第二十六話 南より来る客
天文十四年(1545年)十二月
雪にはまだならぬ。
だが、阿蘇の冬はもう骨へ入る冷たさだった。
朝の空気は張りつめ、吐く息は白い。山の端は薄く霞み、田はすでに刈り終えて静かに眠っている。収穫を終えた里は一見おだやかに見えるが、その下では人も銭も、冬のうちに次の支度を進めていた。
その朝、館の空気はいつも以上に張っていた。
南より大客が来る。
島津忠良。
のちに日新斎と呼ばれる男。
島津の家風を立て、三州の礎を築く、その中核の一人。
いまの阿蘇家にとって、ただの使者ではない。
南の大樹の根そのものが、こちらを見に来るようなものだった。
惟種はまだ薄暗いうちから起きていた。
寝不足ではない。
妙に目が冴えているのだ。
座敷へ行けば、もう惟豊と宗運がいた。火鉢の火が赤く、部屋の空気は静かに温められている。
惟豊が惟種を見た。
「起きておったか」
「眠れぬほどではありませぬが、寝過ぎるわけにも参りませぬ」
惟豊は少しだけ笑った。
「よい返しだ」
宗運は、すでに板の上へ来客の導線を書いていた。
門前。
宿所。
新市。
鍛冶場。
館。
見せるところと見せぬところが、きれいに線引きされている。
惟種はそれを見て頷いた。
「鍛冶場は火だけか」
「はい」
宗運が答える。
「火と道具まではお見せします。炉の細工や山の記しは伏せます」
「正しい」
惟豊が言う。
「今日見せるのは、阿蘇が整い始めていること。全部の腹までは見せぬ」
惟種は座に着いた。
こういうとき、父と宗運の慎重さは本当に頼もしい。
見せるべきものを見せ、隠すべきものを隠す。
ただの大名なら客を喜ばせる方へ寄るかもしれないが、この二人はまず国の損得を見る。
「日新斎殿が来られる以上、もてなしも軽くはできませぬ」
宗運が言う。
「宿所は清めました。門前も整わせてあります。新市は今日も開かせますが、騒がしすぎぬよう触れてあります」
「膳は」
惟種が聞くと、惟豊が答えた。
「飴をあしらう。玻璃も出す。だが、珍しさだけに寄りかからぬ。米、山の幸、川のもの、阿蘇の地で整うものを主にする」
それがいい、と惟種は思った。
ただ派手なものでは弱い。
「この家は、自分の地で客を迎えられる」と見せることが大事だ。
宗運が惟種へ目を向けた。
「若君」
「うむ」
「今日は、恐らく二つ見られます」
「二つ」
「阿蘇が結ぶに値する家か。もう一つは、若君が縁を結ぶに値する相手か」
惟種は一瞬だけ黙った。
事前に宗運が先方と調整をかけているが、同盟の話が露骨に出るわけではない。
だが、もうそこまで見られているのだと、宗運は言っている。
「わかっておる」
「本当に、でございますか」
「最近、お前はそれが多いな」
惟種が言うと、宗運はわずかに口元を動かした。
「最近の若君は、本当にわかっておられることが増えましたゆえ」
惟豊が火鉢の灰を静かに整えた。
「よい。では改めて言う」
惟種は父を見た。
「今日そなたが見せるべきは、才ではない。家としての落ち着きだ」
短い言葉だったが、重い。
「浮くな。気負うな。だが童にもなるな。答えるべきところで答えよ」
「はい」
「もし日新斎殿が、島津の家のことを聞くなら」
そこで惟豊は少し目を細めた。
「おぬしのあの話をしてもよい。だが、言い切りすぎるな」
「“いろは歌”のことですか」
惟種がそう言うと、惟豊ではなく宗運が答えた。
「名は出さぬ方がよろしいでしょう」
「うむ。発想だけでいい」
惟豊。
惟種は頷いた。
島津はいずれ、家へ通る教えを持つ。
その方向を見抜いていることを示せばよい。
まだ形になったものまで言い切る必要はない。
