第二百二十七話 忠臣か、虚か
天文二十一年(一五五二年)、九月。
細川晴元の前に、三通の書状が置かれていた。
向かいに座るのは、波々伯部宗徹。
晴元の父、澄元の代から京兆家へ仕える古参である。
晴元は、一通目を開いた。
「兵を収め、御前へ出頭せよ」
眉が動いた。
続いて、二通目。
「和議に従い、隠居せよ」
晴元の指が、書状の端を強くつかんだ。
そして三通目。
晴元へ宛てられたものではない。
三好長慶へ下された御内書の写しであった。
「なお命に従わぬ晴元党あらば、これを鎮めよ」
紙が鳴った。
「……わしを」
晴元の声が震える。
「わしを、逆徒として討てと申すか」
宗徹は答えなかった。
「兵を収めよ」
晴元が立ち上がる。
「御前へ出よ」
書状が握り潰される。
「隠居せよ」
晴元の顔が赤く染まった。
「従わぬ者は、三好に討たせよ!」
脇息を蹴り倒した。
「阿蘇の小童め!」
怒声が部屋を震わせる。
「あれさえおらねば!」
晴元は潰した書状を床へ叩きつけた。
「何もかも、あれが壊したのだ!」
三好と公方。
二つの間にある亀裂。
それこそが、晴元が京へ戻るための道であった。
三好長慶が公方を軽んじれば。
公方は晴元を求める。
公方が晴元を使おうとすれば。
三好は晴元との取引を考える。
どちらか一方が強くなりすぎぬよう。
どちらにも必要とされるよう。
晴元は、その狭間を歩いてきた。
だが。
阿蘇惟種が現れた。
公方を京へ戻し。
三好との和議を整え。
晴元のおらぬ場所で、畿内の形を決めた。
「わしがおらぬところで和議を結び!」
晴元が机を叩く。
「わしがおらぬところで、京兆家の行く末まで決めた!」
硯が揺れた。
墨がこぼれる。
「公方様まで、阿蘇の威を背に、わしへ命じるか!」
「晴元様」
「黙れ!」
宗徹は頭を下げた。
「はっ」
「くそっ!」
晴元が、もう一度机を叩いた。
「くそおおおお!」
しばらく。
部屋には、晴元の荒い息だけが響いた。
宗徹は動かない。
ただ、静かに待っていた。
やがて。
晴元の息が、少しずつ整っていく。
怒りが消えたわけではない。
腹の底には、なお煮えたぎるものがある。
それでも。
晴元は床へ落ちた書状を見た。
「宗徹」
「はっ」
「三通目を拾え」
宗徹が書状を拾い、晴元へ差し出す。
晴元は、もう一度読んだ。
「従わぬ晴元党あらば、これを鎮めよ」
晴元の目が細くなる。
「誰が鎮める」
「三好長慶にございましょう」
「そうだ」
今の畿内で。
晴元を討てる者。
晴元に従う者を押さえられる者。
兵を集め、城を囲み、京へ勝利を持ち帰れる者。
三好長慶しかいない。
「三好に、わしを討たせる」
「左様にございますな」
「わしの兵を削り、わしに従う者を潰し、わしを京兆家から追い落とす」
晴元は指を折った。
「そのために三好へ兵を出させ、銭を使わせ、恨みを買わせる」
「……はい」
「そして、わしが消えた後」
晴元の指が止まった。
宗徹は何も言わない。
「次は、三好か」
宗徹が、わずかに頭を下げた。
「そのように見受けられます」
晴元は書状を見つめた。
三好長慶に晴元を討たせる。
公方の命に従わせる。
晴元が消えれば。
畿内に残る大きな力は、三好だけとなる。
次に義藤が命じるのは。
兵を解け。
領地を返せ。
京から退け。
政へ口を出すな。
そのあたりであろう。
「公方様は」
晴元が低く言った。
「細川も三好も、要らぬとお考えか」
「阿蘇殿がおられますゆえ」
「阿蘇の兵」
「はい」
「阿蘇の船」
「はい」
「阿蘇の金」
「左様にございます」
晴元が鼻で笑った。
「増長なされたものよ」
以前の義藤であれば。
三好を恐れた。
晴元を求めた。
どちらか一方を使い、もう一方を押さえようとした。
だが今は。
何かにつけて、阿蘇の名を出す。
阿蘇も望んでいる。
阿蘇も認めている。
阿蘇も公方を支えている。
まるで、阿蘇家のすべてが自らのものになったかのように。
「公方様の頭の中では」
晴元が笑う。
「義藤と阿蘇惟種。この二人だけで、京を治められるのであろうな」
宗徹は答えなかった。
「何だ」
「いえ」
「申せ」
宗徹は、わずかに顔を上げた。
「阿蘇殿も、そのようにお考えなのでございましょうか」
晴元の目が宗徹へ向いた。
「何?」
「晴元様を隠居させ、従わぬ者を三好に討たせる」
宗徹が書状を見る。
「この御沙汰を、阿蘇殿も御存じなのでございましょうか」
「公方様は、何かにつけて阿蘇の名を出している」
