第二十七話 止まった家から、置いていかれる
天文十五年(一五四六年)正月。
薩摩。
島津の館。
阿蘇から戻った日新斎は、その日のうちに貴久と向かい合っていた。
座敷には二人だけ。火鉢の炭が赤く燃え、障子の向こうでは冬の風が庭木を揺らしている。
貴久はしばらく父の顔を見ていたが、やがて口を開いた。
「して、いかがでした」
「何がだ」
「阿蘇にございます」
「ふむ」
日新斎は顎を撫でた。
頭に浮かぶのは、門前の市、行き交う荷、鍛冶場から上がる煙、玻璃の器、そして館で出会った妙な五歳の童だった。
しばらくして、日新斎は口を開く。
「あれは、まごうことなき鬼童よ」
「…………」
貴久の眉が僅かに動く。
「父上」
「なんだ」
「私は感想を伺っております」
「だから、感想を申しておる」
日新斎は楽しそうに笑った。
「鬼と童。はて、どちらなのやらな」
「結論は?」
「それを決めるのがおぬしであろう」
「…………」
貴久は小さく息を吐いた。
「では、私が判断できる程度には、中身をお聞かせくださいませ」
「ははは」
「父上」
「分かった、分かった」
日新斎は笑いを収めた。
そして。
「阿蘇は伸びるぞ」
貴久の表情が変わった。
「それほどまでに?」
「うむ」
「どこまで、と見ます」
「知らぬ」
「……知らぬ?」
「だから気になるのよ」
日新斎は火鉢へ手をかざした。
「際限が見えぬ」
貴久は何も言わず、続きを待った。
「まずな」
日新斎が言う。
「活気が妙だ」
「市が栄えていたと聞いております」
「市だけではない」
日新斎は首を振った。
「確かに人は多かった。荷も動いておった。鍛冶の音も聞こえる。商人もおる。冬だというのに、人が止まっておらぬ」
「はい」
「だが、わしが一番気になったのは、そこではない」
「何でございます」
「文官よ」
貴久が少し首を傾げた。
「文官?」
「うむ」
日新斎は阿蘇の館で見た光景を思い出した。
書付を抱えて廊を急ぎ、座敷へ呼ばれたと思えば、すぐ別の場所へ向かう。誰かを探して何かを伝え、新しい書付を受け取れば、また走る。
「よう動いておった」
「それほどに?」
「走っておったぞ」
日新斎は笑った。
「武者が戦場を駆けるのではない。文官が館を駆けておる」
「…………」
「一人二人ではない」
「随分と忙しいのでしょうな」
「そうよ」
日新斎は頷いた。
「忙しいのだ」
貴久は黙る。
「忙しいということは、それだけ仕事があるということよ」
日新斎にも、阿蘇の内部がどう動いているのかまでは分からない。
どの役目を誰が持ち、どんな命令がどこへ下り、何を記録して何を比べているのか。そこまで内側を見せられたわけではなかった。
だが、仕事がなければ人は走らない。
次から次へと処理すべきものが生まれているから、走るのだ。
「阿蘇は、家そのものが動いておる」
日新斎は言った。
「わしには、そう見えた」
「家そのものが」
「うむ」
少し考える。
「火山のようなものよ」
「火山?」
「表から見れば、ただの山だ。だが、その下では熱いものが動いておる」
日新斎は火鉢の赤い炭を指先で示した。
「阿蘇も同じよ。中の仕組みまでは分からぬが、妙に熱い」
そこで、ふと口を閉じる。
「貴久」
「はい」
「我らの館で、あれほど文官が走り回っておるか?」
貴久も、すぐには答えなかった。
島津にも仕事はある。
政もあれば、戦の支度もある。国人との折衝や、年貢、所領の揉め事もある。
だが、父が尋ねているのは、単純に忙しいかどうかではない。
それくらいは分かる。
「……いや」
貴久は答えた。
「あれほどではございませぬ」
「であろう」
日新斎は静かに頷いた。
「兵の強さで負けたとは思わぬ」
「はい」
「家格で劣るとも思わぬ」
「無論です」
「だが」
一拍。
「あの活気は、今の島津にはない」
貴久の顔が僅かに引き締まった。
日新斎自身、その言葉を口にするのは少し面白くなかった。
だが、見たものを見なかったことにするほど老いてはいない。
「ゆえに、伸びると思った」
「それだけで?」
