第三話 若君、紙に未来を書く
朝の光で目を覚ました時、**阿蘇 惟種**は、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
低い天井。
煤けた梁。
障子越しに差し込む白い光。
鼻先に残る、薬草と湯の匂い。
昨夜と同じ部屋だ。
病床。
阿蘇の館。
戦国の肥後。
惟種は、ゆっくりと息を吐いた。
身体はまだ重い。熱は峠を越えたようだが、芯のだるさが残っている。少し身を起こすだけで胸が苦しく、喉も乾き、手足には子どもらしい頼りなさがあった。
子どもの身体だ。
昨夜は、夢と現の境にいた。
だが朝になれば、現実は容赦なく輪郭を持つ。
自分はもう、**矢部 維胤**ではない。
いや、そう言い切るのも違う。
ブラック企業の中間管理職として生きた四十五年は、確かに自分の中にある。
戦国時代の本を読み漁ったことも、九州の勢力図を何度も頭に叩き込んだことも、ゲームの中で島津や大友や龍造寺をどう動かすか考えていたことも覚えている。
けれど、それだけではない。
この身体にはこの身体の記憶がある。
**阿蘇 惟豊**の顔を見れば父だと分かるだろうし、母の声には胸のどこかが安堵する。館の匂いも、畳の軋みも、廊下を歩く足音の響きも、どこか知っている。
混ざっている。
しかも、片方が片方を喰っているわけではない。
その事実が、朝になってかえって不気味だった。
「若君」
やわらかな声がして、惟種はそちらを見た。
年の頃は三十を少し越えたほどか。
疲れた目元に、それでも消えぬ気品がある。館の女たちの中でも、ただの侍女ではないと一目で分かる衣。
名はまだ知らない。
だが、この身体は知っていた。
母だ。
惟種は、思わず少しだけ背筋を正そうとして、すぐに今の身体には無理だと気づき、心の中で苦笑した。
「気分はいかがですか」
「……少し、ましにございます」
宗運に向ける時とは違う、少しだけ年相応の声が出た。
母――**御方様**は、胸の奥のつかえが少し取れたように息を吐いた。
「ようございました。本当に……ようございました」
その言葉に飾りはなかった。
惟種は、黙って母を見つめた。
一か月前に 阿蘇 惟将 が死んだ。
そして今、自分もまた死にかけた。
この人は、短い間に二度、子を失うかもしれぬ時間を味わったのだ。
「昨夜は、**甲斐 宗運**殿をお呼びになったとか」
「うむ」
「何をお話しに?」
問いは柔らかい。
だが、その奥には不安があった。
病み上がりの若君が目を覚まし、すぐに家中随一の重臣を呼び、内々の話をした。気にならぬはずがない。
「夢の話にございます」
「夢」
「熱のうちに、少し」
嘘ではない。
全部を言っていないだけだ。
**御方様**は、しばらく惟種の顔を見つめていた。
政や家の都合ではなく、ただこの子が戻ってきたのかどうかを確かめる目だった。
「無理はなさらぬように。まだお身体は戻っておりませぬ」
「……はい」
それだけ言うと、母は少しだけ安心したように頷いた。
だが、すぐにその表情は曇る。
「惟将様をお見送りしてから、館はずっと重うございます」
惟種は黙って聞いた。
「**御屋形様**は気丈に振る舞っておられます。宗運殿も館を支えてくださっております。けれど……皆、恐れているのです」
当然だった。
**阿蘇 惟将**が死んだ。
本来なら家を支えるべき嫡流の一角を失った。
残る嫡子は、**阿蘇 惟種**ただ一人。
その惟種まで病で倒れたのだ。
父である惟豊はまだ健在だ。
だが、当主が生きていることと、家の先が安定していることは別だ。
ようやく静まりかけた家に、また亀裂が入るかもしれない。
その恐れが、館の空気そのものになっているのだろう。
「母上」
「はい」
「わたしは、死にませぬ」
思わず出た言葉だった。
**御方様**は目を見開き、それから泣くまいとするように唇を結んだ。
「……そう申してくださるだけで、母は十分にございます」
惟種は、それ以上何も言えなかった。
この人に必要なのは政策でも未来でもない。
まず生きていると伝えること、それだけだ。
しばらくして母は薬湯を置き、休むようにと言い含めて部屋を出ていった。
静けさが戻る。
惟種は、しばらく天井を見上げたまま動かなかった。
そして、一人になってようやく、別の感情が胸の底からむくりと頭をもたげてきた。
(……いや、待て)
惟種は、ゆっくり息を吐いた。
宗運と話した。
田のことも、市のことも、昨夜は驚くほど自然に口から出た。
頭の中では筋も通っていた。何を先にし、何を後にするか、自分でも不思議なくらい整理されていた。
だが、それはそれとして。
(なんでこんなことになっているんだ!?)
