第二百三十一話 朝廷は恐ろしい
天文二十一年(一五五二年)十一月。
京。
阿蘇惟種は、疲れていた。
「本日は、どこであったか」
惟種が力なく尋ねる。
鍋島種茂は、手にした書付へ目を落とした。
「昼より、公方様がお待ちにございます」
「またか」
「その後、三好長慶殿より茶の席へ招かれております」
「昨日も会ったぞ」
「昨日は酒宴にございます」
「同じではないか」
「異なります」
種茂は淡々と答えた。
「そして夜には、松永久秀殿が能をご用意されております」
惟種は黙った。
公方様。
三好長慶。
松永久秀。
幕府の重臣。
公家。
寺社。
京へ到着して以来。
惟種は、毎日のように呼び出されていた。
酒を勧められ。
茶を出され。
能を見せられ。
種痘について尋ねられ。
九州について聞かれ。
次はいつ京へ来るのかと問われる。
「今日は休む」
「公方様がお待ちにございます」
「腹が痛い」
「朝餉は三杯召し上がっておられました」
「今、痛くなった」
「公方様へ、そのように申し上げますか」
惟種は種茂を見た。
「……行く」
「御意」
京へ来れば。
禁裏へ参内し。
種痘について説明し。
公方様と話をする。
用が済めば、九州へ帰る。
そのはずだった。
だが。
一日過ぎ。
三日過ぎ。
十日過ぎても。
朝廷からは、何の沙汰もなかった。
その間にも。
公方様は呼ぶ。
三好長慶も呼ぶ。
松永久秀まで呼ぶ。
気づけば。
ひと月近くが過ぎていた。
「京の者は、暇なのか」
「若君を歓待しているのでございます」
「歓待で人は痩せるのか」
「少なくとも、若君は酒宴でもよく召し上がっておられます」
「心が痩せておるのだ」
惟種は畳へ横になった。
「九州へ帰りたい」
「禁裏への参内が済んでおりませぬ」
「医師だけ置いて帰ろう」
「なりませぬ」
「なぜだ」
「陛下へ種痘の完成を申し上げたのは、若君にございます」
惟種は顔を覆った。
「昔のわしを殴りたい」
「無理にございます」
「分かっておる」
それにしても。
なぜ、朝廷から呼ばれないのか。
惟種は、種痘の効き目を確かめているのだろうと考えていた。
禁裏や公家の者へ、実際に種を入れ。
熱の出方を見て。
本当に疱瘡を防げるのか。
慎重に調べている。
だから時間がかかっている。
そう思っていた。
だが。
十二月に入ったある日。
ようやく、参内の沙汰が届いた。
「来たか!」
惟種は立ち上がった。
「これで帰れる!」
「まだ何も終わっておりませぬ」
「終わらせるのだ」
禁裏へ行く。
種痘について説明する。
医師団を置く。
そして帰る。
「今日中に終わらせるぞ」
「参内を何だと思っておられるのですか」
「帰るための最後の難所だ」
種茂は、深く息を吐いた。
その日の禁裏には。
多くの公卿が集まっていた。
華美ではない。
御所の暮らしが豊かでないことは、惟種にも分かる。
それでも。
用意できる限りの香が焚かれ。
酒や菓子が並べられ。
普段よりも多くの者が、惟種を迎えるために座していた。
「従二位、阿蘇惟種殿」
声が響く。
惟種は進み出て、深く頭を下げた。
面倒な。
そう思ってはいても。
相手は帝である。
さすがに、適当に済ませるわけにはいかない。
「阿蘇惟種にございます」
御簾の向こうから。
後奈良天皇の声が聞こえた。
「面を上げよ」
「はっ」
惟種が顔を上げる。
「遠き九州より、よう参った」
「ありがたきお言葉にございます」
「疱瘡を防ぐ術を成したと聞く」
「はい」
「種痘と申したか」
「左様にございます」
惟種は、種痘の仕組みを説明した。
疱瘡に似た、弱い病を用いること。
一度、熱を出す者もいること。
傷口が腫れることもあること。
それでも。
本物の疱瘡にかかる危険を、大きく減らせること。
「すべての者を救えるわけではございませぬ」
惟種は頭を下げた。
