第二百二十六話 分身すればよい
天文二十一年(一五五二年) 七月下旬
評定は、すでに終わり数日経っていた。
重臣たちも離れ、残っているのは惟種と宗運だけである。
二人の前には、九州の地図、検地帳、兵籍、諸国から届いた書状。
そして、惟種が新たに書き加えた書付が並んでいた。
宗運は、その一枚を手に取った。
「村々の見回り」
「必要であろう」
「必要にございます」
惟種が胸を張る。
「各地へ入れた文官が、正しく政を行っているか。わし自身が確かめる」
「九州中を回るおつもりで」
「うむ」
「いつまでに」
「九月までに」
「無理にございます」
「船も馬もある」
「若君が村へ入れば、訴えを聞かずには帰られぬでしょう」
「当然だ」
「一つの村で半日はかかりまする」
「急げばよい」
「困っている者を前に、急げるのでございますか」
惟種は黙った。
「……急げぬな」
「左様にございます」
宗運は書付を横へ置いた。
「これで、上洛を延ばせると思われましたか」
「内政のためだ」
「はい」
「本当だぞ」
「承知しておりまする」
まったく承知していない顔だった。
宗運は、次の書付を取る。
「暦と時の定め」
「それも重要だ」
田植えの日。
税を納める日。
市を開く日。
兵を集める日。
港を出る時。
役所を開く時。
九州全体で日と時を揃えれば、政も商いも軍も動かしやすくなる。
「太陽と星の動きから時を測り、城下と港へ鐘を置く」
「よろしいかと」
「暦も九州で揃える」
「朝廷へ話を通す必要がございます」
惟種の動きが止まった。
「なぜだ」
「暦は、朝廷が扱うものにございます」
「九州で使うだけだぞ」
「勝手に新たな暦を定めたと受け取られれば、面倒にございます」
「……面倒だな」
「京へ赴き、直接御説明なされませ」
「それは駄目だ」
「なぜでございますか」
「今は、京へ行かずに済む方法を考えておるのだ!」
「やはり、そうでございましたか」
「暦は内政のためだ!」
「はい」
「上洛を延ばすためではない!」
「はい」
「少ししか」
「少しはあるのでございますな」
「言葉の綾だ」
宗運は、小さく息を吐いた。
「次に、阿蘇祭りの大改め」
「大事であろう」
「朝廷の御使者を招き、準備から片付けまで二月ほど御覧いただく」
「阿蘇家の信仰と、民の暮らしを知っていただくのだ」
「その間、上洛の御返事を待っていただく」
「祭りの最中に、館の主が出ていくわけにはいくまい」
「祭りを二月も行うのでございますか」
「準備も祭りのうちだ」
「片付けも入っておりますな」
「最後までが祭りだ」
「上洛を延ばすために」
「それだけではない!」
惟種は指を折る。
「民も喜ぶ。商人も集まる。銭も落ちる。阿蘇家の威信も上がる」
「あと、上洛も延びる」
「半分ほどは、それだ」
「半分もございましたか」
惟種は目を逸らした。
「さらに、御使者を内牧温泉へ御案内する」
「それは純粋なもてなしだ」
「毎日、湯へ入っていただく」
「旅の疲れを取っていただく」
「料理と酒を出し、芝居と歌も御覧いただく」
「阿蘇の文化を知っていただくのだ」
「帰ろうとされたら」
「次の見所へ案内する」
「見所がなくなれば」
「新しく作る」
「接待漬けにして、帰さぬおつもりで」
「人聞きが悪い!」
「違うのでございますか」
「阿蘇家の開発を、深く知っていただくだけだ」
「上洛するより大仕事になりませぬか」
「内政にもなる」
惟種は堂々と言い切った。
「京へ行きたくない一心で、内政を増やしておられまする」
「結果として九州が豊かになれば、よいではないか!」
「動機はともかく、行っていることは間違っておりませぬ」
「そうであろう」
「動機はともかく」
「二度言うな」
宗運は、最後の書付を取った。
「朝廷の御使者に、九州を一周していただく」