いまさらだった。
いまさらなのだが、いまさらだからこそ重かった。
昨夜は必死だった。
目が覚めたら身体が変わっていて、周囲の様子も違っていて、しかも自分が死にかけの若君だと分かって、宗運に話して――とにかく伝えないといけないと思った。
だが今は少しだけ落ち着いた。
落ち着いてしまったからこそ、逆に混乱が押し寄せてくる。
俺は確かに死んだ。
ブラック企業の中間管理職、**矢部 維胤**として。
四十五まで独り身で、部下の尻拭いばかりして、最後はたぶん過労死だ。
それは覚えている。
オフィスの蛍光灯も、机の上の缶コーヒーも、終電のない夜も、胸の奥が焼けるように痛んだ瞬間も、まだ妙に鮮明だ。
なのに今は、こうして子どもの身体で、戦国時代の阿蘇に寝ている。
(意味が分からん……)
思わず額に手を当てる。
小さく、白い手だった。
それが余計に現実味をなくす。
(現代の記憶に引っ張られているのか?)
その疑問が、ふっと浮かぶ。
もしかすると、自分は本当に 阿蘇 惟種 で、熱に浮かされたことで、おかしな夢を見ているだけなのかもしれない。
前世だと思っているものも、ただの長い幻なのではないか。
だが、すぐにそれは違うと分かった。
幻にしては、記憶が細かすぎた。
キーボードを打つ感触。
コピー機の匂い。
部下の青ざめた顔。
営業数字の並ぶ表。
コンビニの明かり。
スマホ。
電車。
寝不足の朝の頭痛。
そんなものを、この時代の自分が熱の夢で作れるはずがない。
逆に、いまの自分の中には前世だけでもない記憶がある。
父や母への感情。
館の廊下を歩く身体の覚え。
**甲斐 宗運**の名を呼ぶのが自然だった感覚。
つまり、どちらもある。
**矢部 維胤**としての四十五年。
**阿蘇 惟種**としての生。
混ざっている。
しかも、片方が片方を押し流してはいない。
(俺は……どっちなんだ)
問いは浮かんだが、すぐに消えた。
どちらでもある。
いまは、そうとしか言えない。
前世の知識があるから、田や市の話が出る。
けれど、それを口にしているのは阿蘇惟種だ。
阿蘇家を守らねばと思っているのも、もう単なる歴史好きの会社員ではない。
惟種は、小さく息を吐いた。
(分からんものは、いま考えても仕方ない)
会社でもそうだった。
答えの出ない問いをいくら抱えても、締切は待ってくれない。
いま大事なのは、なぜこうなったかではない。
こうなった以上、どうするかだ。
そこで惟種の背筋に、ふいに冷たいものが走った。
――ああ、そういえば。
史実の 阿蘇 惟種 は、長生きしていない。
はっきりした死因は思い出せない。
討ち死に、という印象は薄い。
病か、衰えか、それとも別の何かか。そこまでは曖昧だ。
だが、没した年齢は――
四十四、あるいは四十五前後だったはずだ。
惟種は、自分の掌を見つめた。
(丁度、前世の俺が死んだ年齢か)
ぞくりとした。
前世の自分も、戦で死んだわけではない。
槍に貫かれたわけでも、刀で斬られたわけでもない。
ただ働きすぎて、身体をすり減らして死んだのだ。
人間五十年――だったか。
たしか、後に 織田 信長 が好んだという 敦盛 の句にもあった。
この時代、人が五十まで生きるのは長い方だ。
ならば四十五で死ぬのも、おかしな話ではない。
だが、こちらには困る。
**阿蘇家**を守るにも、肥後をまとめるにも、その先を望むにも、時間が足りない。
戦に備えるだけでは駄目だ。
