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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百二十八話 義だけでは飯は食えぬ

「武田と、上杉憲政の件で相談したいのだ」


 惟種の笑いが止まった。


 やはり、遊びだけではなかったらしい。


 いや。


 遊びでもあるのだろう。


 わざわざ水夫に化けて九州まで来たのだ。


 普通の神経ではない。


 だが、景虎の顔からは笑みが消えていた。


 先ほどまでとは違う。


 越後国主の顔である。


「話してみよ」


 惟種が言うと、景虎は頷いた。


「晴信は、村上の地へ手を伸ばしておる」


「兵を出したのか」


「いや」


 景虎は首を振った。


「少なくとも、表立っては動いておらぬ」


「ならば、何をしている」


「文。銭。人じゃ」


 惟種は、わずかに眉を寄せた。


「村上の家臣へ文を入れ、境目の者へ銭を撒き、真田を通じて小県の者を揺さぶっておる」


「証は」


「ない」


「ないのか」


「ゆえに、晴信を責めることもできぬ」


 景虎の声には、苛立ちがあった。


「だが、動いておる。村上義清も同じ考えじゃ」


「まあ、動くであろうな」


 惟種は、あっさりと認めた。


 武田晴信が、三年の休戦を本当に三年の休みと考えるはずがない。


 兵を出せないなら、兵を出さずに勝つ方法を探す。


 家臣を引き抜く。


 国人を迷わせる。


 米の値を動かす。


 噂を流す。


 村上の内側から、少しずつ腐らせる。


 自分でも、そのくらいはする。


「休戦が明ければ、晴信は攻め込む」


 景虎が続けた。


「大々的にな」


「あと、二年ほどか」


「二年と少しじゃ」


 善光寺で結んだ三年の休戦。


 その約定が切れれば、武田は再び北信濃へ兵を向ける。


 景虎は、惟種をまっすぐ見た。


「それまでに、東を定めたい」


「東?」


「関東じゃ」


 惟種は嫌な予感がした。


 かなり嫌な予感である。


「上杉憲政殿が、越後へ来た」


 景虎の声が低くなる。


「北条氏康に平井を追われ、我が長尾家へ助けを求めてきた」


「それで」


「憲政殿を奉じ、関東へ出たい」


 惟種は黙った。


 内心では、ただ一言だった。


 知らんがな。


 勝手にやってくれ。


 越後と関東の話である。


 九州の阿蘇家には関係がない。


 遠い。


 あまりにも遠い。


 だが。


 景虎は、その相談をするために、わざわざ九州まで来た。


 水夫になって。


 家臣の胃の腑を痛めながら。


 ここで知らぬとは言いにくい。


 非常に言いにくい。


「上杉憲政を、助けねばならぬのか」


 惟種は尋ねた。


「助ける」


 景虎は即答した。


「なぜじゃ」


「義による」


 迷いはない。


 景虎らしい答えだった。


「頼られた者を見捨てることはできぬ。関東管領家が北条に追われ、関東の秩序が踏みにじられておる。これを正すのは義じゃ」


「そうか」


「うむ」


「ならば、頑張れ」


 景虎が眉を寄せた。


「それだけか」


「義があるのであろう」


「ある」


「ならばよいではないか。義に生きよ」


「冷たいではないか」


「何がじゃ」


「言いたいことがあるなら、はっきり申せ」


「いや。景虎が義と言うなら、わしが口を挟むことでもあるまい」


「気に食わぬ」


「そうかぁ」


「はっきり申せ!」


 景虎が膝を叩いた。


 宗運が、わずかに目を細める。


 惟種は小さく息を吐いた。


「ならば聞く」


「何じゃ」


「景虎。何をもって勝ちとする」


「勝ち?」


「関東へ出るのであろう。どこまで成せば勝ちなのじゃ」


 景虎は、少し考えた。


「まず、憲政殿を上野へ戻す」


「それから」


「北条を武蔵から退ける」


「それから」


「いずれは、関東から北条を追う」


 惟種は頷いた。


「ならば、やめておけ」


 景虎の顔が変わった。


「何じゃと」


「その戦は、やめておけ」


「憲政殿を見捨てよと申すか!」


「違う」


 惟種は静かに返した。


「助け方を変えよと申しておる」


「何が違う!」


「北条氏康だけを見るな」


 惟種は指を一本立てた。