宗運がさらに言う。
「そして鉄砲の話ですが」
惟種は少し身を乗り出した。
「持って来ると思うか」
すでに宗運が先方に調整をかけており、鉄砲に興味を持っていると打診している。
「来る可能性は高いと思われます」
宗運の声は静かだが、いつもより少しだけ確信が強い。
「日新斎殿がご自身で来る以上、手ぶらではありますまい。玻璃への返礼もございます。何より、若君が“鉄砲そのものより理を学びたい”と申された話は、島津側に刺さっております」
「ならば」
「もし一挺持って来られたなら、兵を強化するためではなく、鍛冶と理のために欲しいと改めて申されるのがよろしい」
「わかった」
惟豊が最後に言った。
「今日の客は、ただの大身ではない。家を立てる人間だ。ゆえに、こちらも家で応じる」
「はい」
惟種は頭を下げた。
火鉢の火が、小さく鳴った。
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日が上がるころ、門前はもう整っていた。
雪こそないが、冬の白い光が町を洗っている。道は掃かれ、軒下には新しい縄が張られ、露店の並びも乱れていない。新市の商人たちには事前に触れが回っており、無駄な騒ぎはない。だが、人の気配はちゃんとある。
ここが大事だ、と惟種は思った。
静かすぎてもだめ。
作り物に見える。
賑わいはあるが、秩序もある。
それがいちばん強い。
惟種は惟豊とともに、少し高みから門前を見ていた。
水飴を売る店先。
玻璃を奥に置いた商家。
鍛冶場の煙。
行き交う荷。
戦の後に流れてきた人々が、もう少しずつ阿蘇の形に混ざり始めている。
「よい眺めになったな」
惟豊が言う。
「はい」
「まだ骨ばかりだが」
「骨が立てば、肉は後から付きます」
惟豊は少しだけ笑った。
「近ごろ、おぬしはそういう言い方をするな」
「宗運にうつりました」
「それは難儀だ」
そう言いながら、惟豊の目はどこか誇らしげでもあった。
やがて、下の門で合図が上がる。
南からの客が着いたのだ。
島津忠良は、思っていたより静かな男だった。
いや、静かというより、無駄がないと言った方が近い。
年の頃はすでに壮年を越え、顔立ちは強くも弱くもない。だが、目だけが不思議に静かで深い。こちらを見ているようでいて、その後ろまで見ている気配がある。
同行した者は絞られていた。
島津の大物が来たにしては少ない。
だが、その少なさがかえって格を立てていた。
惟豊が迎え、礼を交わし、館へ通す。
まずは膳ではなく、先に門前と新市を見せる形になった。これは宗運が整えた順だ。
忠良は、歩みを止めすぎない。
だが、見ていないわけでもない。
商人の数。
荷の質。
道の整い。
鍛冶場の煙。
人の顔つき。
何も言わぬまま、ただ目で拾っていく。
宗運が説明を添える。
「今年は若君が作られた道具により収穫が少し上向きました。市も、門前だけでなく少し先まで広がり始めております」
忠良は短く問うた。
「人は増えたか」
「増えております」
「逃げてきた者か」
「それもございます」
忠良はそこで、初めてほんの少しだけ口元を動かした。
「勝った後に、人が寄る家は強い」
惟種はその言葉を、横で聞いていた。
やはりこの人は、田の数や館の大きさだけでは見ない。
「ただ勝つだけでは、兵しか寄りませぬ」
惟種がそう言うと、忠良の目が初めてこちらへしっかり向いた。
「ほう」
「人が寄るには、腹が要ります。田と市が要ります」
忠良はしばらく惟種を見ていたが、やがて言った。
「鬼童、か」
いきなりそこか、と惟種は思ったが、顔には出さなかった。
「戦場の名は、兵が勝手につけるものにございます」
