第二百二十九話 心は寺に、政は阿蘇に
天文二十一年(一五五二年) 八月上旬
景虎は、来た時と同じように、慌ただしく越後へ帰っていった。
「世話になった」
その一言だけを残して。
だが。
その顔つきは、来た時よりも晴れていた。
騒ぎが、ようやく落ち着き始めた頃。
宗運が、一通の書状を持ってきた。
「若君」
「今度は何だ」
「諸寺より、使者が参っております」
惟種の手が止まった。
「諸寺?」
「英彦山、博多、太宰府。それに豊前、豊後の寺々にございます」
「何人だ」
「僧が十名ほど」
「多いな」
「そのほか、従僧もおりまする」
惟種は書状を受け取った。
名が並んでいる。
英彦山の権少僧都、勢瑜。
博多の禅僧。
観世音寺につながる僧。
そして。
専想寺の善慶。
浄土真宗の僧である。
惟種は、深く息を吐いた。
「ついに来たか……」
「何が、でございますか」
「布教の許しを求めに来たのであろう」
「まだ、そうと決まったわけではございませぬ」
「寺へ学校を置かせた時から、いずれ来ると思っていた」
阿蘇家は、寺を利用して学校を広げている。
寺子屋を大きくし。
校舎を整え。
教師となる僧へ扶持を出し。
紙。
墨。
教本。
食事。
必要なものは、阿蘇家が用意した。
寺にとっても悪い話ではない。
建物が直る。
米が入る。
僧の暮らしも安定する。
民とのつながりも強くなる。
だが、条件があった。
学校で宗派へ勧誘してはならない。
阿蘇家の政へ、宗教の名で口を出してはならない。
門徒や信徒を、政治や戦へ動員してはならない。
これを破れば。
宗運の手の者が動く。
実際。
すでに何人かの僧が、学校から外されていた。
信仰を禁じたわけではない。
寺を潰したわけでもない。
ただ。
阿蘇家の銭で開かれた学校を、己の宗派を広げる場に使った。
それだけである。
「会わぬわけにはいかぬな」
「左様にございます」
「面倒だ」
「若君」
「分かっている。会う」
◇
僧たちは、広間へ静かに入った。
衣も宗派も異なる。
頭を丸めた者。
山伏姿の者。
数珠を持つ者。
笠を脇へ置く者。
その中央に、善慶が座った。
年は五十ほど。
穏やかな顔をしている。
だが、その目は静かに惟種を見ていた。
双方が礼を交わす。
善慶が、まず口を開いた。
「若君におかれましては、常々より諸寺へ格別の御支援を賜り、厚く御礼申し上げます」
「よい」
惟種は答えた。
「寺々には、学校を含め、大いに世話になっておる」
「ありがたき御言葉にございます」
「子らへ字を教え、算を教え、村の者へ薬草や暦を伝えてくれておる。それについては、阿蘇家も感謝しておる」
善慶が深く頭を下げた。
「さればこそ、お願いがございます」
来た。
惟種は身構えた。
「申してみよ」
「学校におきまして、仏法を説くことをお許しいただけませぬでしょうか」
「駄目じゃ」
惟種は即答した。
広間が静まった。
善慶も、わずかに目を瞬いた。
「……まだ、詳しく申し上げてはおりませぬが」
「詳しく聞いても、駄目なものは駄目じゃ」
「理由を伺ってもよろしゅうございますか」
「いくつかある」
惟種は指を立てた。
「まず、阿蘇家は阿蘇の神を奉ずる大宮司家じゃ」
「承知しております」
「だが、学校で阿蘇の神を信じよとは教えておらぬ」
僧たちが顔を見合わせた。
「阿蘇家自身が布教しておらぬのに、それを差し置いて、他の宗旨へ布教を許すわけにはいかぬ」
「阿蘇の神を奉ずる家でありながら、でございますか」
「わしが敬うことと、領民へ信じさせることは別じゃ」
惟種は言った。
「信じたい者は信じればよい。仏でも神でも、南蛮の教えでも構わぬ」