「うむ」
「阿蘇、府内、博多、日向、薩摩、大隅まで」
「九州の豊かさを知っていただく」
「すべて回れば、半年はかかりまする」
「半年も延びるではないか!」
惟種は満面の笑みを浮かべた。
宗運は無表情だった。
「御使者が帰りたいと申された場合は」
「まだ御覧いただいていない場所があると申す」
「京から戻れとの文が来れば」
「九州の道は遠い」
「道を整えたため、以前より早く届きまする」
「しまった」
道を直したことで、自分への命まで早く届く。
便利になるとは、よいことばかりではなかった。
「御使者を連れ回す案は、やめていただきます」
「阿蘇家の威信が上がるぞ」
「阿蘇から逃げ出されまする」
「温泉と料理を出せば」
「監禁と受け取られましょう」
「人聞きが悪い!」
「事実に近うございます」
「せめて、肥後と豊後だけでも」
「阿蘇と府内までにしてくだされ」
「厳しいな」
「一の臣にございますゆえ」
惟種は頬杖をついた。
「では、どれほど延ばせる」
「すべて合わせて、半年ほどかと」
「半年後には」
「京へ参りましょう」
惟種の笑みが消えた。
「医師だけを送る」
「若君御自身が苗を受けられたことに、意味がございます」
「宗運も受けた」
「私は九州探題ではございませぬ」
「父上に行っていただく」
「御隠居にございます」
「公方様から説明していただく」
「詳しくは御存じございませぬ」
「書状を送る」
「陛下へ疱瘡除けの苗をお勧めするのでございます。書状だけで足りるとお思いで」
「……思わぬ」
「ならば」
「半年後か」
「遅くとも」
惟種は机へ伏せた。
「半年しかない」
「半年もございます」
「その間に、別の用を作れば」
「若君」
「内政にもなるように考える!」
「そこだけは譲られぬのでございますな」
「当然だ!」
村の巡察。
暦と時の定め。
阿蘇祭り。
内牧温泉。
どれも京行きを延ばすために考えた。
だが、九州を一つの国として整えるためには役に立つ。
宗運としても、すべてを否定することはできなかった。
「ええい!」
惟種が机を叩く。
「何か、事件でも起きぬか!」
宗運の目が細くなった。
「そのようなことを申されてはなりませぬ」
「分かっておる」
「何か起きれば、民が困ります」
「分かっておるのだ!」
惟種は、再び机へ伏せた。
「事件など、起きぬ方がよい。民が困り、兵も死に、田畑も焼ける」
「御意にございます」
「ただ、京へ行かずに済むほどの、誰も困らぬ事件は起きぬものか」
「それを事件とは申しませぬ」
「そうか」
「はい」
惟種は、しばらく机へ伏せていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「宗運」
「はっ」
「そなたは、京へ行ったことがないから分からぬのだ」
「何がでございましょう」
「京は魔境よ」
朝廷。
公家。
幕府。
幕臣。
そやつらが、わらわらと寄ってくる。
「娘を娶れ。当家と縁を結べ。この家を助けよ。土地を取り戻せ。公方様を支えよ。三好と話せ。仲裁せよ。銭を出せ。米を出せ。兵を出せ」
両手の指が埋まった。
「指が足りぬ!」
「手を開いておられるからにございます」
「そこではない!」
惟種は両手を机へ叩きつけた。
「九州なら、宗運がおる。種茂も、父上もおる。わしが嫌だと申せば、半分ほどは止めてくれる」
「半分でございますか」
「京には、おらぬ」
「私も御同行いたしましょうか」
「そういう話ではない。それに宗運まできたら、阿蘇の内政が回らん」
惟種は、また机へ伏せた。
「わしは阿蘇にいたいのだ……」
「今は府内にございますが」
「細かいことはよい」
「先ほど、時を揃えると申された御方とは思えませぬな」
「今は京の話だ」
「承知いたしました」
惟種は顔を上げた。
