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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百三十二話 教育不足でした

 天文二十一年(一五五二年) 十二月


 阿蘇。


 広間には、九州の地図が広げられていた。


 阿蘇惟豊。

 甲斐宗運。

 島津貴久。

 島津日新斎。


 四人の前には。


 各地から届いた書付。


 検地帳。

 兵の配置。

 米蔵の数。

 港へ出入りする船の記録。


 それらが、整然と並べられていた。


「筑前の検地につきましては」


 宗運が書付へ目を落とす。


「予定より、わずかに遅れておりまする」


「理由は」


 惟豊が尋ねた。


「一部の村にて、田畑の境を巡る争いが起きております」


「大事か」


「いえ」


 宗運が答える。


「文官を増やし、村役とともに確認させております。春までには終わりましょう」


「うむ」


「また、豊後へ入れた文官につきましても、大きな問題はございませぬ」


 惟種が九州を離れて、ひと月あまり。


 それでも。


 阿蘇家の政は、滞りなく動いていた。


 各地に置かれた文官。


 整えられた連絡の道。


 村ごとの帳面。


 兵と政を分けた仕組み。


 惟種がいなければ、何も決められない。


 そのような家ではなくなっている。


「常備兵の訓練も、予定どおりにございます」


 宗運が続ける。


「冬の間は、街道と堤の普請を中心に行わせます」


「兵を遊ばせぬのはよいことだ」


 日新斎が頷いた。


「春になれば、そのまま田畑の手伝いにも回せよう」


「そのように手配しておりまする」


 宗運は、次の書付へ手を伸ばした。


「また、筑前の検地につきましては」


 言いかけて。


 宗運の手が止まった。


 惟豊が宗運を見る。


「宗運」


「……はっ」


「筑前の検地は、先ほど聞いたぞ」


 宗運は、手元の書付へ目を落とした。


 確かに。


 同じものを読んでいる。


「失礼いたしました」


 日新斎の口元が緩んだ。


「珍しいこともあるものよ」


「何がでございますか」


「甲斐宗運殿が、上の空とはな」


「上の空ではございませぬ」


「そうか」


「左様にございます」


 宗運は、わずかに眉を寄せた。


 日新斎は笑みを深くする。


「では、今のは何であったのだ」


「……書付を取り違えただけにございます」


「ほう」


 日新斎が貴久を見る。


 貴久も、笑いをこらえていた。


 惟豊も。


 宗運を見ながら、穏やかに笑っている。


 それが。


 息子を案じる家臣を見守る父の笑みなのか。


 惟種がいなくとも家中が回っていることを喜ぶ、先代当主の笑みなのか。


 宗運には分からなかった。


「何か、おかしゅうございますか」


「いや」


 惟豊が答える。


「宗運にも、気にかかることがあるのだと思ってな」


「ございませぬ」


「若君のことであろう」


 日新斎が言った。


 宗運の眉間に、皺が寄った。


「若君は、すでに京へ到着しておられる」


「承知しておりまする」


「公方様とも会われたそうだな」


「そのように聞いておりまする」


「では、何も心配することはあるまい」


 宗運は答えなかった。


 何も心配することはない。


 その言葉を信じられるなら。


 これほど楽なことはなかった。


 以前。


 惟種は、京から種痘の話を持ち帰った。


 その前には。


 塚原卜伝まで連れてきた。


 人。

 技。

 約束。

 役目。


 そして。


 誰も予想しなかった面倒事。


 惟種は京へ行くたび、何かを引き下げて帰ってくる。


 今回は。


 幕府だけではない。


 朝廷にも参内する。


 何も起こらぬはずがない。


「宗運殿」


 日新斎が楽しそうに言った。


「日の本広しといえど」


 一度、言葉を切る。


「そなたをここまで苦しめられるのは、若君だけであろうな」


「おやめくだされ」


 宗運が睨む。


「はっはっは」


 日新斎は、まったく堪えなかった。


「すまぬ、すまぬ」


「笑い事ではございませぬ」


「まだ何も起きておらぬではないか」


「起きてからでは遅いのでございます」


 宗運が言い切った。


 その時。


 廊下を走る足音が聞こえた。


「申し上げます!」


 広間の外から声が響く。


「入れ」


 惟豊が命じた。


 伝令が入り、平伏する。


「京より、急ぎの報せにございます」


 宗運の目が鋭くなった。


「こちらへ」


「はっ」


 差し出された書状を受け取る。


 封を確かめる。


 京へ同行している鍋島種茂からのものだった。


 宗運は封を切り、中を開いた。


 四人の視線が集まる。


「いかがした」


 惟豊が尋ねた。


「まずは、幕府にて」


 宗運が読み始めた。


「若君は、公方様へ御目通りを許されました」