「何も信じぬ者も、でございましょうか」
「それも勝手じゃ」
僧の何人かが、眉を寄せた。
惟種は気にしなかった。
「次に、学校へ来る子らは、字と算を学びに来ておる」
「はい」
「寺の門をくぐったからといって、皆が仏法を聞きに来たわけではない」
「されど、仏法を知ることもまた、学びの一つではございませぬか」
「知ることと、信じさせることは違う」
「我らは、無理に信じさせようとは考えておりませぬ」
「では、授業の中で説く必要もあるまい」
善慶は黙った。
「寺で説くなとは申しておらぬ」
惟種は続けた。
「門を開けよ。聞きたい者へ説け。念仏を唱えるのも、経を読むのも自由じゃ」
「学校では許さぬと」
「学校は阿蘇家の銭で開いておる」
善慶の目が少し細くなった。
「されど若君」
「何じゃ」
「学校では、阿蘇家の御恩について教えていると伺っております」
惟種は黙った。
来た。
そこを突いてきたか。
「学校を建てたのは阿蘇家」
「うむ」
「紙や墨を与えるのも阿蘇家」
「そうじゃ」
「食事を与えるのも阿蘇家。道を守り、治安を保ち、民が学べる世を作ったのも阿蘇家であると」
「事実じゃ」
「仏法を説くことを教化とされながら、阿蘇家への恩を説くことは、教化には当たりませぬか」
広間に緊張が走った。
宗運は動かない。
僧たちは惟種を見ている。
惟種は、少し考えた。
「違いはある」
「どのような違いでございましょう」
「わしを拝めとは教えておらぬ」
善慶は黙った。
「阿蘇家に従えば、死後に救われるとも申しておらぬ」
「……」
「誰が銭を出したか。誰が学校を建てたか。誰が道を守っているか。事実を教えておるだけじゃ」
「その事実により、民の心を阿蘇家へ向けておられる」
「否定はせぬ」
僧たちの間に、小さなざわめきが起きた。
「阿蘇家の政があるから、今の暮らしが成り立っておる。それを民が知るのは当然じゃ」
「仏法があるから、心を保てる者もおりまする」
「それも否定しておらぬ」
惟種は即座に答えた。
「死を恐れる者」
声を少し落とす。
「子を失った者」
「己の罪に苦しむ者」
「明日を思い、眠れぬ者」
惟種は僧たちを見た。
「そのような者の心に、米や法だけでは届かぬこともあろう」
「……」
「ゆえに寺を支えておる」
善慶の表情が、わずかに緩んだ。
「若君は、仏法を軽んじておられるのではないと」
「軽んじてはおらぬ」
惟種は言った。
「だが、仏法だけでは国は救えぬ」
空気が変わった。
「若君」
「大内三好が攻めてきた時、念仏で兵を退けられるか」
善慶は答えない。
「飢饉の時、経を読めば蔵に米が増えるか」
「……」
「疫病の時、祈るだけで薬が届くか」
「祈りが、人に力を与えることはございましょう」
「あるであろう」
惟種は認めた。
「だから、祈ることは止めぬ」
「ならば」
「だが、祈るだけで民が死ぬことは許さぬ」
惟種は真っすぐ善慶を見た。
「敵を退ける」
「米を集める」
「薬を運ぶ」
「道を直す」
「争いを裁く」
「子へ学ぶ場を与える」
指を折っていく。
「それは政の役目じゃ」
「仏法によって、世を安らかにすることもできましょう」
「では、善慶殿」
惟種は少しだけ身を乗り出した。
「仏法のみで、九州を治められるか」
善慶が目を上げる。
「敵を退け」
「飢える者をなくし」
「全ての道を直し」
「争いを裁き」
「全ての子へ学びを与える」
惟種は続けた。
「それができるなら、わしは喜んで代わろう」
「若君」
「わしとて、好きで全てを背負っておるわけではない」
宗運が、わずかに惟種を見た。
「だが」
惟種は言った。
「それは仏法の務めではあるまい」
