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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百三十三話 ほどほどにな

 天文二十一年(一五五二年) 十二月中旬。


 京。


 朝廷から役目を与えられた翌日。


 阿蘇惟種は、甲斐宗運へ書状を送った。


 典薬別当へ任じられたこと。


 京の民へ種痘を広めること。


 施薬院を再興すること。


 皇孫御誕生の祭りまで差配すること。


 そして。


 春を越す頃まで、京へ残らねばならぬこと。


 最後に。


 此度のこと、すまぬ。


 そう書き添えた。


 宗運がどのような顔で読むのか。


 考えたくはなかった。


 その後。


 惟種は早速、種痘と疱瘡を患った者の治療。


 そして。


 施薬院の再興へ取りかかった。


 施薬院は。


 名こそ残っていたが。


 建物は傷み。


 医師も足りず。


 薬も足りない。


 人を受け入れるには。


 直さねばならぬ場所ばかりだった。


「面倒だな」


 惟種が呟く。


「お引き受けになられたのは、若君にございます」


 隣にいた鍋島種茂が答えた。


「分かっておる」


「では、お励みくださいませ」


「少しくらい、慰めてもよいのではないか」


「宗運殿への書状には、まだ人と銭が必要だとお書きになりましたか」


「書いた」


「それでは、某には慰めようがございませぬ」


 惟種は口を閉じた。


 確かに。


 宗運へ送った書状を思えば。


 慰められる立場ではなかった。


 それでも。


 引き受けた以上。


 適当に済ませるつもりはない。


 惟種は医師を集め。


 病にかかった者と、種痘を受ける者を分け。


 仮の施薬所を設け。


 医師や薬の手配を始めた。


 その頃。


 京では。


 三好長慶の兵が、慌ただしく動き始めていた。


 松永久秀も兵を集め。


 京の要所へ人を置いているという。


 十一月の終わり頃から。


 細川晴元方が兵を集めているとの報せは届いていた。


 だが。


 なかなか動こうとはしなかった。


 京には。


 足利義藤がいる。


 三好長慶がいる。


 そして。


 阿蘇惟種までいる。


 晴元方も。


 慎重にならざるを得なかったのだろう。


 だが。


 待てば待つほど。


 義藤と長慶の仲は固まり。


 朝廷と阿蘇の縁も深まっていく。


 これ以上待てば。


 晴元の入り込む余地はなくなる。


 そして。


 十二月中旬。


 ついに。


 晴元方が動いた。


「申し上げます!」


 施薬院の再興を進めていた惟種のもとへ。


 一人の兵が駆け込んできた。


「細川晴元方の兵が、京へ入りました!」


「そうか」


 惟種は答えた。


「五条坂へ攻め入り、建仁寺の辺りにも火の手が上がっておりまする!」


「そうか」


「三好勢が迎え撃つため、兵を出しております!」


「そうか」


 兵が顔を上げた。


 惟種は、再建途中の建物を眺めている。


「若君」


 種茂が呼ぶ。


「何だ」


「何か、御指示は」


「禁裏と宿所の守りを固めよ」


「はっ」


「施薬院にも、兵を残せ」


「晴元方へは」


「三好の敵であろう」


 惟種は答えた。


「三好が戦うのではないか」


「それは、左様にございますが」


「ならば、任せればよい」


 惟種は。


 遠くに上がる黒い煙を見た。


 三好長慶。

 松永久秀。

 細川晴元。


 皆。


 大変そうである。


 惟種には。


 それ以上の感想はなかった。


 晴元と長慶の争いに。


 自ら関わるつもりはない。


 阿蘇の兵を出すつもりもない。


 禁裏と自らの周囲さえ守れれば。


 それでよかった。


 ただ。


 一つだけ。


 気になることはある。


「種茂」


「はっ」


「堺までの道は、通れるか」


 種茂が惟種を見る。


「何ゆえ、お尋ねにございますか」


「京へ兵が入ったのであろう」


「はい」


「戦が広がれば、ここに残るのは危ない」


「……まさか」


「何だ」


「京を離れるおつもりでは」


 惟種は答えなかった。


 だが。


 そのつもりだった。


 晴元方が京へ攻め込んだ。


 京は危険になった。


 施薬院の再興も。


 種痘も。


 祭りも。


 続けることができない。


 そのようなことになれば。


 惟種が京を離れても。


 誰も責めることはできまい。


 悪いのは。


 すべて細川晴元である。


 まずは堺へ逃れる。


 そして。


 そのまま船に乗る。


 瀬戸内を抜け。

 豊後へ渡り。

 阿蘇へ帰る。

 朝廷へは。


 京が戦場となったため、やむを得ず帰国した。


 そう申し上げればよい。


 完璧だった。


 加世の出産にも。


 まだ間に合うかもしれない。


「若君」


「何だ」


「少し、嬉しそうに見えまする」


「見間違いだ」


「左様にございますか」


「左様だ」


 種茂は、明らかに疑っていた。


 その時。


 外から声が響いた。


「松永久秀殿がお見えにございます!」


