第二百三十四話 ほどほどの意味
天文二十一年(一五五二年) 十二月中旬。
京。
三好方の陣所には、絶え間なく報せが届いていた。
「晴元方は、五条坂より退き始めておりまする!」
「建仁寺の辺りでは、いまだ火の手が収まりませぬ!」
「清水坂へ出た兵は」
「こちらが押しておりまする!」
三好長慶は、京の地図へ目を落としたまま、一つずつ報告を聞いていた。
「追撃の備えは」
「整っておりまする」
「退路も断てるかと」
「そうか」
長慶は静かに頷いた。
戦況は悪くない。
このまま押せば。
旗を奪い。
将を討ち。
退路を塞ぐこともできる。
細川晴元の力を、ここで大きく削ぐこともできるだろう。
だが。
長慶は、追撃を命じなかった。
「久秀は戻ったか」
「ただ今、お戻りにございます」
「通せ」
「はっ」
ほどなく。
松永久秀が姿を現した。
鎧を身につけ、腰には太刀を差している。
「戻ったか」
「はっ」
「阿蘇殿は、何と」
「特には」
久秀が答えた。
「特には?」
「はい」
長慶が顔を上げる。
「晴元方が京へ入ったのであろう」
「そのように申し上げました」
「公方様の御身も危ういと」
「それも」
「それで、何と」
「大変そうだな、と」
長慶は黙った。
「……それだけか」
「それだけにございます」
しばらく。
沈黙が落ちた。
やがて、長慶の口元が緩む。
「まことに、興味がないのだな」
「畿内の争いには、まるで」
「公方様のこともか」
「長慶様と某がおりますゆえ、何とかするであろうと」
「随分と信頼されたものよ」
「信頼であれば、よろしいのですが」
「違うのか」
「面倒ゆえ、我らへ押しつけただけかと」
「くっくっく……」
長慶が肩を揺らした。
「やはり、そうであろうな」
阿蘇惟種は、京の権を欲していない。
三好を滅ぼし、畿内を奪おうとも考えていない。
それは、長慶にとって安心できることであった。
同時に。
用が済めば、すぐ九州へ帰るということでもある。
惟種が九州へ戻れば。
阿蘇家は、また次の場所へ手を伸ばす。
中国か。
四国か。
あるいは、その先か。
「久秀」
「はっ」
「晴元をどう見る」
長慶の指が、地図の上を動く。
清水坂。
五条坂。
建仁寺。
そして。
晴元方が退こうとしている道。
「このまま追えば、大きく削れる」
「はい」
「退路を断ち、主だった者を討てば」
長慶の目が細くなった。
「ここで消すこともできよう」
久秀は、すぐには答えなかった。
地図へ目を落とす。
「飼い殺しとまでは参りませぬが」
やがて、口を開いた。
「生かさず、殺さずがよろしいかと」
長慶が、ふっと笑った。
「そうであろうな」
「京へ居座らせてはなりませぬ」
「うむ」
「されど、完全に力を奪う必要もございますまい」
「若狭より届いた書状もある」
「晴元の書状にございますな」
細川晴元から、内々に届いた書状。
今、晴元を滅ぼせば。
次は三好長慶である。
公方と阿蘇が、真に一体であるのか。
それを見極めるまでは、決着を急ぐべきではない。
そのような内容であった。
「時を寄越せと申しておきながら、自ら京へ兵を入れたか」
「何もせねば、晴元方の兵が離れますゆえ」
「戦う姿は見せねばならぬ」
「されど、本気で決着をつけるつもりもない」
「我らと同じか」
「左様にございます」
三好も、公方から晴元討伐を命じられている。
兵を出さねばならない。
勝たねばならない。
だが。
晴元を滅ぼす必要はない。
「晴元が消えれば」
長慶が地図から目を離した。
「公方様は、誰を頼る」
「まずは、阿蘇殿でございましょう」
「であろうな」
足利義藤は、すでに惟種を、余の一の家臣と呼んでいる。
晴元が消え。
三好以外の敵がいなくなれば。
義藤は、長慶を必要としなくなるかもしれない。
三好が気に入らなければ。
阿蘇惟種へ頼ればよい。
そう考えることもできる。
「晴元が残っていれば」
長慶が言う。
「公方様も、軽々しく我らを切れぬ」
「はい」
「そして、阿蘇惟種殿も」
一度、言葉を切った。
「京を捨てにくくなる」
「少なくとも、晴元方が再び京を窺う間は」
久秀が答える。
「施薬院も、種痘も、放り出しにくいでしょう」
「京には、阿蘇惟種がいる」
長慶の声が低くなる。
「ならば、使わぬ手はあるまい」
「御意」
「できる限り、京へ縛りつける」
朝廷から与えられた役目。
施薬院の再興。
京の民への種痘。
皇孫誕生の祭り。
そして。
細川晴元という脅威。
惟種が京へ残る理由は、すでに幾つもある。
「惟種殿がおられずとも、九州の政は回りましょう」
久秀が言う。
「分かっておる」
長慶は頷いた。
「だが、惟種殿を京へ置けば」
「医師も」
「文官も」
「船も」
「米も薬も、京へ向けねばなりませぬ」
阿蘇家の銭は尽きぬ。
京の復興程度で、傾くこともない。
ならば。
削るべきは、銭ではない。
人。
船。
物。
そして、時間。
