第二百二十七話 本当に来た
天文二十一年(一五五二年) 八月上旬
府内の港から、早馬が来た。
知らせを受けた惟種は、書付から顔を上げた。
「何事だ」
使者は、息を切らしながら平伏した。
「港にて、若殿へ取り次ぎを求める者がございます」
「誰だ」
「それが……」
使者は、言いにくそうに口ごもった。
「水夫にございます」
「水夫?」
「はい」
「商いの話なら、港役人へ任せよ」
「それが、その者は」
使者が顔を上げる。
「越後の長尾景虎様と名乗っております」
惟種は黙った。
隣に座る宗運も黙った。
「……誰が来たと申した」
「長尾景虎様にございます」
「どこの」
「越後の」
「同じ名の別人ではなく」
「本人にございます」
「水夫が?」
「水夫の姿をされております」
惟種は、ゆっくりと宗運を見た。
宗運も、惟種を見ている。
珍しく、その目がわずかに開いていた。
「文は」
「届いておりませぬ」
「先触れは」
「ございませぬ」
「供は」
「同じく水夫に扮した者が、数名ほど」
「……本当に来たのか」
惟種は額を押さえた。
天文二十年の秋。
越後を離れる前、景虎とは確かに言い合った。
いつか阿蘇へ遊びに行く。
来るな。
必ず行く。
絶対に来るな。
そのような話をした。
冗談だと思っていた。
普通は冗談である。
越後国主が、文も出さず。
供もほとんど連れず。
水夫に化けて九州まで来るはずがない。
「若殿」
宗運が静かに言った。
「迎えに参りましょう」
「分かっている」
「お急ぎください」
「分かっている!」
惟種は立ち上がった。
衣を整える。
供を呼ぶ。
馬を用意させる。
城内が、一気に騒がしくなった。
越後の主が来た。
しかも突然である。
誰も信じなかった。
だが、府内の港には。
確かに、長尾景虎がいた。
◇
惟種が港へ着くと、水夫たちが並んでいた。
日に焼けた顔。
粗末な衣。
頭には布を巻いている。
その中の一人が、惟種を見て笑った。
「久しいな、若君」
惟種は馬上で固まった。
間違いない。
長尾景虎である。
「来るなと言っただろう!」
惟種が叫ぶと、景虎は声を上げて笑った。
「元気そうで何よりじゃ」
「久しいな、ではない!」
「海を越えてきた客に、ずいぶんな挨拶じゃな」
「客は先に文を出す!」
「文を出せば、来るなと返すであろう」
「当たり前だ!」
「ゆえに出さなかった」
「胸を張るな!」
港にいた者たちが、目を丸くしている。
九州探題と越後国主の再会である。
本来ならば、もっと重々しい挨拶があるはずだった。
互いに礼を尽くし。
進物を交わし。
長旅をねぎらう。
少なくとも、人前ではそうする。
だが、惟種はそれどころではない。
「景虎様」
港役人が、恐る恐る声をかけた。
「こちらの御方は、まことに……」
「長尾景虎本人だ」
惟種が答えた。
「残念ながらな」
「残念とは何じゃ」
「こちらの話だ!」
景虎は、以前よりも少し大人びて見えた。
顔つきが鋭くなっている。
立ち姿にも、国主としての重みがあった。
ただし。
水夫姿である。
全てが台無しだった。
惟種は、その後ろを見た。
「宇佐美殿は」
「越後に置いてきた」
「その他の者は」
「同じく越後じゃ」
「政景殿もか」
「うむ」
「それは、まあ……」
惟種は少しだけ安心した。
重臣をすべて連れてきたわけではない。
越後には、国を預かる者が残っている。
「長尾家中には、何と伝えてきた」
「文を残した」
「ほう」
「阿蘇家との誼を深め、惟種と東国の儀を相談してくるとな」
「それならば、まだよい」
少なくとも、無断で国を捨てたわけではない。
外交として出てきたと言い張る筋はある。
「七日後に開くよう命じてある」
惟種は黙った。
宗運も黙った。
「……七日後?」
「うむ」
「では、今頃は」
「文を読んだ頃であろうな」
惟種は、遠く越後の方角を見た。
宇佐美定満。
長尾政景。
表では何事もない顔をしながら。
裏では、静かに大騒ぎしているに違いない。
景虎が春日山にいるように見せるため、影武者まで置いてきたという。
遠目に姿を見せ。
病と祈祷を理由に人を遠ざけ。
政務は宇佐美らが必死に回しているのであろう。
「宇佐美殿の胃の腑が心配でならぬ……」
惟種は、本気で呟いた。
「宗運」
「は」
「胃の腑に効く薬を送ってやれ」
「承知いたしました」
「なぜじゃ」
景虎が不思議そうな顔をした。
惟種は、ゆっくりと景虎へ向き直る。
「長尾殿」
「何じゃ」
「いや」
惟種は首を振った。
「もはや、景虎でよいであろう」
景虎が目を見開いた。
「ほう」