善慶はしばらく黙った。
「仏法には仏法の務めがある」
「政には政の務めがある」
「互いに、己の務めを果たせと申しておるだけじゃ」
善慶が、ゆっくりと息を吐いた。
「米で満たせるのは、腹までにございます」
「うむ」
「人の苦しみは、腹だけにはございませぬ」
「そのとおりじゃ」
惟種は頷いた。
「わしには救えぬ心を、そなたらが救え」
僧たちの視線が集まる。
「だが、そなたらに守れぬ命と暮らしは、阿蘇家が守る」
「互いに、他方の務めを奪うな」
善慶は目を閉じた。
少しの間。
誰も口を開かなかった。
◇
「もう一つ、よろしゅうございますか」
善慶が尋ねた。
「申せ」
「若君は、子らが仏法を知るには、幼すぎるとお考えなのでございましょうか」
「幼いから知るなとは申しておらぬ」
「されど、人の命は明日まであるとも限りませぬ」
「そうじゃな」
「救いを知るのに、早すぎるということがございましょうか」
「救いを知らせることと、逃げられぬ場所で一つの教えを信じさせることは違う」
善慶は惟種を見る。
「念仏は、人の力で信じさせるものではございませぬ」
「ならば、なおさら学校で強いる必要はあるまい」
善慶の目がわずかに動いた。
「強いてはおりませぬ」
「教師が説けば、子は断りにくい」
「……」
「字を習わせてもらっている」
「飯も食わせてもらっている」
「その相手から、これを信じよと言われる」
惟種は首を振った。
「それを、全て子の自由とは申せぬ」
「されど、仏法を知る機会すらなければ、選ぶこともできませぬ」
「ゆえに寺を支えておる」
惟種は言った。
「寺の門を開けよ」
「説法せよ」
「書を配れ」
「聞きたい者を拒むな」
「だが、学校へ字を習いに来た者を、そのまま門徒にするな」
「学びと仏法を、そこまで分けられるものでございましょうか」
「完全には分けられぬであろう」
惟種は、あっさり認めた。
「教える者の考えは、言葉の端に出る」
「それまで取り締まる気はない」
「だが、阿蘇家が銭を出す授業の中で、信じよと迫ることは許さぬ」
善慶が深く息を吐いた。
「信じることは自由と仰せになりながら、学校では布教を禁じる」
「うむ」
「それは、まことに自由と申せましょうか」
「布教を禁じてはおらぬ」
「学校では禁じておられます」
「学校に来る理由は、学ぶためじゃ」
惟種は答えた。
「信じるためではない」
「では、寺へ来た者には」
「好きなだけ説け」
「子どもが、自ら寺へ来たならば」
「追い返す必要はない」
「親の信仰を、子へ伝えることは」
「止めぬ」
「では、どこからが強いられた信心となるのでございましょう」
「それを決めるのは、わしではない」
善慶が眉を寄せる。
「本人じゃ」
「幼い子には、決められませぬ」
「ゆえに、公の学校では信じさせぬ」
惟種は言った。
「考える力を先に与える」
「字を教える」
「算を教える」
「世の広さを教える」
「その後、何を信じるかは己で決めればよい」
「信心は、人から強いられるものではないと」
「それは、わしより善慶殿の方が知っておろう」
善慶は黙った。
やがて。
その顔に、わずかな苦笑が浮かんだ。
「なるほど」
「何じゃ」
「若君は、仏法を遠ざけようとしているのではない」
「そのつもりはない」
「自ら門をくぐるまで、待てと申されるのでございますな」
「そういうことじゃ」
「長い時となるやもしれませぬ」
「待てぬ教えなのか」
善慶は、しばらく惟種を見た。
そして。
小さく頭を下げた。
「御考えは承りました」
「納得したか」
「全てを承服したとは申しませぬ」
「正直でよい」
「されど」
善慶は続けた。
