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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百三十話 責善、朋友之道

 天文二十一年(一五五二年) 十一月。


 京。

 公方御所。


「よう来た!」


 足利義藤の声が、広間に響いた。


「待っておったぞ、惟種!」


 上段に座る義藤は、隠そうともせず笑っていた。


 その顔には。


 九州から有力な大名が参ったことへの満足だけではない。


 長く離れていた者と、ようやく再会できた。


 そのような喜びが浮かんでいた。


「御無沙汰いたしておりまする」


 阿蘇惟種は、深く頭を下げた。


「此度、無事に公方様へ御目通りがかない、恐悦至極にございます」


「堅い挨拶はよい」


 義藤が手を振る。


「顔を上げよ」


「はっ」


 惟種が顔を上げた。


 義藤は、満足そうに頷いた。


「変わらぬな」


「公方様も、御健勝の御様子。何よりにございます」


「うむ」


 義藤は胸を張った。


「余は健勝である」


「左様にございますか」


「何だ。その顔は」


「いえ」


 惟種は笑った。


「何よりにございます」


 義藤も笑う。


 広間には。

 三好長慶。

 松永久秀。

 細川氏綱。

 伊勢貞孝。


 そのほか。


 幕府の重臣や奉公衆が並んでいた。


 阿蘇家からは。


 鍋島種茂。

 戸次鑑連。

 甲斐親英らが控えている。


 義藤と惟種のやり取りを。


 周囲の者たちは、黙って見ていた。


 公方と臣下。


 確かに、そうである。


 だが。


 それだけではない。


 義藤の態度は。


 ほかの大名へ向けるものとは、明らかに違っていた。


「種痘の話も聞きたい」


 義藤が言った。


「禁裏へ申し上げる前に、余にも詳しく聞かせよ」


「無論にございます」


「疱瘡を防げるのであろう」


「完全ではございませぬが、多くの命を救えるものと考えております」


「大したものだ」


 義藤は上機嫌だった。


「やはり惟種は、余のためによく働く」


 惟種の笑みが。


 ほんの少しだけ固まった。


「恐れ入りまする」


 別に。


 公方様のためだけに作ったわけではない。


 そう言うわけにもいかない。


「それにな」


 義藤が、三好長慶へ目を向けた。


「惟種が京へ参ったのだ」


 広間の空気が、わずかに変わった。


「晴元の件も、これで片づこう」


 長慶は、静かに頭を下げた。


「恐れながら、公方様」


「何だ」


「晴元方につきましては、丹波の諸勢力との結びつきもあり、いまだ――」


「言い訳はよい」


 義藤が遮った。


 長慶の言葉が止まる。


「余は、晴元を鎮めよと命じた」


「はっ」


「されど、いまだ決着がついておらぬ」


「申し訳ございませぬ」


「惟種ならば」


 義藤が笑った。


「とうに終わらせておろう」


 広間が静まり返った。


 惟種は、ゆっくりと瞬きをした。


 やめて。


 こちらを巻き込まないで。


「そうであろう、惟種」


 来た。


 惟種は笑みを保った。


「畿内のことは、三好殿が最もよく御存じにございます」


「謙遜するな」


「謙遜ではございませぬ」


 惟種は長慶へ目を向けた。


「三好殿であれば、何の問題もございませぬ」


 これでよい。


 三好長慶の面子を立てた。

 公方様も。

 長慶も。


 これで納まる。


「うむ」


 義藤が大きく頷いた。


「惟種もそう申しておる」


 違う。


「長慶」


「はっ」


「惟種にまで励まされておるぞ」


 違う。


「今後は、さらに励め」


「……はっ」


 惟種の頬が引きつった。


 長慶は、深く頭を下げている。


 その顔は見えない。


 だが。


 これでは。


 惟種が長慶を評価し。


 その働きを督促したようなものだった。


 何一つ。


 面子を立てられていない。


「いっそのこと」


 義藤が続けた。


「三好の兵を、惟種へ預けてはどうだ」


 惟種の思考が止まった。


 広間の空気も止まった。


 長慶が、ゆっくりと顔を上げる。


 その表情は変わらない。


 久秀も。


 扇を手にしたまま、微動だにしない。


「惟種であれば、三好の兵も上手く使おう」


 義藤は本気だった。


「晴元など、すぐに鎮められよう」


「公方様」


 惟種は、どうにか口を開いた。


「三好殿の兵は、三好殿が率いてこそ力を発揮するものにございます」


「そなたならば問題あるまい」


「大いにございます」


「何がだ」


「地理も」


 惟種は答えた。


「諸家との関わりも」


「兵の心も」


「私より、三好殿の方がはるかに深く御存じにございます」


「ならば、長慶がそなたを助ければよい」


 駄目だ。


 何を言っても。


 こちらを上に置こうとする。


「長慶」


 義藤が言った。


「惟種を助け、晴元を鎮めよ」


「公方様」


 惟種が、やや強く呼んだ。


 義藤が惟種を見る。


「何だ」


 惟種は黙った。


 言わなければならない。


 このままでは。


