第三十四話 庇護の翳り
龍造寺家兼は若干長生きしてい貰ってます。
お家再興していないため気力で生きている設定です。
実際の年齢は92歳ですが、
小説として割愛してください。
天文十五年(1546年)八月
筑後の夏は、肥後の夏と同じようでいて、どこか違った。
熱は重い。
蝉は喧しい。
川は緩やかに流れている。
だが、その暑さの下にある空気は、阿蘇のように澄んではいない。
人の思惑が淀んでいる。
蒲池の館の一室で、龍造寺家兼は黙って座っていた。
老いた、と自分でも思う。
膝も、腰も、前ほどには利かぬ。
だが、家を立て直すという執念だけは、まだ枯れてはいなかった。
その家兼の前にいるのは、鍋島清房、龍造寺胤栄。
そして、この場の主である蒲池鑑盛。
その脇に、家臣の原野恵俊。
部屋は広くない。
それでも、今この場にあるのは一国の再興を左右するほどの重みだった。
最初に口を開いたのは、蒲池鑑盛ではなかった。
原野恵俊である。
「阿蘇は、この夏も兵を動かしております」
抑えた声だった。
だが、その抑え方がかえって不安を含んで聞こえる。
家兼は何も言わない。
清房もまた黙っている。
原野は続けた。
「大友の圧に備える、との名目です。県境で練兵を重ね、兵の入れ替えも早い。鍛冶場の火は絶えず、門前の市もさらに人を吸っております」
胤栄が眉を寄せた。
「阿蘇、阿蘇と……そこまで気にすることか」
若い、と家兼は思った。
だが若いからこそ、その言葉もわからぬではない。
龍造寺の家は、いままさに立たねばならぬ。
そこへ遠い肥後の国衆の話ばかりされれば、苛立ちもする。
だが、原野の顔は固いままだ。
「気にせぬわけには参りませぬ」
「なぜだ」
「近ごろ筑後の南では、商いも人の流れも阿蘇へ寄っております」
その一言で、胤栄の顔つきが変わった。
それはただの噂では済まぬ。
人が動くということは、兵も金も動くということだ。
「逃散か」
鍋島清房が初めて口を開いた。
「はい。逃散と申すほど大きくはございませぬ。ですが、鍛冶、炭焼き、荷運び、そういった手が、少しずつ阿蘇へ引かれております」
清房は、その報告を黙って聞いていた。
彼の顔はほとんど動かない。
だが、家兼にはわかる。
この男はもう、腹の中で損得を計り始めている。
蒲池鑑盛は、そこでようやく言った。
「阿蘇は、近ごろ伸びすぎている」
低い声だった。
「田を増やし、市を育て、山と火に手を伸ばし、兵まで抱え始めた。肥後の家のすることとは思えぬ」
その言葉には、ただの感想ではないものが混じっていた。
焦り。
苛立ち。
そして、警戒。
家兼はそれを聞きながら、心のどこかで嫌なものを感じていた。
本来、この場で語られるべきは龍造寺の再興のはずだった。
いつ兵を起こすか。
どれだけ集まるか。
誰が呼応するか。
そこに蒲池がどこまで手を貸すか。
だが、話の中心が少しずつ阿蘇へ寄っている。
それが、嫌だった。
「鑑盛殿」
家兼は静かに言った。
「阿蘇は阿蘇。わしらはわしらであろう」
蒲池鑑盛は家兼を見た。
その目は礼を失ってはいない。
だが、以前より少し冷えているように見えた。
「もちろんにございます」
言葉は丁寧だ。
「ですが、阿蘇がただの肥後国衆ではなくなりつつあるなら、筑後もまた考えねばなりませぬ」
胤栄が口を挟む。
「我らを立てる話ではなかったか」
その声音に、若さと苛立ちが滲んだ。
「立てる話です」
原野恵俊がすぐに答える。
「ですが、立てるにしても、今の阿蘇を見ぬわけには参りませぬ」
鍋島清房は、その応酬をしばらく聞いていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「つまり」
