第二百二十五話 外は待たぬ
内についての評定が終わり。
広間には、一度、休みが入れられた。
湯が運ばれ。
菓子が置かれ。
重臣たちも、わずかに肩の力を抜く。
惟種も、ようやく一息ついた。
戸籍。
検地。
道。
蔵。
肥後鷹衆。
そして、軍制の改め。
正月に定めたことが、少しずつ形になっている。
九州は、まだ完全に落ち着いたわけではない。
それでも、以前とは違う。
民は飢えていない。
大きな反乱を起こせる者も減った。
軍も、一つの御旗の下へ集まり始めている。
ならば。
少しくらい、休めるのではないか。
惟種が、そんな淡い期待を抱いた時だった。
「では、九州の外について申し上げます」
種茂が、新たな書付を広げた。
休みは終わった。
内が整い始めても。
外は待ってくれない。
「まずは尾張にございます」
「織田家か」
「はい」
惟種は、少し身構えた。
種茂が書付へ目を落とす。
「織田信秀殿が、春頃より病に伏しておりました」
「かなり悪かったのか」
「一時は、明日をも知れぬとの噂が流れたほどにございます」
「そうか……」
二月に届いた文では。
信秀は、自らの病を利用するつもりであった。
だが、尾張に広がった知らせは、それよりも重かった。
信長さえ。
父の死を覚悟したという。
「信秀殿が倒れたことで、織田家中の不穏分子が動きました」
「信長殿への家督相続に反対する者か」
「はい。弟君を担ごうとする者。今川へ通じていた者。清洲方へ助けを求めた者もおります」
「信長殿は」
「鎮めました」
種茂は淡々と答えた。
「今川へ通じていた者は討ち、誘われただけの者には誓紙を出させ、家中をまとめ直したとのこと」
惟種が目を細める。
「使える者まで、すべて斬ったわけではないのだな」
「そのようにございます」
宗運が惟種を見た。
「何だ」
「殿が以前、三郎殿へお伝えになられたことに似ておりますな」
「わしを見るな」
「見ているだけにございます」
種茂が話を続ける。
「されど、動いたのは、織田弾正忠家の内だけではございませぬ」
「清洲か」
「はい」
清洲織田家。
織田大和守家。
本来、信秀や信長の弾正忠家が仕える主家である。
「織田信友は、分家の争いを鎮めると称して兵を集めました」
「信秀殿が倒れた今なら、弾正忠家を押さえ込めると思ったか」
「阿蘇家と勝手に結び、主家を軽んじているとも触れ回ったようにございます」
広間の視線が、惟種へ集まった。
「だから、わしを見るな」
「阿蘇家との交流が、清洲方を刺激したのは確かでしょう」
宗運が静かに言った。
「交流しただけだ」
「九州探題と直接文を交わす分家を、主家が恐れたのでございましょう」
「……わしのせいではない」
誰も答えなかった。
「尾張守護の斯波義統殿は、信友の出兵に反対されました」
「当然だろう。守護代が、守護の許しなく兵を出そうとしたのだからな」
「その義統殿が、殺されました」
広間が静かになった。
惟種の表情から、わずかな軽さが消える。
「信友が殺したのか」
「信友の重臣が手を下したとのこと。されど、信友の命と見られております」
「義統殿の御子は」
「清洲を逃れ、信長殿を頼りました」
惟種は、小さく息を吐いた。
「信友は、やりすぎたな」
「はい」
分家の争いを鎮める。
その名目だけなら、まだ理屈は立つ。
だが。
仕えるべき守護を殺した。
これで信長は。
主家へ逆らう分家ではなくなった。
守護を殺した逆臣を討つ者になった。
「六月、清洲方が兵を出しました」
「信長殿は迎え撃ったのか」
「はい」
「父は病床。家中を鎮めたばかり。その上で、清洲方と戦ったか」
「そのようにございます」
「勝ったのだろうな」
「はい。清洲方を破り、清洲城を明け渡させました」
惟種は、しばらく黙った。
信秀が倒れた。
家中では反対派が動いた。
清洲織田家が兵を出した。
斯波義統は殺された。
今川の調略も入り込んでいる。
今川からは。
銭も。
武具も。
人も入っていたという。
その背後では。