 三好長慶も。

 松永久秀も。

 細川氏綱も。

 幕府の者たちも。


 阿蘇家が畿内の軍事を奪いに来たと考える。


 公方様は。


 阿蘇の力が自分の力であるかのように振る舞っている。


 格好が悪い。


 惟種が敬ってきた公方様らしくない。


 だが。


 ここで言葉を誤れば。


 惟種は、不忠の臣となる。


 いや。


 義藤が一言。


 阿蘇は御敵である。


 そう口にすれば。


 それだけで九州が崩れるわけではない。


 されど。


 今の阿蘇家は、まだ一枚岩ではなかった。


 惟種個人の威と実績。


 公方と朝廷から与えられた権威。


 それらによって、辛うじてまとまっている者も多い。


 公方へ逆らった。


 逆徒となった。


 その言葉一つで。


 離れる者は必ず出る。


 敵も動く。


 堺には船を残してある。


 水夫も。

 兵糧も。


 いつでも九州へ戻れるよう整えている。


 だが。


 この場で捕らえられれば。


 船など何の役にも立たない。


 惟種は、義藤を見た。


 見限ることはできる。


 幕府など。


 惟種にとって、守るべきものではない。


 武士が力を握り。


 家と血筋によって政を継ぐ世を。


 いつまでも残すつもりもない。


 惟種が作りたい国に。


 最後まで幕府が必要だとは思っていなかった。


 義藤のために。


 その未来を曲げる気もない。


 だが。


 義藤という男を嫌ってはいなかった。


 むしろ。


 好きな部類に入る。


 長く関わり。


 面倒を持ち込まれ。


 ともに京へ入り。


 何度も振り回された。


 腐れ縁。


 友に近いもの。


 その中には。


 確かな敬意もあった。


 だからこそ。


 格好の悪いまま、放っておくことはできない。


 一度だけだ。


 これで届かぬなら。


 次はない。


「公方様」


 惟種が口を開いた。


「うむ」


 惟種は。


 義藤から目を逸らさなかった。


「善を責むるは、朋友の道なり。父子、善を責むるは、恩をそこなうの大なる者なり」


 義藤の眉が、わずかに動いた。


 広間に控える者たちは。


 互いの顔を窺った。


 孟子の一節である。


 言葉を知る者はいた。


 意味の分かる者もいる。


 だが。


 なぜ今。


 惟種がそれを口にしたのか。


 そこまで理解した者は、多くなかった。


 惟種は続けた。


江乙こういつこたえていわく。虎、百獣を求めてこれを食らわんとし、狐を得たり」


 広間が静まり返る。


「狐曰く。そなた、敢えて我を食らうことなかれ。天帝、我をして百獣の長たらしむ。今、そなた我を食らわば、これ天帝の命に逆らうなり」


 義藤の顔から。


 先ほどまでの笑みが、少しずつ消えていった。


「そなた、我を信ぜずとせば、我、そなたのために先んじて行かん。そなたは我が後ろに従い、百獣が我を見て敢えて逃げざるかを見よ」


 三好長慶は動かない。


 細川氏綱も。


 伊勢貞孝も。


 ただ、惟種の言葉を聞いている。


「虎、これをしかりとなし、遂に狐とともに行く。獣、これを見て皆走る」


 松永久秀の扇が。


 わずかに止まった。


「されど虎は、獣が己を畏れて走ったとは知らず、狐を畏れたものと思った」


 義藤の目が、惟種を見据える。


 惟種は、なおも続けた。


「今、王の地は方五千里。甲を帯びる兵は百万。そのすべてを昭奚恤しょうけいじゅつに属せしめておられる」


 一度。


 言葉を切った。


「ゆえに北方が昭奚恤を畏れるのは、その実、王の甲兵こうへいを畏れているのでございます」


 そして。


なお、百獣が虎を畏れるがごとし」


 重い沈黙が落ちた。


 誰も口を開かなかった。


 古い話である。


 虎の威を借る狐。


 されど。


 江乙が楚王へ説いた言葉の中では。


 王こそが虎であった。


 臣である昭奚恤は。


 その威を借りる狐にすぎない。


 惟種は。


 義藤こそが虎であると申している。


 阿蘇惟種など。


 公方の威を借りて歩く狐にすぎぬと。


 表向きには。


 そう聞こえる。


 だが。


 義藤には分かった。


 本来ならば。


 公方が虎。


 惟種が狐。


 諸将が惟種を畏れるとしても。


 その根にあるものは。


 公方の威でなければならない。


 だというのに。


 今の自分は。


 惟種を前へ立たせ。


 阿蘇の兵を使い。


 阿蘇の銭を頼み。


 阿蘇惟種の名をもって、三好長慶を従わせようとしていた。


 虎であるべき自分が。


 狐の後ろへ隠れようとしていた。


「惟種」


 義藤の声が低くなった。


「はっ」


「それは……」


 その先を。


 義藤は口にできなかった。


 そなたは。


 余が、己の立つ場所を忘れたと申すのか。


 そう問えばよい。


 だが。


 それを口にすれば。


 惟種の言葉を認めることになる。


 惟種は、静かに頭を下げた。


「はい」


 そして。


「善を責むるは、朋友の道にございます」


 義藤の目が見開かれた。


 朋友。


 惟種は。


 自分と義藤が朋友であるとは、口にしていない。


 されど。