「されど、多くの命を救うことはできましょう」
御簾の向こうで。
後奈良天皇が、静かに頷いた気配がした。
「大儀である」
「はっ」
「その術を」
帝が続ける。
「禁裏の者だけでなく、京の民にも広めてもらいたい」
来た。
惟種は胸を張った。
「もちろんでございますとも!」
そのために、医師を連れてきた。
必要な道具もある。
種痘に用いるものも。
記録の取り方も。
すべて準備している。
そう。すべては、早く帰るために準備していたのだ。
「阿蘇より連れて参りました医師を、京へ残しまする」
惟種は言った。
「典薬寮の方々にも術をお伝えし、京の医師を育てます」
「うむ」
「まずは禁裏、公家衆」
それから寺社。
町衆。
順に広げればよい。
「私が九州へ戻りましても、滞りなく続けられるよう整えまする」
言った。
帰ると言った。
これでよい。
「いや」
後奈良天皇が答えた。
「そなたにも、しばらく残ってもらいたい」
惟種の笑みが固まった。
「……私も、でございますか」
「うむ」
「されど、医師どもは十分に術を修めておりまする」
「初めてのことである」
帝の声は穏やかだった。
「京の者が安心できるところまでは、そなた自身が見届けよ」
周囲の公卿たちが、一斉に頷いた。
「まこと、もっともにございます」
「阿蘇卿がおられれば、皆も安心いたしましょう」
「まずは禁裏より始め、その後に公家衆」
「寺社にも順次、沙汰を出さねばなりませぬ」
「町を幾つかに分けるべきでしょうな」
話が進んでいく。
惟種が何も答えていないのに。
予定だけが決まっていく。
「公家衆だけでも、ひと月は必要でしょう」
「寒い時期に急ぎすぎるのも、いかがなものか」
「春を越す頃まで、確かに見届けるべきかと」
春を越す?
惟種は、心の中で指を折った。
今は十二月。
春を越す。
四月。
五月。
半年ではないか。
まさか。
嘘だろう。
「阿蘇卿」
公卿の一人が笑顔を向けた。
「宿所についても、引き続き用意させましょう」
「いや、それは」
「御心配には及びませぬ」
何も心配していない。
むしろ。
宿所を用意されることが、一番の心配である。
「陛下」
惟種は、どうにか口を挟んだ。
「一日も早く、京の者たちへ行き渡るよう、誠心誠意努めまする」
「うむ」
「できる限り早く終え」
帰ります。
そう言おうとした。
「急ぐ必要はない」
後奈良天皇が、優しく言った。
「確実に進めよ」
「……はっ」
逃げ道が消えた。
「それとな」
帝が続ける。
まだあるのか。
惟種は、背筋を伸ばしたまま身構えた。
「この功は、大きい」
「恐れ入りまする」
「疱瘡を防ぐ術を成し、多くの民を救おうとしている」
御簾の向こうから。
紙を広げる音が聞こえた。
「ゆえに、そなたを典薬別当に任ずる」
惟種は瞬きをした。
「典薬別当、でございますか」
「うむ」
「典薬寮を督し、種痘のことを進めよ」
公卿たちが、一斉に頭を下げた。
「おめでとうございまする」
「まこと、阿蘇卿にふさわしき御役目」
「異例の御沙汰にございますな」
典薬頭ではない。
典薬寮の実務へ加わる役でもない。
別当。
公卿として。
典薬寮そのものを監督する役目である。
名誉。
確かに名誉だった。
だが。
惟種には分かった。
これは褒美ではない。
医師を京へ置き。
自分だけ九州へ帰る。
その逃げ道を塞ぐための役目である。
「身に余る光栄にございます」
そう答えるしかなかった。
「励め」
「はっ」
「それから」
まだあるのか。
惟種は、心の中で泣いた。
「施薬院を再び整えたい」
「施薬院を、でございますか」
「うむ」
病める者へ薬を施すための院。
かつては、多くの者を救ったという。
だが今は。
名ばかりを残しているにすぎない。
「そなたが典薬別当となるのだ」
帝の声は穏やかだった。
「種痘を広める場として、施薬院を再興せよ」