敵に勝つだけでも足りない。
自分が、病で倒れぬ工夫をせねばならない。
史実の惟種の死因は分からない。
だからこそ不気味だ。
戦なら備えようがある。
だが病なら、知らぬうちに蝕まれ、気づけば終わる。
医療。
衛生。
食。
水。
眠り。
疲れ。
国のことだけではない。
自分自身の身体のことも、考えねばならない。
その時、前世の習いが顔を出した。
――まず書き出せ。
仕事でもそうだった。
案件が多すぎて頭が回らぬ時、まず紙に書く。
書いて並べて、優先順位を付ける。
頭の中だけで整理できるほど、人は賢くない。
「紙と、筆を」
侍女が驚いたように顔を上げた。
「若君、まだお休みになられた方が……」
「覚え書きをするだけだ」
戸惑いながらも、侍女は紙と筆を運んできた。
惟種は紙を前にして、ほんの一瞬だけ見入った。
前世のメモ帳でもコピー用紙でもない。
薄く、ざらつきがあり、無駄にできぬと指先に伝わる。
筆を持つ。
まだうまく力は入らない。
それでも書く。
まず、大きく四つ。
田。市。兵。病。
見つめる。
間違ってはいない。
国は、まず食だ。
食があって、市が立つ。
市が立てば銭が動く。
銭と飯があって、兵が持てる。
そして、そのすべてを動かす自分が病で倒れれば終わる。
惟種は、その下へ書き足していく。
田
水。
種。
草。
山の草。
二毛。
まず小さく試す。
市
役を軽く。
人を寄せる。
門前。
道。
荒事を抑える。
兵
飯が先。
急がぬ。
鉄は後。
まず人。
目と耳。
そして、少し間を置いてから。
病
水。
手。
煮る。
傷を洗う。
寝床を分ける。
疲れを溜めぬ。
薬草。
熱。
膿。
さらに迷ってから、一行。
長く生きる。
その字を見て、惟種は苦笑した。
あまりにも直接的だ。
だが、いまはそれでいい。
**阿蘇家**を守るなら、時間が足りない。
ならば、自分の命を勘定に入れなければならない。
派手に討ち死にする話ではない。
むしろ逆だ。
死なない。
病まない。
疲れ潰れない。
それだけで、この時代では大きな力になるかもしれない。
惟種はさらに書いた。
大友。島津。相良。
その下へは、まだ何も書かなかった。
都だの天下だのと紙に残すのは危うい。
他人の目に触れれば、それだけで命取りになる。
いま書くべきは足元だけだ。
足元。
田。
市。
兵。
病。
それで十分だ。
惟種が筆を置いた時、障子の向こうから控えめな声がした。
「若君。**甲斐 宗運**様が、お見えにございます」
惟種は紙を見た。
まだ見せるには早い。
少なくとも、このままでは。
「……少し待たせよ」
侍女が下がる気配がする。
惟種は紙を折りたたみ、布団脇の小箱の奥へ滑り込ませた。
枕の下では浅い。見つかりやすい。
こういう妙な用心深さは、前世の会社員時代に身についたものかもしれない。
静かに息を整える。
昨夜は夢の話をした。
今朝は現状を整理した。
ならば次は、現実に落とす番だ。
惟種は顔を上げた。
「宗運を通せ」
声はまだ幼い。
身体も弱い。
だが頭の中は、昨夜よりずっと澄んでいた。
次に話すのは、まず田のこと。
田は時間がかかる。ならば市も少し触る。
兵はその後。
病のことは、まだ少し様子を見る。
そう決めた時、惟種は初めて、ほんの少しだけ自分の足場ができた気がした。