場の目が集まる。
「阿蘇が怖いのですな」
原野はすぐに答えなかった。
蒲池もまた、否定しない。
それが答えだった。
胤栄の顔に、はっきりと怒りが浮かぶ。
「我らを立てると申しておいて、いまさら阿蘇が怖いとは何だ」
「胤栄」
家兼が名を呼ぶ。
たしなめるためだった。
だが、内心では同じ思いもあった。
ここで阿蘇の話が出るのはおかしくない。
だが、龍造寺再興の場で、支援者の口からそれが前へ出すぎるのは、あまりよい兆しではない。
鍋島清房が、淡々と言った。
「怖がるのも無理はありませぬ。阿蘇は近ごろ、兵を抱え、県境で練兵までしている」
「大友に備えておるだけだろう」
胤栄が返す。
清房は首を横に振らない。
肯定も否定もしない。
「そう見える」
「ならば」
「そう見えることと、こちらに牙が向かぬことは別です」
その言葉で、部屋の空気がまた一段重くなった。
家兼は、清房の言い方をよく知っている。
この男は、相手をむやみに怒らせる物言いはしない。
だが、逃げ道も与えぬ。
「今の阿蘇は」
清房は続けた。
「大友の圧を受けながら、なお兵を増やしております。ならば、筑後に目を向けぬと誰が断じられましょう」
蒲池鑑盛が、それを受けた。
「ゆえに、まずは阿蘇を試さねばならぬ」
そこだ、と家兼は思った。
ようやく、蒲池の腹が出た。
支援ではない。
保護でもない。
試す、だ。
つまり、龍造寺の再興は、蒲池にとってそれ自体が目的ではなくなっている。
阿蘇を計る道具に変わり始めている。
家兼の胸に、じわりと嫌なものが広がった。
胤栄はもう、それを隠しもしない。
「試すとは、どういうことだ」
「阿蘇の兵がどこまでのものかを見る」
原野が答えた。
「こちらが前に出て大きく損ずる前に、まず龍造寺殿に動いていただければ、阿蘇の底も見えましょう」
その言葉は丁寧に飾られていたが、意味ははっきりしていた。
龍造寺を先に当てる。
家兼は、その瞬間に悟った。
蒲池は怯えている。
阿蘇の伸びを見て、思ったより早く怖くなった。
だから、いま本気で龍造寺を立てるのではなく、まず前へ出して様子を見ようとしている。
それは支援ではない。
半ば、使い捨てだ。
「鑑盛殿」
家兼は、静かに言った。
「それは、わしらを立てる話と申せるかな」
蒲池鑑盛は、まっすぐには答えなかった。
「家兼殿の御家を立てることと、筑後の安きを守ることは、本来並び立つべきものです」
並び立つべき。
つまり、いまは並び立っていないと認めているようなものだ。
胤栄が、膝の上で拳を握る。
「勝てば立てる。負ければ知らぬ。そういうことか」
「そこまでは申しておりませぬ」
原野が割って入った。
「ですが、勝ちを取ってこそ、御家の再興も強くなります」
鍋島清房は、その言葉を聞いて、初めて少しだけ目を伏せた。
家兼にはわかる。
清房も、いまの言葉を呑みきれてはいない。
だが一方で、現実も見ている。
龍造寺はまだ弱い。
家を立てるには、いまここで蒲池の手を完全に離れるわけにもいかない。
それが、苦しい。
家兼は老いていた。
だからこそ、こういう時の空気がよくわかる。
若いころなら、もっと早く怒鳴ったかもしれぬ。
だが今は違う。
怒鳴ったところで、兵も米も湧いてはこない。
「清房」
家兼が問う。
鍋島清房は顔を上げる。
「はい」
「おぬしはどう見る」
清房は少し考えてから、言葉を選んだ。
「蒲池殿は、本気で御家を見捨てるおつもりではありますまい」
胤栄がすぐに食いつく。
「では」
「ですが」
清房はそこで切った。
「今この場で、阿蘇を先に計りたいというお考えは、偽りではありますまい」