「畏怖を通り越し、敬愛の念すら覚えた。これより景虎と呼ばせてもらう」
景虎は、満足そうに笑った。
「ようやく、余とそなたも真に親しき仲となったか」
「そう受け取ったか」
「違うのか」
「いや。もう、それでよい」
説明するのも疲れる。
景虎は嬉しそうだった。
惟種は、少しだけ怯えていた。
もし自分が宗運に何も告げず。
影武者だけを残し。
水夫に化けて越後へ渡り。
七日後に書置が見つかるよう仕向けたならば。
どうなるか。
考えるまでもない。
見つかった瞬間。
説教で済めば、まだ軽い。
阿蘇へ戻った後、半年は政務部屋から出してもらえぬかもしれない。
いや。
宗運なら、越後まで迎えに来る。
笑顔で。
惟種は身震いした。
「景虎」
「何じゃ」
「家臣は大事にした方がよいぞ」
「大事にしておる」
「本当に大事にしている者は、胃の腑を痛めるような真似をせぬ」
「国を任せたのじゃ。これほど信じている証もあるまい」
「物には限度がある」
「そなたが申したのであろう。周りを真に信じよとな」
「信じよとは申した」
惟種は膝を叩いた。
「国を預け、己は水夫になって九州まで来いとは申しておらぬ!」
景虎は、声を上げて笑った。
その笑い声が、港に響く。
惟種は、その姿を見ながら思った。
すごい。
本当にすごい。
自分には絶対にできない。
やろうとも思わない。
だが。
ここまで来ると、確かに敬意すら湧いてくる。
恐怖と敬意の境が、少し分からなくなっているだけかもしれないが。
「ともかく」
惟種は咳払いをした。
「ここで立ち話もできぬ。館へ参れ」
「うむ」
「それと、その姿のまま領内を歩くな」
「なぜじゃ」
「越後国主が水夫姿で歩いているなど、誰が信じる!」
「若君は信じたではないか」
「信じたくなかった!」
◇
景虎を館へ迎えた後も、領内の騒ぎは収まらなかった。
宿所。
警護。
食事。
同行者の部屋。
船に残した荷。
正式な衣装。
越後国主を迎える準備など、誰もしていなかった。
それも当然である。
来るという文すらなかったのだ。
景虎は着替えを終え、ようやく国主らしい姿になった。
惟種は、その正面に座る。
「まず、越後へ文を出すぞ」
「必要あるまい」
「ある!」
「文は残してきた」
「七日後に開く文を、残したとは言わぬ!」
惟種は、すぐに書状を用意させた。
長尾景虎は、無事に府内へ到着したこと。
阿蘇家にて責任を持って預かること。
東国の儀について話をした後、必ず越後へ帰すこと。
そこまで書いて。
惟種は筆を止めた。
「必ず帰す、でよいな」
「余計なことを書くな」
「お主の家臣のためだ!」
宗運が、静かに文を確認する。
「薬も添えましょう」
「頼む」
「なぜ薬が要るのじゃ」
「誰のせいだと思っている!」
惟種は、深く息を吐いた。
もう帰れ。
今すぐ帰れ。
越後へ帰ってくれ。
景虎が阿蘇にいると知れれば、各地から人が集まってくる。
宴を開けと言われる。
温泉へ案内しろと言われる。
軍を見たいと言い出すだろう。
船にも乗りたがる。
大筒も撃ちたがる。
面倒である。
非常に面倒である。
だが。
ふと、惟種は考えた。
景虎が阿蘇にいる。
越後の主が、わざわざ九州まで来ている。
東国の情勢を直に聞く必要がある。
阿蘇と長尾の友好を深める必要もある。
ならば。
京へ行かなくてもよいのではないか。
公方様には、景虎との外交協議があると文を出せばよい。
越後国主が突然来たのである。
こちらから放り出すわけにもいかない。
かなり強い理由になる。
惟種は、景虎を見た。
「景虎」
「何じゃ」
「しばらく、阿蘇にいるか」
部屋が静かになった。
景虎が目を瞬く。
同行してきた者たちも惟種を見る。
宗運まで、わずかに顔を動かした。
「若殿」
「何だ」
「今、何と」
「しばらくいてもよいと言った」
宗運が黙った。
その沈黙が怖い。
まさか、惟種が自分から客の滞在を勧めるとは思わなかったのであろう。
景虎は、ゆっくりと口元を上げた。
「ほう」
「何だ」
「珍しいこともあるものじゃ」
景虎は、満足そうに腕を組んだ。
「ようやく、余の威光が分かったか」
惟種は、一瞬だけ黙った。
そして笑った。
「はっはっは」
「何がおかしい」
「冗談が過ぎるぞ、景虎」
惟種は腹を抱えた。
「ついぞ酒の飲み過ぎで、頭がやられたか?」
「たしかに、そなたから送られてくる酒は悪くない」
「飲み過ぎたのだな」
「そうではない」
景虎の笑みが、少し消えた。
空気が変わる。
宗運も、静かに景虎を見る。
景虎は惟種へ向き直った。
「武田と、上杉憲政の件で相談したいのだ」
惟種の笑いが止まった。