「それだけで十分なこともある」
日新斎は答えた。
「家が止まっておらぬ」
◇
「そして」
日新斎が続ける。
「阿蘇惟種よ」
貴久が父を見る。
「あれが曲者だ」
「やはり」
「やはり、か」
「父上がわざわざ阿蘇まで赴かれたのでしょう」
「ははは。それもそうだ」
日新斎は楽しそうに笑った。
「だがな。わしにも、よう分からぬ」
「若君が?」
「うむ」
「父上にも?」
「わしを何だと思っておる」
「大抵の人間なら、一度会えばおおよその値を付けられる方かと」
「買い被るな」
「そうでしょうか」
「まあよい」
日新斎は少し姿勢を直した。
「童なのだ」
「五つですから」
「そうではない」
首を振る。
「鉄砲を前にすれば、これぞ戦国だと目を輝かせる、まこと五つの童よ」
「格好がよい、と?」
「うむ」
日新斎の口元が緩んだ。
「大真面目だったぞ」
「それは……」
「笑ったわ」
思い出したのか、肩を揺らす。
「だが、その少し前には、鉄砲を揃え、兵の動きまで揃えて威にすると申しておった。戦えば撃たれると思わせ、それでも退かぬなら排除する、とまでな」
「そこまで」
「うむ」
しばらくして、日新斎は小さく笑った。
「童のように見えたと思えば、途端に鬼のようなことを申す」
「鬼と童」
「よう出来た名よ」
少し考える。
「いや」
「違いますか」
「鬼だけでもないな」
日新斎は目を細めた。
「やはり、化け物の類かもしれぬ」
「父上」
「悪く申しておるのではない」
「それを本人に言われますなよ」
「言えば喜ぶかもしれぬぞ」
「……あり得そうなのが困りますな」
二人とも少し笑った。
だが、日新斎の表情はすぐに戻る。
「ただな」
「はい」
「あれの一番妙なところは、頭の切れではない」
「では?」
「知っておることが、多すぎる」
貴久が黙った。
「知恵ではない」
日新斎は言った。
「知識よ」
「知識」
「田、玻璃、山、鉄。それだけでも妙なのに、実物を見たことすらなかった鉄砲まで妙に知っておる」
「はい」
「それだけではない。島津を見る目まで、妙に遠い」
「我らが、これから伸びる家だと」
「うむ」
今の島津ではなく、これから先の島津を見て、阿蘇は先に糸を伸ばしてきた。
「一つ二つならば、博識な童で済む」
「はい」
「だが、あれは色々と知りすぎておる」
「父上よりも?」
「そこではない」
日新斎はすぐに否定した。
「知恵比べならば、上には上がおろう」
「では」
「最初から持っておるものが違う」
日新斎は自分の頭を指した。
「そんな感じよ」
「感じ、ですか」
「感じだ」
「ずいぶん曖昧ですな」
「だから感想だと申しておろう」
「…………」
貴久は苦笑した。
日新斎も笑う。
「わしにも分からぬのだ」
「明の古書の話は?」
「さてな」
「信じておられませぬか」
「書一冊、あるいは数冊で、ああなるものか?」
「……なりませぬな」
「であろう」
何者で、どこでそれを知り、なぜ五つの童があれほど多くのものを最初から持っているのか。
そこまでは分からない。
「分からぬものは、分からぬ」
日新斎はあっさり言った。
「ただ」
「はい」
「あれほど色々と知っておる童を、わしは他に知らぬ」
それが、日新斎が阿蘇惟種と直接話した末に得た、最も単純な感想だった。
◇
貴久はしばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「父上」
「なんだ」
「少々、高く見すぎではございませぬか」
「そうかもしれぬな」
「…………」
「何だ」
「認められるのですね」
「当たり前よ」
日新斎は笑った。
「わしとて神ではない」
「父上でしたら、違うと仰るかと思いました」
「だからこそ、おぬしに家督を譲ったのかもしれぬな」
「また御冗談を」
「さて、どうかな」
貴久がため息をつく。
「それで」
今度は日新斎が尋ねた。
「わしの感想を聞いて、いかがする」
「先ほど申されたではありませぬか」
「決めるのは、おぬしだ」
「分かっております」
貴久は目を伏せ、考えた。
父の見立てがどこまで正しいかは分からない。