「阿蘇家が次の手を打つのを、少しでも遅らせられるならば」
長慶が言った。
「それで十分よ」
「すでに、京の町衆や寺社からも願いが出ておりまする」
「何を求めておる」
「施薬院へ入れる米」
「焼けた寺を直す材木」
「医師を置いてほしいとの声も」
「阿蘇殿は、断れるか」
「難しいでしょうな」
「偽りの願状を作る必要は」
「ございませぬ」
久秀は静かに笑った。
「真に困っている者だけで、十分にございます」
「宗運という男もおる」
「偽書など使えば、いずれ見破られましょう」
「ならば」
長慶が頷いた。
「真の願いの中から」
「阿蘇殿が断れぬものだけを選ぶ」
「はい」
嘘はつかない。
偽りもしない。
ただ。
惟種が見捨てられぬ者だけを、その前へ並べる。
それでよい。
「それに」
久秀が続けた。
「幸いにも」
「何だ」
「阿蘇殿からは」
久秀の口元が、わずかに上がる。
「ほどほどに、との御言葉をいただいております」
長慶が目を見開いた。
「ほう」
そして。
ゆっくりと笑った。
「それは、それは」
「はい」
「阿蘇殿が、申したのか」
「確かに」
「晴元を、ほどほどにせよと」
「そこまでは申されておりませぬ」
「では、何を」
「ただ」
久秀は答えた。
「ほどほどにな、と」
長慶は、一度黙った。
それから。
喉の奥で笑う。
「うかつなことよ」
「まことに」
「一つの失言が、いろいろと狂わせるものよ」
惟種は、何気なく口にしただけなのだろう。
久秀が、京へ指一本触れさせぬと豪語した。
それに対し。
やりすぎるな。
大事にするな。
その程度の意味で、ほどほどに、と。
だが。
何を。
どこまで。
どのように。
ほどほどにするのか。
惟種は、何も決めていない。
「ならば」
長慶が言う。
「その意味を決めるのは、我らか」
「左様にございます」
晴元を滅ぼさぬことは、すでに決めていた。
問題は、公方へ何と説明するか。
そのための言葉を。
惟種は、自ら与えてしまった。
「久秀」
「はっ」
「まさか」
長慶の目に、わずかな疑いが浮かぶ。
「当家を信頼しているからの失言ではあるまいな」
「おそらく」
久秀は、少し考えた。
「一刻も早く、九州へ帰りたいだけかと」
「帰りたい?」
「京が戦場となれば」
「施薬院も」
「種痘も」
「祭りも」
「続けられませぬ」
「それを口実に」
「堺へ逃れ、そのまま九州へ戻るおつもりだったのでしょう」
長慶は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「くっくっく……」
堪えきれぬように笑い始める。
「やはり、京にはまるで興味がないか」
「そのように見受けられました」
「公方様も」
「朝廷も」
「三好も」
「晴元も」
長慶は、笑いながら首を振る。
「阿蘇殿にとっては、すべて面倒事か」
「おそらくは」
「それでいて」
長慶の笑みが深くなった。
「目の前に困った者がおれば、放ってはおけぬ」
「厄介な御方にございます」
「まことにな」
長慶は、再び地図へ目を落とした。
「よい」
「方針は、それでいく」
「はっ」
「晴元は残す」
「京からは追い出す」
「されど、退く道までは塞ぐな」
「御意」
「主だった将も、深追いするな」
「はい」
「三好の勝ちは、はっきりと示す」
「承知いたしました」
「公方様から、なぜ追わぬと問われたならば」
「ことを大きくせぬよう」
久秀が答えた。
「阿蘇殿も御懸念であったと申し上げまする」
「命じられたとは言うな」
「もちろんにございます」
「ただ」
久秀の口元が上がる。
「ほどほどに、と仰せになったことだけを」
「そのままお伝えいたしまする」
「くっくっく」
長慶が、また笑った。
嘘ではない。
惟種は、確かに言った。
ほどほどに、と。
久秀は、その意味を説明するだけである。
三好家にとって、最も都合のよい形に。
「では」
長慶は、地図から顔を上げた。
「まずは、目先の晴元よ」
「はい」
「軽く蹴散らせ」
「御意」
「されど」
長慶が、久秀へ笑いかける。
「阿蘇殿に危害が出ぬようにせねばなぁ?」
久秀も、静かに笑った。
「ええ」
一度。
深く頭を下げる。
「まったく、そのとおりにございます」
こうして。
惟種の知らぬところで。
何気なく口にした。
ほどほどに。
その一言は。
細川晴元を生かすための口実となり。
三好家を利し。
そして。
惟種自身を。
京へ縛りつける、新たな縄となったのであった。
現在、第11話まで修正を行っております。
以前の文章とは少し内容や表現が異なっている箇所もございますが、ご了承ください。
そして、ここまでご覧いただき、本当にありがとうございます。
ここまで書き続けてこられたのも、読んでくださる皆様のおかげです。
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