった。
「だが」
義鑑は臼杵へ視線を戻す。
「おぬしは、その阿蘇を危ういと申した」
「はい」
「放っておけば伸びる」
「伸びるでしょう」
「どこまで」
「分かりませぬ」
「ならば、今のうちに潰すという考えもあろう」
「ございます」
臼杵は少しだけ笑った。
「某も、阿蘇へ行くまではその可能性を考えておりました」
「変わったのか」
「はい」
「何を見た」
臼杵の顔から笑みが消えた。
「若君に会いました」
義鑑が眉を上げる。
「鬼童か」
「はい」
「どうだった」
臼杵は珍しく、すぐには答えなかった。
「説明が難しゅうございます」
「会ったのであろう」
「会ったからこそ、分からなくなりました」
義鑑が少し呆れたように臼杵を見る。
「おぬしほどの男が、五つの童一人を説明できぬのか」
「できませぬ」
「そこまでか」
「はい」
臼杵は懐へ手を入れた。
「ゆえに、絵を用意いたしました」
「……絵?」
一枚の紙が差し出される。
義鑑は受け取り、広げた。
「…………」
童が描かれていた。
だが、その姿には幾つもの影が重なっている。
笑う童。
何かを考える人。
そのさらに奥には、鬼とも獣ともつかぬ顔。
どれが本当の姿なのか、絵を見ても判然としない。
「これは」
「阿蘇の若君にございます」
「……これが?」
「某には、このように見えました」
臼杵は真剣だった。
義鑑は紙を見て、臼杵を見て、もう一度紙を見る。
「そ……そうか」
それくらいしか感想が出なかった。
「強いて名を付けるなら、鵺にございます」
「鵺?」
「はい。何が混じっているのか、某にも分かりませぬ」
臼杵は阿蘇で見た惟種を思い返した。
「童なのは間違いございませぬ。笑い、喜び、年相応に胸を張ることもある。ですが、童だけとも思えませぬ」
「何かを演じておるのか」
「それなら、まだ分かりやすいのですが」
「違うと?」
「少なくとも、某にはそう見えませなんだ」
臼杵は少し考え、言葉を選ぶ。
「一人の童として見れば、どうにも辻褄が合わぬのです」
義鑑は、再び絵へ目を落とした。
「怖かったか」
「気味は悪うございました」
「何をされた」
「何も」
臼杵は苦い顔をした。
「それが余計に」
義鑑には、ますます分からなかった。
◇
「それで、その若君から何か取れたのか」
「取ろうとはしました」
「島津については」
「誼があることと、鉄砲を頂いたこと。それ以上は出ませなんだ」
「鉄砲をどうするかは」
「秘密だ、と笑われました」
「五つの童に?」
「はい」
義鑑の口元が僅かに動く。
「大友については」
そこで臼杵が少し嫌そうな顔をした。
「大好きだと」
「…………」
「満面の笑みで」
「大友が?」
「はい」
「なぜ」
「分かりませぬ」
義鑑は例の絵へ目を落とした。
「おぬしは何と聞いた」
「大友家をどう思われるか、と」
「それで」
「『ぼく、おおともけ、だいすきです!!』と」
義鑑はしばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「ならば、なおさら攻める理由がないではないか」
「左様にございます」
「おぬし」
義鑑は少し楽しそうになった。
「五つの童に、大友が大好きだと言われて帰ってきたのか」
「殿」
「何だ」
「言い方というものがございます」
「事実であろう」
「事実ですが」
臼杵は何とも言えない顔になった。
義鑑は、それを見て少しだけ笑った。
◇
だが、笑っていられるのはそこまでだった。
義鑑は再び鵺の絵へ目を落とし、しばらく考えた。
「……今は戦わぬ」
「御意」
「勝てぬからではない。勝って得るものが少なすぎる」
「左様にございます」
「理由を作ってまで兵を出すほどの利はない。向こうが誼を求めるなら、今はそれを受ける」
臼杵が頭を下げる。
「ただし」
義鑑は指先で絵を軽く叩いた。
「このまま放ってもおかぬ」
「無論にございます」
「宗運、惟豊、島津との糸。山、市、兵、人の出入りまで見ろ」
「承知」
「阿蘇の中もだ。家中に不満を持つ者がいるなら、それも拾え」
臼杵は少し考えた。
「拾うだけに留めます」
「割らぬのか」
「今はまだ」
義鑑が視線を向ける。
「こちらから手を入れたと悟られれば、宗運殿が締めましょう。それに外から大友が圧を掛ければ、今は不満を持つ者まで阿蘇の下へ寄る恐れがございます」
「敵が来れば、内輪で争っている場合ではなくなるか」
「左様にございます」
義鑑の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「では、割るのではない」
「はい」
「まず、割れ目があるか見ろ」
臼杵も僅かに笑った。
「御意」
「誰が喜び、誰が不満を持つ。誰が宗運を頼り、誰が疎んでいる。そこまで拾え」
「承知」
義鑑は最後に、絵の中の童を指した。
「あれもだ」
臼杵の顔が僅かに険しくなる。
「何ができ、何を知り、何を欲しがっているのか。そして」
義鑑は一度、指を止めた。
「大友にとって、どれほどの価値があるのか」
臼杵が一瞬だけ顔を上げる。
義鑑は気づかなかった。
今、もっとも重要なところへ、ほんの僅かに近づいたことにも。
「分からぬなら、分かるまで見ろ」
「御意」
「もし、戦をしてでも取るだけの価値があると分かったなら」
臼杵も、その意味を理解した。
「その時に改めて」
「考えればよい」
「は」
義鑑はもう一度、童と人と鬼が重なった絵へ目を落とした。
「鵺、か」
「はい」
「いずれ正体が分かると思うか」
臼杵は少し考えた。
「分かってほしいとは思います」
「何だ、それは」
「某にも、よく分かりませぬ」
義鑑が苦笑した。
「では、また探るか」
「は」
今は、戦を起こすほどの利がない。友和を拒む理由もない。
だから戦わない。
だが、阿蘇から目を離す理由もまた、一つとしてなかった。