「北条の背には、武田がいる」


 二本目。


「今川もいる」


 三本目。


「景虎が関東へ深く入れば、晴信はどうする」


「休戦を破れば、公儀への背きとなる」


「兵は出さぬ」


 惟種は首を振った。


「村上へ文を入れる。銭を撒く。家臣を引き抜く。境目で騒ぎを起こす。今もしているのであろう」


 景虎は黙った。


「景虎が武蔵へ入れば、村上の内をさらに揺さぶる。今川は北条の背を支える。北条は相模と武蔵から兵を出し続ける」


「越後勢は弱くない」


「北条も弱くない」


 惟種は、景虎の目を見た。


「しかも景虎の兵は、越後から関東へ入る。米も馬も遠くなる。病も出る。川も越える。城を一つ取るたびに、守る兵が要る」


「それでも」


「二年後」


 惟種は、景虎の言葉を遮った。


「関東は取れぬ。村上は内から崩れ始める。越後の蔵は空になる。家臣は疲れる。北条は小田原に残る」


 景虎の顔が強ばる。


「それが一番あり得る」


「始めてもおらぬ戦を、負けと決めるか」


「負けとは申しておらぬ」


「同じではないか!」


「違う」


 惟種は言った。


「勝ちを大きくしすぎるなと申しておる」


 部屋が静かになる。


「関東を取り戻そうとするな」


「何じゃと」


「関東を、北条だけのものにさせぬ戦をせよ」


 景虎が、惟種を睨んだ。


「北条を滅ぼそうとするな。武蔵も相模も、一度に見るな。上野の北。越後へ通じる道。味方になる国人。内応する城。取れるところだけを取れ」


「それでは、憲政殿の旧領は戻らぬ」


「すぐには戻らぬ」


「義を果たせぬ」


「生きておれば、次がある」


 惟種の声は低かった。


「義を一度で果たそうとして、長尾家が潰れれば、それで終わりじゃ」


 景虎は拳を握った。


「ならば、憲政殿を旗にして文を出せ」


「文?」


「帰参する者の本領は安堵する。北条へ従った者でも、早く戻るなら罪を問わぬ。人質を出せば家を残す。景虎が守るとな」


「北条へ従った者を赦せと」


「全て斬って、誰が土地を治める」


「裏切った者じゃ」


「関東の者は、皆が好きで北条に従ったわけではあるまい」


 景虎は黙る。


「強い者に従わねば、家も民も守れぬ。そう考えた者もいる。先に戻るなら赦せ。最後まで北条に従い、こちらへ刃を向けた者だけを討て」


「甘い」


「甘くてよい」


 惟種は言った。


「城を百日囲むより、城主の腹を一日で変えた方が安い」


「安い、か」


「兵は銭じゃ。米じゃ。命じゃ」


 景虎の眉間に皺が寄る。


「そして」


 惟種は続けた。


「憲政殿から、書付を取れ」


「書付?」


「回復した地の軍事と裁断を、景虎へ任せるとな」


「それでは、憲政殿の地をわしが奪うことになる」


「奪えとは申しておらぬ」


 惟種は首を振った。


「名は憲政殿に置けばよい。だが、誰を赦し、誰を討ち、どの城へ兵を置き、誰へ土地を与えるか。その実権は景虎が持て」


「なぜじゃ」


「景虎の兵が血を流すからじゃ」


 景虎の目が鋭くなる。


「帰参した者には、本領を返せ。だが、最後まで北条に従った者の地は、景虎が処分する」


「越後の者へ与えよと」


「そうじゃ」


「利を求めよと申すか」


「まだある」


 惟種は気にせず続けた。


「越後から上野へ通じる城と道は、長尾家が押さえよ。兵糧は関東の者にも出させよ。越後の米だけで、関東の戦をするな」


「……それで」


「憲政殿が、己の力で上杉家を再興できぬ時は」


 惟種は、一度言葉を切った。


「上杉家と関東管領の立場を、景虎へ託す。その起請文も取れ」


 景虎が立ち上がりかけた。


「弱った者から、家を奪えと申すか!」


「違う!」


 惟種の声も強くなった。


「奪うな。背負えと申しておる!」


 景虎が止まった。


「景虎が越後の兵を出し、血を流し、関東管領家を立て直すのであろう」


「そうじゃ」


「ならば、最後まで責を負え」


「憲政殿を押し退けてか」


「押し退けるな。今すぐ家を寄越せとも申すな」


 惟種は景虎を見据えた。


「だが、憲政殿にも覚悟を持たせよ」


「覚悟」


「助けを求めるだけで、兵も米も土地も出さぬでは、長尾家だけが血を流す」


「助けを求めた者へ、代価を求めるのか!」


「憲政殿を食い物にせよとは申しておらぬ」


 惟種は低く言った。