 義藤がそう受け取ったことを。


 否定もしなかった。


 見限っているのであれば。


 このような危うい言葉を。


 命を賭けて口にする必要などない。


 敬っているからこそ。


 正す。


 今の姿は違うと告げている。


 惟種が信じた公方は。


 他人の兵と銭を借りなければ。


 己の言葉を通せぬ者ではない。


 義藤には。


 それが分からぬはずもなかった。


 一方。


 松永久秀は。


 扇の陰から、静かに惟種を見ていた。


 恐ろしい男だ。


 惟種は。


 自らを狐へ落とした。


 義藤を虎として立てるために。


 表向きは。


 阿蘇の威すら、公方から借りたものだと申している。


 だが。


 現実には。


 三好長慶が畏れているのは。


 本当に、狐の後ろにいる虎なのか。


 それとも。


 狐そのものなのか。


 その答えを。


 この広間にいる者は、皆知っている。


 惟種は。


 義藤の面目を保ちながら。


 その現実だけを突きつけた。


 そのうえで。


 虎ならば虎として立てと。


 狐を前に出して。


 その威に頼るなと諫めている。


 義藤の逃げ道を残し。


 同時に。


 逃げるべき道を、一つに絞った。


 そして最初に。


 朋友の道だと断っている。


 これは忠誠の誓いではない。


 敬意と。


 友情に近い情から与えられた。


 一度の忠告だ。


 善を責むるは、朋友の道。


 されど。


 責めても善へ戻らぬ者と。


 いつまでも朋友であるとは。


 惟種は一言も申していない。


 久秀には。


 そこまで聞こえていた。


「……そうか」


 義藤が呟いた。


 惟種は答えない。


「余は」


 義藤が、ゆっくりと背を伸ばした。


「立つ場所を違えておったようだな」


 惟種は。


 やはり何も答えなかった。


 はい。


 などと言えば。


 本当に首が飛ぶかもしれない。


 義藤は。


 そんな惟種をしばらく見つめ。


 やがて。


「ふっ」


 小さく息を漏らした。


「ははっ」


 笑った。


「そうか」


 義藤の笑い声が、広間へ響く。


「そうだな」


 先ほどまでの怒気は。


 もうなかった。


「要らぬ!」


 義藤が言い放った。


「阿蘇の威など、余には要らぬ!」


 惟種の眉が、わずかに動いた。


 そこまで言わなくてもよい。


「余は余である!」


 義藤は胸を張った。


「阿蘇の兵があろうとなかろうと!」


「阿蘇の銭があろうとなかろうと!」


「余が征夷大将軍であることに、何の変わりがある!」


 広間の者たちが、一斉に頭を下げた。


「ははっ!」


 義藤は笑う。


「余が命じる!」


「そなたらが、余について参れ!」


「御意!」


 幕臣たちの声が重なった。


 惟種は。


 心の中で、小さく息を吐いた。


 届いた。


 少なくとも。


 今は。


 義藤は、分かってくれた。


「長慶」


 義藤が呼んだ。


「はっ」


 三好長慶が頭を下げる。


「先ほどは」


 義藤は一度、言葉を止めた。


「余が急いた」


「もったいなきお言葉にございます」


「言葉も過ぎた」


「公方様」


「晴元の件は」


 義藤が長慶を見る。


「これまでどおり、そなたに任せる」


「はっ」


「いたずらに兵を損じる必要はない」


「そなたの裁量にて進めよ」


 長慶は。


 深く頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます」


 その声に。


 感情はほとんど表れていなかった。


 だが。


 長慶が再び顔を上げた時。


 その目が、一瞬だけ惟種へ向いた。


 敵意ではない。


 感謝とも違う。


 ただ。


 先ほどまでとは、明らかに異なる目だった。


「惟種!」


 義藤が上機嫌に呼んだ。


「はっ」


「大儀である!」


 嫌な予感がした。


「さすがは、余の一の家臣よ!」


 広間の視線が。


 一斉に惟種へ集まった。


 三好長慶。

 松永久秀。

 細川氏綱。

 幕府の重臣たち。


 全員が。


 惟種を見ている。


 そこも問題なのだが。


 惟種は、引きつった笑みを浮かべた。


「ありがたき幸せにございます」


「うむ!」


 義藤は満足そうに頷いた。


 久秀が。


 扇の陰で、ごくわずかに笑った。


 惟種は思った。


 賭けには勝った。


 公方様も。


 元の公方様へ戻った。


 だが。


 公方第一の臣どころか。


 余の一の家臣と。


 御前で宣言されてしまった。


 長慶の面子は戻った。


 公方様も立ち直った。


 幕臣たちも喜んでいる。


 そして。


 なぜか。


 惟種だけが、さらに逃げにくくなっている。


 本当に。


 まずい状況だった。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
孟子と戦国策を引用して諫言するという展開、いいですね 歴史好きとしてはかなり読んでいて楽しい回でした
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