「信仰を禁じられたのではないこと」
「寺での説法を妨げられたのではないこと」
「そして、阿蘇家が我らの務めを認めておられることは、諸寺へ伝えましょう」
「頼む」
◇
それまで黙っていた勢瑜が口を開いた。
「若君」
「何じゃ」
「寺社から、武を取り上げるとの御方針も変わりませぬか」
「変わらぬ」
「教えの異なる者同士が争うことを恐れて、でございましょうか」
「言葉で争うのは構わぬ」
惟種は答えた。
「仏が正しい」
「神が正しい」
「己の教えこそ正しい」
「好きに言い合えばよい」
「止めぬのですか」
「止めたところで、心の中までは止められぬ」
僧たちの何人かが頷いた。
「だが」
惟種の声が低くなる。
「教えの違いを、槍で決めることは許さぬ」
「ゆえに、寺にも神社にも兵は持たせぬと」
「そうじゃ」
「武力を持つのは、阿蘇家のみ」
「そうじゃ」
広間の空気が重くなる。
「強引ではございませぬか」
善慶が言った。
「強引であろうな」
惟種は否定しなかった。
「宗教がいくつもあれば、考えもいくつも生まれる」
「考えが異なれば、どこかでぶつかる」
「それをなくすことはできぬ」
「ならば」
「争いが、殺し合いへ変わる力を取り上げる」
惟種は言った。
「子が安心して学べる」
「民が、何を信じていても隣で暮らせる」
「そのためなら、わしは迷わぬ」
「寺を守るための武も、でございますか」
「寺から武を取り上げる以上、寺を守るのは阿蘇家の役目じゃ」
惟種は宗運へ目を向けた。
「寺が襲われれば、阿蘇家が兵を出す」
「門徒が迫害されれば、阿蘇家が裁く」
「他宗派に焼かれれば、阿蘇家が罰する」
「その代わり」
視線を僧たちへ戻す。
「寺も神社も、独自に兵を持たぬ」
「宗教の名で税を拒まぬ」
「阿蘇家とは別の裁きを行わぬ」
「信徒を政へ動員せぬ」
「破れば」
惟種は一度言葉を切った。
宗運が静かに座っている。
「宗運が動く」
僧たちの視線が、一斉に宗運へ向いた。
宗運は、わずかに頭を下げた。
「法に従い、処置いたします」
静かな声だった。
だからこそ。
よく響いた。
「宗運殿は、仏罰を恐れませぬか」
一人の僧が尋ねた。
宗運は、表情を変えない。
「阿蘇の法を守ることが、我が務めにございます」
僧は黙った。
惟種は、わずかに肩をすくめた。
「宗教が民の心を安らげるなら、いくらでも支えよう」
「寺も直す」
「米も出す」
「銭も出す」
「学校も任せる」
そして。
「だが、民の安寧を乱すなら排する」
惟種は、はっきりと言った。
「仏であろうと」
「神であろうと」
「そこに違いはない」
◇
会談は、それで終わった。
多くの僧は、惟種の言葉を受け入れた。
仏法を捨てよと言われたわけではない。
寺の門を閉じよとも言われていない。
むしろ。
寺は守る。
信徒も守る。
学校への支援も続ける。
そう約された。
ただし。
阿蘇家の学校を、門徒を増やす場にはするな。
政を動かすために、仏の名を使うな。
武を持つな。
阿蘇家の法へ従え。
その境を示されたのである。
納得する者もいた。
納得しきれぬ者もいた。
善慶は、穏やかな顔で広間を辞した。
勢瑜も。
他の僧たちも続いた。
その中で。
末席にいた僧が一人。
最後まで惟種を見ていた。
憎しみではない。
怒りとも、少し違う。
警戒である。
阿蘇家は仏法を禁じない。
寺を焼かない。
門徒を飢えさせない。
そのうえで。
寺から政と武だけを取り上げようとしている。
それは。
刃を向ける大名よりも。
ある者たちにとっては、はるかに危ういことだった。
僧は静かに頭を下げた。
そして。
誰にも気づかれぬまま、広間を後にした。