「その勝手が立つだけのことをしたのであろう」
返しが早い。
惟種は、少しだけ笑った。
「少しばかり、空を読みました」
「空を読むか」
「地も」
忠良の目がほんのわずかに細くなる。
「よい。好きだ、その言い方は」
宗運がそこで流れを切らぬよう、鍛冶場の前へ案内した。
火は落としていない。
だが、炉の腹までは見せぬ。
入口から、整った道具と火の気配が見えるだけで十分だ。
忠良は、並べられた道具に目を留めた。
「ずいぶん分けてあるな」
惟種が答える。
「混ぜると、手が鈍ります」
「鍛冶場の言か」
「山でも同じにございます」
忠良はそこで宗運を見た。
「山も開くか」
「はい」
宗運が答える。
「まだ緒についたばかり。ですが、阿蘇は山も田と同じく、育てて使うつもりにございます」
「面白い」
またその言葉だった。
軽く聞こえるが、軽くはない。
館へ戻ってから、ようやく正式な膳が出た。
米。
山の物。
川魚。
飴を使った甘味。
そして、玻璃の小器。
忠良はそれを見て、無言で手に取った。
「これを、若君が」
「案を出したのは若君にございます」と宗運。
忠良は器を置き、惟種を見た。
「飴は広く売るもの。玻璃は上へ売るもの、と聞いた」
惟種は頷いた。
「はい。物にはそれぞれ、向く相手がございます」
「兵も同じか」
「おそらく」
「おそらく、か」
「まだそこは勉強中にございます」
忠良は、そこで小さく笑った。
初めて、少し人間らしい笑いだった。
「よろしい」
膳が一段落したところで、宗運が一つの箱を差し出した。
「先の返礼に対して、わざわざご足労いただき、恐縮にございます」
「いや」
忠良はそれを開けさせた。
中にあったのは、鉄砲だった。
長さはまだ短め。
だが、惟種には十分だった。
種子島の流れを汲む火縄銃だ。
惟種は思わず、息を浅くした。
忠良はその反応を見ていた。
「宗運殿より阿蘇の若君が、鉄砲を欲するとは聞いた」
「はい」
「兵を強くするためではないとも」
「はい」
忠良はその鉄砲に手を置いた。
「これは返礼だ。
だが、ただの返礼ではない」
惟種はまっすぐ忠良を見た。
「先行の投じ物、とお考えくだされ」
宗運が、わずかに目を細めた。
この言い方は強い。
「そなたがこの一挺から何を見るか、見てみたい」
惟種は深く頭を下げた。
「ありがたきことにございます」
「何を見る」
忠良の問いはすぐ来た。
惟種は用意していた答えを、そのまま言った。
「火薬ではありませぬ。鉄でもありませぬ。理にございます」
「理」
「はい。なぜこの形か。なぜこの太さか。火をどう留め、どう飛ばし、どこが弱いか。そこを見ます」
忠良はしばらく惟種を見ていた。
やがて、静かに言う。
「やはり、おぬしは妙だ」
「よく言われます」
「だが、嫌いではない」
そこで、場の空気が少し和んだ。
ただし、緩んではいない。
このあたりの加減が、忠良は実にうまい。
惟種はそこで、一つだけ踏み込んだ。
「島津殿」
「何か」
「家が大きくなるには、強い兵だけでは足りぬのではありませぬか」
忠良の目が、静かにこちらへ向いた。
来たな、と宗運は思った。
ここからが本題だ。
「どういう意味だ」
「家中へ通る言葉が要ります」
惟種は続けた。
「子にも、若侍にも、重臣にも、同じ骨が通るような、短い教えにございます」
忠良は黙った。
惟豊も、何も挟まない。
宗運もだ。
「兵が強くとも、言葉が通らねば国は割れます」
惟種は、忠良を見た。
「いずれ島津には、そういう教えが似合う気がしております」
座敷が静まる。
わずかな火鉢の音だけが聞こえる。
忠良はすぐには返さなかった。