公卿たちが頷く。
「まこと、よき御考えにございます」
「施薬院であれば、貧しき者も種痘を受けられましょう」
「医師を置かねばなりませぬな」
「建物も整えねば」
「薬や米も必要となりましょう」
話が進んでいく。
誰が建物を直すのか。
誰が医師へ銭を払うのか。
誰が薬と米を用意するのか。
誰も口にはしない。
だが。
惟種には、はっきりと分かった。
わしだ。
典薬別当。
施薬院の再興。
京中への種痘。
名誉という名の縄が。
一本ずつ。
惟種の手足へ巻きついていった。
「さらに」
まだあるのか。
惟種は、笑みを保ったまま心の中で泣いた。
「今春、方仁親王に御子が生まれた」
「まことに、めでたきことにございます」
のちに、誠仁親王と呼ばれる皇子である。
「されど」
後奈良天皇の声が、少しだけ沈んだ。
「満足な祝いもできておらぬ」
惟種は黙った。
朝廷の懐事情は知っている。
察したくない。
だが。
嫌でも察してしまう。
「京の種痘が進み」
帝が続ける。
「民が疱瘡を恐れずに済むようになったならば」
一度、言葉を切った。
「皇孫の誕生と合わせ、来年、京で祭りを行いたい」
「祭り、でございますか」
「うむ」
「民とともに祝いたい」
それはよい。
実にめでたい。
惟種も、祭りを否定するつもりはない。
「その差配も」
後奈良天皇が言った。
まさか。
やめてくれ……。
「そなたに頼みたい」
惟種は固まった。
「私に、でございますか」
「種痘を広めた者が差配するのがよかろう」
「まことにふさわしゅうございます」
公卿の一人が頷いた。
「阿蘇卿であれば、京の町衆も従いましょう」
「米や酒の手配も、早めに進めねばなりませぬな」
「堺から品を運ぶこともできましょう」
「阿蘇家の船があれば、滞りはございますまい」
費用を出せとは。
誰も言わなかった。
だが。
誰が出すのか。
それだけは、はっきりと分かった。
惟種である。
種痘、医師、施薬院、宿所、祭り。
典薬別当になったのだから当然のように。
次々と。
惟種の背へ積まれていく。
そして。
惟種は、ようやく気づいた。
ひと月近く。
朝廷から何の沙汰もなかった理由。
種痘の効き目を。
確かめていたのではない。
惟種へ何を任せるか。
どの役目を与えるか。
どこまで頼めるか。
誰が、どのように話を運ぶか。
公卿たちは。
ひと月近くをかけて。
念入りに話を整えていたのだ。
惟種が京へ着くより前から。
もしかすれば。
すべて決まっていたのかもしれない。
宗運。
助けてくれ。
今回ばかりは、本当に。
もう二度と。
口うるさいじじいなどとは言わぬから……。
惟種は、本気でそう思った。
だが。
宗運は九州にいる。
ここにはいない。
「阿蘇卿」
帝が呼ぶ。
「はっ」
「頼めるか」
断れるはずがなかった。
民を救うため。
皇孫の誕生を祝うため。
帝直々の頼みである。
しかも今や。
惟種は典薬別当であった。
「謹んで」
惟種は深く頭を下げた。
「お引き受けいたしまする」
「うむ」
「誠心誠意、務めさせていただきます」
「期待しておる」
御簾の向こうから。
満足そうな声が返ってきた。
公卿たちも笑顔である。
「さすがは阿蘇卿」
「これで京の民も安心できますな」
「施薬院の再興も、まこと喜ばしきことにございます」
「来年の祭りも、楽しみなことにございますな」
命じられたわけではない。
脅されたわけでもない。
ただ。
褒められ。
役目を与えられ。
頼まれ。
気づいた時には。
半年先まで予定が決まっていた。
断れるものなど、一つもない。
幕府とは、まるで違う。
剣も。
兵も。
御内書すら使わず。
笑顔のまま。
名誉と大義で、逃げ道を塞いでくる。
惟種は、深く頭を下げたまま思った。
朝廷は、本当に恐ろしい。
二度と来るか、こんなところ!!