「憲政殿にも、長尾家を食い物にさせるなと申しておる」


 景虎の顔に怒りが浮かんだ。


「義があるのだ!」


「認めておる」


「ならば!」


「だが、理はあるのか」


 景虎が言葉を失った。


「上杉憲政を助ける。それは義じゃ」


 惟種は指を立てた。


「長尾家が関東へ兵を出す筋を立て、誰が何を担うか決める。それが理じゃ」


 二本目。


「血を流した家臣を飢えさせず、働きに報いる。それが利じゃ」


 三本目。


「義だけでは、飯は食えぬ」


「利を得るために、憲政殿を助けるのではない!」


 景虎が声を荒らげた。


「分かっておる」


「ならば、なぜ利を求めよと申す!」


「利を目的にせよとは申しておらぬ」


 惟種は静かに答えた。


「義を行った後、家臣を飢えさせぬ備えをせよと申しておる」


「義を示せば、家臣も応える!」


「応える者もおる」


「少なくとも、わしはそう信じる」


「ならば、応えた者へ報いるのが主君じゃ」


 景虎が黙った。


「馬を出す。槍を出す。米を出す。子や弟を戦へ出す」


 惟種は続けた。


「勝った後、何を得る」


「働いた者には、戦の後に報いる」


 景虎は言った。


「まずは義を立てることが先じゃ」


「後から考えるでは遅い」


 惟種は即座に返した。


「何をもって報いるか。戦を始める前に、見通しておくのが主君であろう」


「利のために、憲政殿を助けるのではない!」


「誰も、利のために義を曲げよとは申しておらぬ!」


 惟種も声を上げた。


「義を貫いた家臣に、食う米を与えよと申しておる!」


 二人の声が、部屋に響いた。


 宗運は動かない。


 景虎も惟種も、互いに目を逸らさなかった。


「義を行うのはよい」


 惟種が言った。


「わしも義は好きじゃ」


「ならば」


「だが、義を続けるには銭が要る。米が要る。人が要る」


「……」


「一度だけ立派に戦って、家が傾けば、それで終わりじゃ」


 惟種は少しだけ声を落とした。


「民と臣を見据えてこその統治者であろう」


 景虎は何も言わなかった。


「それとな」


 惟種は景虎を指さした。


「わしが家臣を信じよと申したのは、何をしても家臣が始末してくれると思えという意味ではない」


「国を任せたのは、信じておるからじゃ」


「それは分かる」


「ならばよいではないか」


「よくない」


 惟種は即答した。


「信じ、信じられる関係を作れと申したのじゃ」


「同じであろう」


「違う」


 惟種は宗運を見た。


「宗運」


「は」


「もし、わしが景虎の真似をして、何も告げず越後へ行ったらどうする」


「若君は、そのようなことはなさらぬと信じております」


「そうであろう」


 惟種は大きく頷いた。


「わしも、そう思っておる」


 景虎が怪訝な顔をした。


「己のことではないか」


「少なくとも、宗運には相談する」


 惟種は胸を張った。


 もっとも。


 惟種が些事と思っていることまで、宗運が同じく些事と思っているとは限らない。


「万一、なされた場合は」


 宗運が静かに続けた。


「ただちに越後までお迎えに上がります」


「……うむ」


「その後、ゆっくりお話をさせていただきます」


「それは避けたいな」


 惟種は素直に答えた。


 景虎が、わずかに口元を緩める。


「わしの気まぐれに、宗運や家臣を付き合わせる時はある」


「自覚はおありでしたか」


「ある!」


 宗運の一言が刺さる。


「まあ、そのたびに非常に叱られるがな」


「当然にございます」


「だが」


 惟種は景虎へ向き直った。


「付き従った者を飢えさせぬ」


 景虎の笑みが消える。


「働いた者には報いる。家臣が間違いを申せば正す。わしが間違えば、家臣に止めてもらう」


「家臣に止められて、主の意が立つのか」


「家を立てるのが、主の意じゃ」


 惟種は、あっさりと言った。


「己の意地を立てることではない」


 景虎は黙った。


「そこには義がある。信がある。理がある。そして、働いた者へ利を返す」


「……」


「それが、わしの望む阿蘇家じゃ」


 惟種は胸を張った。


 まあ。


 阿蘇家に銭があるから言えることでもある。


 銭がなければ、惟種もここまで大きな顔はできない。


 だが、銭を作るのも主君の仕事である。


「景虎」


「何じゃ」