「うむ」


「公方様が、三好長慶へ晴元討伐を急ぐよう命じられ」


 宗運の眉が動く。


「三好勢を若君へ預けるとの御沙汰まで出されました」


 貴久が目を見開いた。


「三好の兵を、惟種へか」


「若君は、これを固辞されておりまする」


「当然であろう」


 日新斎が言った。


「畿内の兵など預けられても、扱いに困る」


「その後」


 宗運の声が、少しだけ低くなる。


「若君は、公方様へ御諫言を申し上げられました」


「諫言?」


「はい」


 義藤を虎。


 自らを狐として。


 本来立つべき場所へ、義藤を戻したこと。


 その結果。


 義藤が三好長慶へ、言葉が過ぎたと認めたこと。


 晴元討伐を、再び長慶の裁量へ任せたこと。


 宗運は、淡々と読み上げた。


 惟豊が小さく頷く。


「よく申したものだ」


「はい」


 宗運も、その点に異論はなかった。


 危うい。


 だが。


 必要な言葉だった。


「ただし」


 宗運の目が、書状の下へ移る。


「公方様は、若君を」


 一度、黙る。


「余の一の家臣と、御前にて宣言されたとのことにございます」


 広間が静かになった。


 日新斎が、ゆっくりと笑った。


「なるほど」


 貴久も頷く。


「さすが、わしの娘婿じゃ」


「お褒めになるところではございませぬ」


 宗運が低く答えた。


「公方第一の臣という立場が、さらに固まったということにございます」


「悪いことばかりでもあるまい」


 惟豊が言う。


「若君が望んでおられませぬ」


「それは知っておる」


 惟豊は穏やかだった。


「続きは」


「はっ」


 宗運は、次の紙を開いた。


「こちらは、朝廷での出来事にございます」


 宗運の指が止まった。


「いかがした」


「……若君は」


 宗運が、ゆっくりと読み上げる。


「京の民へ種痘を広めるよう、陛下より御頼みを受けられました」


「それは、めでたいことではないか」


 貴久が言う。


「はい」


「若君も、喜んで引き受けられたのであろう」


「……はい」


 宗運の手が震え始めた。


「さらに、種痘の功績により」


 声が低くなる。


「典薬別当へ任じられました」


「ほう」


 日新斎が感心したように頷いた。


「従二位の武家を、典薬別当に据えるとは。異例の御沙汰よ」


 宗運は答えない。


 まだ先があった。


「京の種痘を、若君御自身が見届けるよう求められ」


 紙を持つ手が、さらに震える。


「春を越し、少なくとも初夏までは、京に滞在する見込みと」


「初夏まで?」


 惟豊が聞き返した。


「今は十二月だぞ」


「はい」


 宗運の声が震えた。


「つまり」


 一度、息を吸う。


「半年は、帰ってこられぬ見込みにございます」


 沈黙。


 宗運は書状を見つめていた。


 肩が震えている。


「半年……」


 小さな声だった。


「宗運?」


 惟豊が呼ぶ。


「半年は帰ってこぬだと……?」


 宗運が顔を上げた。


「半年は帰ってこぬだとおおおお!」


 怒声が、広間を揺らした。


 伝令が身を縮める。


 貴久と日新斎は、顔を見合わせた。


 惟豊も。


 止めるべきか。


 笑うべきか。


 迷うような顔をしている。


「若君は!」


 宗運が書状を握りしめた。


「何を考えておられるのですか!」


「陛下からの御頼みであろう」


 日新斎が宥める。


「断りにくいのも無理はあるまい」


「すべてを即答で引き受ける必要はございませぬ!」


「まあ、政務が滞るわけではない」


「それとこれとは別にございます!」


 宗運は、ぷるぷると震えていた。


「まだございます」


「まだあるのか」


 貴久が尋ねる。


 宗運は、書状へ目を戻した。


「典薬別当として、施薬院を再興するよう仰せつかったとのことにございます」


「施薬院をか」


 日新斎が眉を上げた。


「はい」


 宗運が読み上げる。


「建物を整え、医師を置き、貧しき者にも種痘を施せるようにすると」


「費用は」


 貴久が尋ねた。


「書かれておりませぬ」


「ならば、阿蘇持ちか」


「おそらくは」


 宗運の声から。


 感情が消えた。


「それだけか」


 惟豊が尋ねる。


「……まだございます」


 宗運は、残りの文へ目を落とした。


「今春、方仁親王に御子が御誕生になられました」


「めでたいことだ」


「はい」


「それで」


「京の種痘が進みました後」


 宗運の声は、平らなままだった。


「皇孫御誕生と、疱瘡を防ぐ術の完成を祝う祭りを、来年行いたいとの御意にございます」


「よいではないか」


 貴久が言った。


「差配は、若君に任されたとのことにございます」


 貴久の笑みが、わずかに固まった。


「……費用は」


「書かれておりませぬ」


 宗運が答える。


「されど」


 医師。

 種痘に必要な道具。

 施薬院の再建。

 宿所。

 米。

 酒。

 祭りの支度。