「御内書には」
宗徹が静かに問う。
「阿蘇殿の御意であると、記されておりますか」
晴元は書状へ目を落とした。
端から端まで読む。
もう一度読む。
阿蘇の名はない。
「……ない」
「さすれば」
宗徹が頭を下げた。
「阿蘇殿が承知のうえで、公方様を支えておられるのか」
あるいは。
「公方様が、阿蘇殿の名を使っておられるだけなのか」
晴元は黙った。
阿蘇惟種。
会ったことはない。
言葉を交わしたこともない。
書状すら、まともに交わしていない。
晴元が知るのは。
九州を押さえた者。
大軍と水軍を持つ者。
公方を京へ戻した者。
三好との和議を結んだ者。
公方第一の臣と呼ばれる者。
それだけである。
「……分からぬな」
「はい」
「真に公方様へ忠節を尽くしているのか」
晴元が目を細める。
「あるいは、そのように見せているだけなのか」
「それを測る必要がございます」
宗徹の言葉に、晴元が小さく笑った。
「真の忠臣ならば」
晴元は指先で机を叩いた。
「忠臣として崩す」
義藤には。
阿蘇惟種が京の政を奪おうとしていると流す。
惟種には。
義藤が阿蘇の兵と金を、己のものとして使おうとしていると流す。
どちらにも。
少しずつ違う話を届ける。
事実と。
偽りを。
見分けがつかぬほど混ぜて。
「互いに、相手が何を考えているか分からぬようにする」
「離間にございますな」
「うむ」
「では、阿蘇殿と公方様の間に、虚があった場合は」
「公方様の増長を、阿蘇へ見せる」
晴元は、義藤の書状を持ち上げた。
「阿蘇の名を使い、晴元を退け」
三好を動かし。
京を自らのものとしようとしている。
「公方様が何を申されたか。一つ残らず阿蘇へ知らせる」
「阿蘇殿が、公方様を見限るまで」
「そこまでは望まぬ」
晴元が首を振った。
「すぐに見限られては、公方様も警戒する」
「では」
「まずは遠ざける」
阿蘇の名を使っても。
すぐには兵が動かぬ。
阿蘇も認めていると言っても。
周囲が疑う。
その程度でよい。
「阿蘇の威が、公方様の言葉だけでは動かぬと分からせる」
「御意」
晴元は新しい紙を出した。
「宗徹」
「はっ」
「九州へ行け」
宗徹は、少しも表情を変えなかった。
「阿蘇殿のもとへ、でございますな」
「そうだ」
「何とお伝えいたしましょう」
「多くは申すな」
晴元は筆を取った。
「晴元に、公方様へ弓を引く意思はない」
宗徹が頷く。
「されど、兵を収め、出頭し、隠居せよとの御沙汰を受けた」
筆が走る。
「従わぬ者は、三好に討たせるとも」
「はい」
「その御沙汰を、阿蘇殿も承知しておられるのか」
晴元が筆を止めた。
「それだけを尋ねよ」
「返書を求めますか」
「要らぬ」
晴元が宗徹を見る。
「何を申したか」
何を否定したか。
何に怒ったか。
何を聞いて黙ったか。
「すべて覚えて帰れ」
「承知いたしました」
「場合によっては」
晴元は少し考えた。
「わし自身が、阿蘇へ赴く」
宗徹が初めて眉を動かした。
「晴元様御自身が」
「公方様へ逆らうつもりはないと、直接申す」
そのうえで。
公方様は、阿蘇も望んでいると申されている。
本当に、そうなのか。
惟種自身の口から聞く。
「まずは、そなたが測れ」
「はっ」
「それからだ」
晴元は、もう一枚の紙を取った。
「こちらは、三好長慶へ送る」
「何と」
「少し待て、と」
晴元を討つなとは書かない。
露骨な休戦も求めない。
ただ。
今ここで晴元を討てば。
次は三好である。
阿蘇惟種の真意を測るまで。
互いに決着を急ぐべきではない。
「まずは、公方様から阿蘇を遠ざける」
晴元は書き始めた。
「その後で、わしと三好は決着をつければよい」
「三好長慶が、この話に乗りましょうか」
宗徹が問う。
晴元の筆が止まった。
三好長慶。
松永久秀。
決して許せぬ者たちである。
晴元を京から追い落とし。
京兆家の力を奪い。
今なお、晴元の前へ立ちはだかる宿敵。
だが。
「間違いなく乗る」
晴元は、再び筆を動かした。
「憎いが、相手は三好長慶と松永久秀だ」
墨が、紙の上を走る。
「損得勘定くらいは、できるであろう」
こうして。
細川晴元は、二通の書状を書いた。
一通は、三好長慶へ。
もう一通は、阿蘇惟種へ。
公方第一の忠臣と呼ばれる男が。
真に忠臣であるのか。
それとも。
忠臣の姿を見せているだけなのか。
それを測るために。
だが。
九州にいる惟種には、知る由もなかった。