「久秀が?」


「急ぎ、御伝えしたきことがあると」


「通せ」


「はっ」


 ほどなく。


 松永久秀が姿を現した。


 鎧を着け。


 腰には太刀。


 普段よりも。


 幾分、息を急かせている。


「阿蘇殿」


 久秀は座るなり、頭を下げた。


「細川晴元方が、五条坂へ攻め寄せておりまする」


「聞いた」


「建仁寺の周辺にも、火を放っております」


「それも聞いた」


「三好勢は、すでに迎え撃つため動いておりまする」


「そうか」


 惟種は頷いた。


「大変そうだな」


 久秀の眉が。


 わずかに動いた。


「……大変そう、でございますか」


「うむ」


「晴元方が、京へ攻め入ったのでございます」


「そうだな」


「公方様も、御身を案じておられまする」


「長慶殿がおるであろう」


「はい」


「そなたもおる」


「おりまする」


「ならば、何とかするのではないか」


 惟種は。


 当然のように答えた。


 敵の数を聞くこともなく。


 三好勢の配置を聞くこともなく。


 霊山城の守りを尋ねることもない。


 本当に。


 興味がないのである。


 久秀は。


 しばらく惟種を見つめていた。


「阿蘇殿」


「何だ」


「御心配には及びませぬ」


「そうか」


「京の守りは、我ら三好勢が引き受けまする」


「うむ」


「阿蘇殿には、何一つ御懸念なく、典薬別当としての御役目をお進めいただきたく」


 惟種の顔が。


 わずかに曇った。


「いや」


「何でございましょう」


「京が戦場となれば」


 惟種は、再建途中の施薬院を見た。


「施薬院の再興も、続けられぬであろう」


「御心配には及びませぬ」


 久秀は即座に答えた。


「いや、されど」


「晴元方は、必ず退けまする」


「戦が長引くこともある」


「長引かせませぬ」


「火が広がれば、危険でもある」


「火も、これ以上は広げさせませぬ」


 惟種は口を閉じた。


 返事が早い。


 あまりにも早かった。


「阿蘇殿」


 久秀が、静かに尋ねた。


「もしや」


 一度。


 言葉を切る。


「京が危うくなれば、御国へ戻られるおつもりにございますか」


「……そのようなことは申しておらぬ」


「左様にございますか」


 久秀が。


 静かに頷いた。


 その一言で。


 すべてを察した。


 「阿蘇殿」


 久秀は深く頭を下げた。


「京には」


 顔を上げる。


「指一本、触れさせませぬ」


「お、おう」


 惟種は、わずかに身を引いた。


「そこまで申さずとも」


「いいえ」


 久秀は強く言い切った。


「晴元方には、二度と京へ手を伸ばそうなどと思わせぬよう、確と退けてみせまする」


 惟種の頬が。


 わずかに引きつった。


 少しくらい。


 京が危うくなってもよいのだ。


 もちろん。


 民が死ぬのは困る。


 寺や町が焼けるのも困る。


 だが。


 惟種が帰国せざるを得ない程度には。


 危険になってもよい。


 久秀が完璧に京を守れば。


 帰る理由がなくなるではないか。


「まあ」


 惟種は。


 曖昧に頷いた。


「ほどほどにな」


 その瞬間。


 久秀の口元が。


 にやりと吊り上がった。


「承知いたしました」


 深く頭を下げる。


「ほどほどに」


 なぜ。


 言い直した。


 惟種は眉をひそめた。


 惟種が言ったのは。


 ほどほどに。


 それだけである。


 命令でもない。


 約束でもない。


 久秀へ権限を与えたわけでもない。


 問題はない。


 問題はないはずだった。


「では」


 久秀が立ち上がる。


「京の守りへ戻りまする」


「そうか」


「阿蘇殿は、御安心して、施薬院再興の御役目をお進めくださいませ」


「……うむ」


 久秀は。


 もう一度、深く頭を下げた。


 その口元には。


 まだ。


 笑みが残っていた。


 そして。


 足早に去っていく。


 惟種は。


 その背中を見送った。


「種茂」


「はっ」


「わしは、何かしくじったか」


「某にも、分かりかねまする」


「久秀が笑っておった」


「某にも、そのように見えました」


「やはり、しくじったのではないか」


「松永殿が何をお考えになったかによりまする」


「それが分からぬから困っておるのだ」


 惟種は腕を組んだ。


 何か。


 余計な言質を。


 久秀へ与えてしまった気がする。


 だが。


 何を与えたのか。


 まるで分からなかった。


 その時。


 遠くから。


 再び鐘の音が響いた。


 黒い煙が。


 京の空へ昇っている。


 朝廷も。

 幕府も。

 公方様も。

 三好も。

 細川も。


 どうして。


 わしの周りでばかり、騒ぎを起こすのか。


 再建途中の施薬院を見上げた。


 ただ静かに。


 種痘を進め。


 施薬院を直し。


 子の顔を見に。


 九州へ帰りたいだけなのだ。


 皆。


 わしを放っておいてくれぬものか……。


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