だが、砂金の件は事実で、玻璃もあり、市の活気も父が自ら見てきた。鉄も掘り始め、惟種が普通の五歳でないことも疑いようがない。
そのうえ、父は鉄砲まで置いてきた。
「鉄砲を渡されたそうですな」
「うむ」
「よろしかったので?」
「よい」
日新斎は即答した。
「砂金への返礼としても軽すぎぬ。それに」
「それに?」
「あの一挺を、あれがどうするか見てみたい」
貴久は僅かに眉を寄せる。
「増えたら、どうされます」
「その時は、その時よ」
「気楽に申される」
「一挺を渡さずとも、いずれどこかから手に入れる顔をしておったぞ」
「……でしょうな」
そこは貴久にも想像できた。
「ならば」
日新斎は言う。
「こちらから渡した方が、貸しにも縁にもなる」
「なるほど」
貴久は少し考えたあと、静かに言った。
「三州もまだ一つになっておりませぬ」
「うむ」
「その時に、わざわざ北で阿蘇と争う理由もございませぬ」
「そういうことよ」
「ならば、阿蘇との関係は進めます」
「うむ」
日新斎は頷いた。
そして、少しだけ目を細くする。
「それだけか」
貴久が父を見る。
「何を仰りたいので?」
「血も入れよ」
貴久は少し黙った。
「もう、ですか」
「今だからよ」
日新斎は即座に返した。
「大きくなってからでは遅い。今のうちに縁を置くから意味がある」
「まだ阿蘇がどこまで伸びるかも分からぬのでしょう」
「だからこそ、値がある」
日新斎は笑った。
「わしならば、だ」
そこで線を引く。
「決めるのは、おぬしよ」
「またそれですか」
「当主だからな」
「都合のよい時だけ」
「何か申したか」
「何も」
貴久は再び考えた。
盟を結び、使者と商いを通すことには異論はない。
婚姻も、父が実際に阿蘇を見て帰ってきた今となっては、荒唐無稽とは思えなかった。
「……候補は探らせます」
日新斎が僅かに笑った。
「ほう」
「今すぐ決めるとは申しませぬ」
「うむ」
「ですが」
貴久は父を見る。
「結ぶのであれば、早い方がよい。そのお考えは分かりました」
「それでよい」
「ただし、阿蘇の動きは引き続き見ます」
「当然よ」
貴久はそこで、改めて言った。
「盟を結ぶ。使者と商いも通す。婚姻についても、内々に探らせます」
日新斎はゆっくり頷いた。
「よかろう」
「また上から」
「父親だからな」
「家督を譲ったのでしょう」
「家督は譲った」
日新斎は平然と言った。
「父親まで譲った覚えはない」
「…………」
貴久は何度目か分からぬため息をついた。
◇
話が終わり、日新斎は立ち上がる前に、ふと呟いた。
「鬼童、か」
貴久が父を見る。
「まだ気になりますか」
「うむ」
「鬼なのか、童なのか」
「いや」
日新斎は少し笑った。
「どちらも、なのだろうな。少なくとも、どちらかを演じているようには見えなんだ」
「父上がそう申されるのも珍しいですな」
「だから面白い」
日新斎は障子の向こうへ目を向けた。
阿蘇は遠い。
ここから見えるはずもない。
それでも、妙に頭へ残っている光景がある。
玻璃でも砂金でも、鍛冶場でもない。
館を駆け回っていた文官たちだった。
書付を抱えて人を探し、呼ばれれば走り、何かを受け取ればまた別の場所へ向かう。
何の仕事をしていたのか、日新斎には全部は分からない。
ただ、暇そうな者はいなかった。
家そのものが、次から次へと仕事を生み出しているように見えた。
「貴久」
「はい」
「我らも、負けてはおれぬぞ」
貴久は一瞬黙り、やがて少し笑った。
「それは、阿蘇にでは?」
「誰にでもよ」
日新斎は立ち上がった。
「止まった家から、置いていかれる」
それだけ言って、座敷を出ていく。
残された貴久は、しばらく火鉢の炭を見つめていた。
阿蘇とは盟を結び、使者と商いを通す。婚姻についても早いうちから探る。
それが本当に正しいのかは、まだ分からない。
だが、実際に阿蘇まで足を運んだ父が「今のうち」と言い、さらに阿蘇を見たうえで「島津も止まってはならぬ」と口にしたことだけは、貴久にも無視できなかった。