 堺から品を運ぶ船。

 警護の兵。


「すべて、阿蘇家の人員と銭を当てにしておられるものと思われまする」


 再び。


 沈黙が落ちた。


 日新斎が、先に笑った。


「はっはっは!」


「日新斎殿」


「いや、すまぬ」


 日新斎は腹を押さえた。


「しかし、若君も大きく出られたものよ」


「若君から申し出たわけではございませぬ」


「されど、引き受けたのであろう」


「……はい」


「京の民へ種痘を施し」


 日新斎が指を折る。


「典薬別当となり」


「施薬院を再興し」


「皇孫御誕生の祭りまで差配する」


 宗運の顔が、さらに険しくなる。


「古今東西」


 日新斎は楽しそうだった。


「これほどのことをできる者が、ほかにおろうか」


「おりませぬ」


「であろう」


「ゆえに困っているのでございます!」


「銭は飛ぶが」


 日新斎が笑みを深めた。


「阿蘇の名は、天下に残るぞ」


「飛ぶ銭を数えるのは、某にございます」


 宗運の声は、地の底から響くようだった。


「さすが、わしの娘婿じゃ」


 貴久が笑った。


「帝より直々に頼まれ、それを引き受けたのだ。立派ではないか」


「お褒めになるところではございませぬ」


「いや、立派であろう」


「限度というものがございます!」


「宗運」


 惟豊が呼んだ。


 宗運は口を閉じた。


「はっ」


「政務は回っておる」


「はい」


「人も、銭も、用意できぬわけではあるまい」


「できぬわけではございませぬ」


「ならば、よい」


「先代様」


 宗運が惟豊へ向き直った。


「此度のこと」


 深く頭を下げる。


「某の教育不足にございました」


「何?」


「若君には」


 宗運は、本気で悔いていた。


「断るすべを、お教えしておくべきでございました」


 即答しないこと。


 家臣へ相談すると答えること。


 できぬものは、できぬと言うこと。


 褒められたからといって、何でも引き受けぬこと。


「少なくとも」


 宗運が続ける。


「持ち帰り、家中にて詮議いたしますると申し上げるよう、教えておくべきでございました」


 惟豊は、しばらく宗運を見た。


 そして。


 穏やかに笑った。


「よい」


「されど」


「それも、惟種の勉強になろう」


「勉強で済む額ではございませぬ」


「阿蘇家にとって、痛くない出費ではあるまい」


 惟豊は地図へ目を落とした。


「されど、京の民を救い」


「朝廷との縁を深め」


「阿蘇の名を天下へ広げるのであれば」


 一度、言葉を切る。


「すべてが無駄というわけでもあるまい」


 宗運は答えなかった。


 理屈は分かる。


 政治的な価値も分かる。


 それでも。


 惟種が、そのすべてをその場で引き受けたことには納得できない。


「直ちに、京へ書状を送りまする」


「何と書く」


 日新斎が尋ねた。


「今後、何を頼まれても即答しないこと」


「祭りの規模を勝手に広げぬこと」


「人員と銭を新たに約束せぬこと」


「施薬院の再興については、京の町衆や寺社にも負担を求めること」


「そして、帰国の日取りを決めること」


「もう引き受けた後ではないか」


 惟豊が言った。


「ゆえに」


 宗運は鬼のような顔で答えた。


「これ以上、増やさぬよう申しつけまする」


 日新斎が、また笑った。


「若君が帰ってきた時が楽しみだな」


「笑い事ではござらぬ……」


 宗運は、報告の書付を握りしめた。


「若君がお戻りになられたならば」


 目が据わる。


「みっちりと、申し聞かせまする」


「はっはっは」


 日新斎が笑う。


「ほどほどにな」


 貴久も笑っていた。


 さすがは、わしの娘婿。


 そのように。


 もう一度、口にしようとして。


 ふと。


 貴久の笑みが止まった。


「そういえば」


 三人の目が、貴久へ向く。


「何だ」


 惟豊が尋ねる。


 貴久は、指を折った。


「加世の出産は」


 広間から、笑いが消えた。


「今月であったな」


 宗運の手が止まる。


 惟豊も。


 日新斎も。


 何も言わなかった。


 貴久が、ぽつりと漏らした。


「これでは、間に合わぬな」


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
先にいつまで在京できるかとか出して過ぎれば問答無用で帰るぐらいの強引さが 流石に必要だと思うしそれができる国力・実力に達してるのに もめ事を嫌う前世が主人公の悪癖になってますね
もうこれ宗運も京に行くしかないのでは 京パートは読んでいてストレスもありますが、宗運の反応と説教の時間が新記録を更新しそうでちょっと笑ってしまいました
この流れだと宗運が無能に見えるね 嫌がる惟種に京に行くように促した上で京での立ち回りを教育せずに事が起きてから八つ当たりしてる様にしか見えない
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