だがその沈黙そのものが、刺さった証だった。
「……おぬしは、面白い童だな」
そう言って、少しだけ息を吐く。
「我らの今を見ておるのではない。先を見ておる」
「先を見ぬと、結ぶ値も測れませぬ」
惟種が答えると、忠良は今度こそはっきり笑った。
惟豊が、それを見ていた。
父はたぶん、今のやりとりだけでかなり多くを読んだだろう。
夕刻が近づくころ、忠良は館の高みからもう一度門前を見た。
新市の荷。
行き交う人。
鍛冶場の煙。
勝った後に吸われてきた民の姿。
静かだが、たしかに育っている町。
忠良はその景をしばらく見てから、貴久へ返すべき答えを、自分の中で定めた。
阿蘇はまだ、大国ではない。
いま叩けば、勝てぬこともあるまい。
だが――
宗運がいる。
惟豊がいる。
そしてあの若君がいる。
いま叩けば、勝っても削られる。
北で無駄に血を流し、人を失い、兵を疲れさせる。
それは、島津の悲願を遠ざける。
薩摩。
大隅。
日向。
三州を一つの国として治める道は、まだ途上だ。
ここで阿蘇に深く噛みつき、北で疲弊するのは得ではない。
ならば、結ぶ。
正確には、いまのうちに縁を結んでおく。
忠良はそこで、惟種の方を振り返った。
あの童は、まだ六つにも満たぬ。
だが、見ているものは童ではない。
(これは……姫を約してもよいかもしれぬな)
そこまで思ってから、忠良は自分でも少しおかしくなった。
早い。
だが、早いからこそ意味がある。
今のうちに縁を置けば、この若君が本当に育った時、島津は北に太い糸を持てる。
それに――
もし敵に回れば、面倒だ。
いまの阿蘇はまだ細い。
だが、この細さは伸びる細さだ。
伸びきる前に叩くという選択肢も、頭をよぎらぬではない。
だが、叩いたところでただ潰れる相手ではない。
勝っても疲れる。
その疲れが、三州を治める道を遠ざける。
ならば友和が得だ。
忠良は、静かに結論した。
別れの座で、忠良は惟豊へ言った。
「本日は、よいものを見せていただいた」
「恐れ入ります」
「阿蘇は、ただ古き家であるだけではないようだ」
惟豊は低く頭を下げる。
忠良はそのまま、惟種へ目を向けた。
「若君」
「は」
「鉄砲は、ただの珍として終わらせるな」
「承知しております」
「それと、言葉の話だが」
惟種は少しだけ息を詰めた。
「家に通る教えは、たしかに要るな」
それだけだった。
だが、十分だった。
惟種は深く頭を下げる。
「島津殿にそう仰せいただけるなら、これ以上はございませぬ」
忠良はうっすら笑った。
「いずれまた会おう」
「はい」
「その時には、今日よりもっと大きくなっておるであろうな」
惟種は顔を上げた。
「そのつもりにございます」
忠良は満足そうに頷いた。
去り際、宗運にだけ、ほんの少し声を落として言う。
「よくまとめておる」
宗運は深く一礼した。
「恐れ入ります」
「阿蘇は、面白い」
「そう見ていただけたなら幸いにございます」
「幸いで済めばよいがな」
忠良はそう言って笑い、冬の空の下へ出ていった。
その背を見送りながら、惟種は胸の内で静かに思う。
いま何かが、一つ進んだ。
同盟がその場で結ばれたわけではない。
婚約がその場で定まったわけでもない。
だが、南の大きな家が、阿蘇を“結ぶに値する相手”として見た。
それで十分だ。
宗運が隣で言った。
「若君」
「うむ」
「うまく参りましたな」
「問題なく、か」
宗運が、ほんのわずかに笑った。
「はい。問題なく」
惟種も少しだけ笑った。
冬の空は高く、阿蘇の風は冷たい。
だが、その冷たさの中で、南へ伸びた糸は前よりずっと確かなものになっていた。