「義を捨てよとは申しておらぬ」


「……」


「義に進みたいなら、進めばよい」


「ならば」


「ただし、その先を見よ」


 惟種は、景虎の目を見た。


「家臣が何を失うか。民が何を負うか。勝った後、誰が土地を治めるか。負けた後、誰が責を負うか」


「それを決めれば、関東へ出てもよいと申すか」


「大軍で深く入るな」


 惟種は言った。


「槍を入れる前に、文を入れよ。城を攻める前に、城主の腹を取れ」


「調略か」


「そうじゃ」


「好かぬ策じゃ」


 景虎は顔をしかめた。


「人の腹を量り、寝返らせる戦をせよと申すか」


「正面から戦って、家臣を千人死なせる方が立派か」


 景虎は答えなかった。


「内応する城だけを取れ。帰参する者を赦せ。上野北部に足場を置け。越後へ引けぬ場所まで進むな」


「北条が大軍を出せば」


「退け」


「退くのか」


「何度でも退け」


 景虎の顔が苦くなる。


「北条を倒そうとするな。北条に関東を飲み込ませぬことだけを考えよ」


「それでは、勝ったとは言えぬ」


「負けぬことも勝ちじゃ」


「気に食わぬ」


「そうか」


 惟種は肩をすくめた。


「二年しかないのであろう」


「そうじゃ」


「ならば、二年でできることだけをせよ」


「……」


「上野に長尾の足場を作る。憲政殿の旗を残す。北条へ従う者を減らす。越後へ通じる道を押さえる」


 惟種は指を折った。


「それで十分じゃ」


「十分ではない」


「次につながる」


「それでも、わしは」


 景虎は言葉を止めた。


 義を捨てたくない。


 しかし、惟種は義を捨てろとは言っていない。


 むしろ。


 義を続けるために、理と利を備えろと言っている。


 それが、景虎には気に食わないらしい。


 否定されたなら、怒れた。


 臆病者と罵られたなら、斬り返せた。


 だが、惟種は景虎の義を認めたまま、その先を見ろと言う。


 逃げ道がない。


「……気に食わぬ」


 景虎が呟いた。


「何がじゃ」


「そなたの申すことが、まるで間違っておらぬことがじゃ」


「それは悪かったな」


「義を捨てよと申せば、斬り捨ててやったものを」


「客人のくせに物騒じゃな」


「寝る!」


 景虎が立ち上がった。


「何じゃ、急に」


「ひとまず寝て考える!」


「まだ日は高いぞ」


「知らぬ!」


 景虎は、そのまま用意された寝所へ向かおうとした。


「待て、水夫」


「誰が水夫じゃ!」


 景虎が振り返る。


 惟種は、面倒そうに手を振った。


「多少の援助くらいはしてやる」


 景虎の表情が変わった。


「援助?」


「米、銭、武具、火薬。そのほか、必要なものを少しじゃ」


「よいのか」


「勘違いするな。関東の戦を、阿蘇が背負うつもりはない」


 惟種は言った。


「村上殿の内を、武田に崩されぬようにすること。それと、景虎が関東で動く際、物が足りぬせいで立ち止まらぬ程度じゃ」


「それを、多少と申すのか」


「多少じゃ」


 惟種は即答した。


「阿蘇にとってはな」


 景虎は、しばらく惟種を見た。


 そして、わずかに笑った。


「若君」


「何じゃ」


「そなたは、口ほど冷たくはないな」


「うるさい。水夫は早く寝ろ」


「誰が水夫じゃ!」


 景虎は声を上げ、そのまま寝所へ向かっていった。


 供の者たちが、慌てて後を追う。


 惟種は、その背中を見送った。


「景虎も大変だな……」


「若君も、他人事ではございませぬ」


 宗運が静かに言った。


「なぜ、わしの話になる」


 宗運は答えなかった。


 ただ、静かに惟種を見ている。


 惟種は目を逸らし、少し考えてから口を開いた。


「宗運」


「は」


「村上殿への援助と、景虎が関東で滞りなく動ける程度でよい。見繕って出してやれ」


「承知いたしました」


 宗運は、涼しい顔で頭を下げた。


 金額も。


 米の量も。


 武具の数も。


 何一つ聞かなかった。


 まるで、最初から分かっていたかのようである。


 惟種は、その横顔を見た。


「……本当に、多少でよいぞ」


「承知しております」


 宗運の顔は、少しも変わらなかった。


 惟種は、なぜか不安になった。


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