武田との縁を固めつつある今川が。
東への備えを軽くし、西へ手を伸ばし始めている。
それらを。
まだ若い信長が、すべて鎮めた。
「よく乗り切ったな……」
惟種は、心の底から呟いた。
「容易な戦ではなかったものと思われまする」
種茂が頷く。
「家中をまとめながら、守護の御子を奉じ、清洲方から離れる者を受け入れ、城内にも手を回したとのこと」
「力だけではないか」
「はい」
敵をすべて斬ったのではない。
使える者は残した。
守護の御子を保護した。
大義を手に入れた。
清洲方の内側を崩した。
そして、清洲を取った。
この難局を。
正面から押し潰しただけではない。
受け。
かわし。
敵を割り。
最後に城を奪った。
「流石は信長だ。褒めるしかあるまい」
宗運が惟種を見る。
「殿が、そこまでお褒めになるとは珍しゅうございますな」
「さすがにな」
惟種は素直に答えた。
「信秀殿が倒れたままであれば、織田家そのものが滅んでもおかしくなかった。それを、清洲を取るところまでひっくり返したのだ。並大抵のことではない。少なくとも、わしには無理だ」
「その信秀殿でございますが」
種茂が、別の書付へ目を落とした。
「病より回復されました」
「何だと」
「清洲方が敗れた後、御容体が急によくなったとのこと」
惟種は瞬いた。
「急に?」
「はい。すでに人前へ姿を見せ、清洲へも入られたそうにございます」
「死にかけていたのではないのか」
「尾張では、奇跡の御回復と噂されております」
惟種は宗運を見た。
宗運も、わずかに目を細めている。
「……怪しいな」
「怪しゅうございますな」
「だが、本当に病であった可能性もある」
「ございます」
「信長殿も知らなかったのだろう」
「父君の死を覚悟して動いていたと伝わっておりまする」
惟種は、もう一度、尾張の地図を見る。
敵だけではない。
信長まで欺いたのか。
もし、すべてが信秀の策であったなら。
信秀は、信長が自分なしでも立てるか。
本気で試したことになる。
家中の敵を表へ出し。
清洲織田家を動かし。
今川の調略まで引き寄せた。
そして。
そのすべてを信長に背負わせたことになる。
「信秀殿も、大概だな……」
「殿が申されますか」
「今は尾張の話だ」
「承知しておりまする」
「信秀殿は、今後どうする」
「家督を信長殿へ移す支度を、急速に進めております」
「清洲を取ったのが信長殿ならば、当然か」
「信秀殿は大殿として残り、信長殿を支えるものと思われまする」
「病は」
「回復後は、以前よりも壮健に見えるとの噂にございます」
「あと五年ほど生きそうだな」
惟種が冗談めかして言う。
だが、誰も笑わなかった。
阿蘇から送った薬。
酒を控え。
塩を減らし。
夜更けの評定も改めた。
本当に。
あと五年ほど生きるかもしれない。
惟種は、少しだけ嫌な予感を覚えた。
信秀が生き。
信長が清洲を得た。
父が後ろを支え。
子が前へ出る。
史実よりも、はるかに強い織田家が。
尾張に生まれようとしていた。
「尾張とは、引き続き交流を続けよ」
「それだけでよろしいので」
「それだけでよい」
惟種は強く答えた。
「これ以上は、逆にこちらが食われる可能性が出てくる」
「殿がお教えにならなくとも、自ら考える方にございましょう」
「それが一番困るのだ」
何人かが、小さく笑った。
「次は、甲斐、駿河、相模にございます」
「武田、今川、北条か」
「はい」
種茂が地図の上へ、三つの札を置いた。
「三家が縁組を進め、起請文を交わしました」
惟種の顔が引き締まる。
「もう結んだのか」
「はい」
「もともと、そのように動いていたのは知っていたが、早いな……」
「村上家との三年の停戦が、影響したものと思われまする」
宗運が地図へ手を伸ばした。
「武田晴信殿は、北へ大きく動けませぬ」
「うむ」
「その間に、東と南を固めた」
「三年を待つだけではなかったか」
「左様にございます」
武田。
今川。
北条。
三家が、互いに背を守る。
武田は、信濃へ。
今川は、三河と尾張へ。