「そなたも、阿蘇家一の臣であろう」
「恐れ入りまする。一つ追加をさせていただけるのでしたら、若君の一の臣でもあります」
「そうか。ならばわしの一の臣よ。何か、よい手を考えよ」
「若君が京へ行かず、朝廷へ礼を失せず、陛下へ苗をお勧めでき、公方様にも叱られず、三好殿にも隙を見せず、阿蘇家の威信も損なわぬ方法」
「そうだ!」
「難しゅうございますな」
「わしの一の臣であろう!」
「では」
宗運は、わずかに考えた。
そして、静かに答える。
「分身なされてはいかがでしょう」
惟種が目を見開いた。
「それだ!」
勢いよく立ち上がる。
今度は、宗運が目を見開いた。
「若君」
「何だ!」
「冗談にございます」
「影武者よ!」
惟種は自分を指差した。
「わしに似た者を探す。同じ衣を着せ、髪を整え、そこへ座らせる。遠目ならば分かるまい!」
宗運は黙った。
「評定、閲兵、祭り、行列。わしが出たくない時は、影武者を置けばよい!」
「近くで話しかけられますぞ」
「口数の少ない者にする」
「若君は、口数が多うございます」
「喉を痛めたことにする」
「歩き方は」
「覚えさせる」
「声は」
「似せる」
「字は」
「書かせぬ」
「剣は」
「卜伝殿に鍛えさせる」
「死にまするぞ」
「加減してもらう!」
宗運は、しばらく考えた。
「まあ、使い道はございますな」
「そうであろう!」
「御身を狙う者を惑わせることができまする。戦場で本陣の位置も隠せましょう」
「完璧ではないか!」
「行列を二つに分ければ、襲撃も避けやすくなります」
「すぐに探せ!」
「背丈、顔立ち、声、年頃を見て、二人か三人ほど探しましょう」
「さすが宗運!」
「見つけた後は、長く鍛える必要がございます」
「構わぬ!」
惟種は満面の笑みを浮かべた。
「これで、京へ行かずに済むな!」
「それは無理にございます」
惟種の笑みが止まった。
「何だと」
「影武者を参内させるわけにはまいりませぬ」
「医師に話させる」
「陛下から、若君へ直接お尋ねがあれば」
「覚えさせる」
「公方様にも見破られましょう」
「黙っておれば」
「公方様は、若君へ話しかけるのがお好きにございます」
「面倒な……」
「朝廷、公家、幕府、幕臣を、すべて近づけぬので」
「京へ行く意味がないな」
「左様にございます」
惟種は、力なく座り込んだ。
「では、何のために影武者を探すのだ」
「今後、若君の御身を守るためにございます」
「京行きには使えぬのか」
「道中で、行列を分ける程度ならば」
「京へ入るのは」
「若君御自身にございます」
「陛下へ説明するのも」
「若君御自身にございます」
「帰りたいと申すのも」
「若君御自身にございます」
「帰していただけぬのも」
「おそらく、若君御自身にございます」
惟種は宗運を睨んだ。
「期待して損したわ!」
「影武者は見つけまする」
「そこではない!」
「御身を守るために必要にございます」
「わしは京へ行きたくないのだ!」
「存じておりまする」
「ならば何とかしろ!」
「祭りの部分は調整が必要でしょうが、半年ほどは延期できるかもしれませぬ」
「その後は」
「京へ参りましょう」
「鬼!」
「はい」
「悪魔!」
「仏の道を妨げる魔にございますな」
「博識だな宗運!」
「そこまで褒めても、何も出ませぬぞ」
「そんなに褒めておらん!」
宗運は静かに頭を下げた。
「では、影武者探しの手配を進めまする」
「勝手にしろ!」
「御意」
京へ行きたくない。
ただ、それだけのために。
惟種は村の巡察を定め、九州で用いる暦と時を考え、阿蘇祭りと内牧温泉を整えた。
ついには、影武者まで探すことになった。
そうして九州の政と守りは、また少しだけ強くなった。
ただし。
惟種の京行きだけは。
少しも遠のかなかった。