部屋の中が、また静かになる。
誰も否定できない。
否定しないということは、もうそれが真実だということでもあった。
家兼は、手の甲を膝の上に置いたまま、ゆっくりと指を握った。
龍造寺の家を再び立てたい。
その願いに嘘はない。
だが、いま目の前にあるのは、庇護の顔をした別のものだ。
借り。
駒。
先鋒。
試し石。
そういう匂いが、濃い。
胤栄が低く言った。
「ならば、我らは使われるのか」
清房は即答しなかった。
その沈黙のほうが、よほど重かった。
原野恵俊は、その空気を少しでも和らげるように口を開いた。
「使う使わぬではありませぬ。御家が勝てば、蒲池もまた全力で立てましょう」
その言葉に、家兼は心の内で苦く笑った。
勝てば立てる。
それはつまり、勝つまでは本気で立てないということだ。
老将は、そういう言い換えにもう騙されない。
「家兼殿」
蒲池鑑盛が、今度は家兼へ真正面から向き直った。
「いま、阿蘇は伸びております。このまま肥後に立てば、やがて筑後へも影を落としましょう。そうなる前に、その勢いを計る必要がございます」
やはりそうだ。
もう「龍造寺の再興」が先ではない。
「阿蘇をどう見るか」が先になっている。
家兼は、深く息を吐いた。
情けない。
腹立たしい。
だが、ここで席を蹴っても何も残らぬ。
龍造寺の家を残す。
それだけを考えれば、いまこの場で選べる道は多くない。
「……御家を立てるためには」
家兼は、ゆっくりと言った。
「やるしかあるまいな」
胤栄が家兼を見る。
清房もだ。
その一言には、諦めもあれば、老将の執念もある。
清房は、そこでようやくはっきりと顔を上げた。
「ならば、条件を詰めねばなりませぬ」
その声は静かだったが、もう実務の声だった。
「兵をどこまで出されるのか。勝った場合の後詰めはあるのか。負けた場合、どこまで拾うのか。そこを曖昧にしたままでは、御家は本当に捨て駒になります」
原野恵俊が少しだけ顔をしかめる。
図星なのだろう。
蒲池鑑盛は、しばらく無言だったが、やがて言った。
「兵は出す」
短い。
「だが、先は龍造寺殿に取っていただく」
清房は、その言葉を聞いて、腹の中で何かを固めたようだった。
家兼もまた、理解した。
これは庇護ではない。
支援ですらない。
試されるのだ。
そして試される側である以上、勝たねば本当に終わる。
胤栄はまだ若い。
だが若いなりに、いまの場の冷たさはわかったのだろう。
顔には怒りがある。
けれど、もう子どものようには噴き上がらない。
「……勝てばよいのだな」
そう言った時、その声には怒りよりも、悔しさの方が強く混じっていた。
家兼は、その言葉を聞きながら思う。
これでよいのか。
よいわけがない。
だが、いまの龍造寺には、よい道だけを選ぶ余裕などない。
清房が最後に、静かに言った。
「御家を立てるために戦う。
それは変わりませぬ。
ですが……」
その先を、少しだけ切る。
「誰が本当に御家を立てる気でおり、誰が御家を使う気でおるか。
そこは、よく見ておくべきにございます」
蒲池も原野も、その言葉には何も返さなかった。
返せなかったのかもしれぬ。
外では蝉が鳴いている。
夏は盛りだ。
だが、この座敷の中だけは、ひどく冷えていた。
龍造寺の再興は、もう目前に見えている。
だがその道は、思っていたよりずっと泥に濁っている。
誰が支え、誰が利用し、誰が最後に拾うのか。
それはまだ、誰にも見えていなかった。
ただ一つだけ、家兼にはわかった。
蒲池の庇護には、もう翳りが差している。
そして、その翳りの先に何があるかは、次の戦で決まる。