北条は、関東へ。
それぞれが。
正面の敵へ力を向けられる。
「尾張の騒ぎにも、関わっているな」
「直接動いたのは、今川方にございます」
種茂が答える。
「されど、武田との縁が固まりつつあるからこそ、今川は西へ銭と人を出せたのでしょう」
「信長殿を潰せれば、今川には利がある」
「はい」
「阿蘇家と結んだ織田を、今のうちに潰したいという思惑もあったか」
「その可能性はございます」
惟種は、嫌そうに顔をしかめた。
「やはり、少しはわしのせいではないか」
「少しにございますか」
「少しだ。そういうことにしておけ」
宗運は何も答えなかった。
「村上殿へ知らせは」
「すでに」
「長尾にも」
「送っておりまする」
「そうか」
惟種は地図を見る。
自分が結ばせた停戦が。
別の場所の歴史まで早めている。
武田は、北へ動けない間に背後を固めた。
今川は、西へ手を伸ばした。
北条は、関東へ力を向けられる。
一つ止めれば。
別の場所が動く。
「少し、責任を感じるな」
「感じるだけにしてくだされ」
種茂が即座に言った。
「何か手を出そうとなさらぬよう」
「出さぬ」
「本当にございますか」
「なぜ疑う。こんなに純真無垢なのに」
答える者はいなかった。
なぜだ。
少しくらい、信じてくれてもよいではないか。
「最後に、中国地方にございます」
種茂が、安芸、周防、出雲の地図を広げる。
「大内家の陶晴賢と毛利の争いが、小競り合いでは済まぬものとなり始めました」
「大内家中は」
「大内広頼を掲げ、陶がまとめております」
惟種は地図へ目を落とした。
吉見広頼。
今は、大内広頼。
大内家の当主である。
だが。
父親である吉見正頼が、素直に従っているわけがない。
「また、吉見正頼が病に伏しております」
「陶の謀略だろう。無理に広頼を担いだのだ。傀儡にするためにも、邪魔なのであろう」
「おそらくは」
大内家の名。
周防と長門の土地。
兵。
商い。
そのすべてを巡り。
主と家臣が争っている。
「陶は、どれほどの兵を動かせる」
「大内家の旧臣を中心に、兵を集めております。およそ二万」
「妥当だな」
「なおも着々と、地盤を押さえております」
「ふむ……」
惟種は考える。
おおよそ、想定した通りの流れだ。
このままなら。
いずれ、厳島で戦が起こるかもしれない。
「毛利は」
惟種が尋ねる。
「毛利元就は、陶の命へ従う姿勢を見せておりませぬ」
「独立したか」
「事実上は」
「大内広頼殿へ従うつもりも」
「今のところは、見せておりませぬ」
種茂は、安芸に札を置いた。
「もともとは安芸だけという約で、大内から独立しましたが、すでに大内領をいくつか食っております」
「陶は、毛利も押さえたいだろう。だが、元就は先を見ている。不安定なうちに、食えるだけ食うつもりだろう」
惟種は、地図の上の札を見る。
「このままだと、遠くない未来、阿蘇も毛利と相対するな……」
「はい」
惟種は嫌そうな顔をした。
「さらに、尼子晴久がございます」
出雲に、もう一つの札が置かれた。
「備後と石見へ兵を進めておりまする」
「陶と争っているのか」
「はい」
「毛利とも」
「争っておりますが、目下の敵は大内でしょう」
「なるほど。毛利も、大国の間でうまく立ち回っているようだ」
地図の上には。
陶。
毛利。
尼子。
三つの札が置かれていた。
陶晴賢が旧領をまとめ。
毛利元就は独立し。
尼子晴久が、西と南へ手を伸ばす。
誰か一人が動けば。
残る者も動く。
「三つ巴か」
惟種が呟く。
珠光へ、以前言ったことを思い出す。
いずれ、その子に大内の地を任せる。
そう約束した。
珠光姫が阿蘇にいるというだけで。
中国地方の者たちは、勝手に意味を見いだす。
「珠光の名を、勝手に使わせるな」
「承知しておりまする」
「大内にも、陶にも、毛利にもだ」
「はい」
「大内広頼殿にも、陶にも、毛利にも、尼子にも肩入れはしない」
「よろしいので」
「今はな」
惟種は地図から目を上げた。
「九州を整える方が先だ。あと二、三年もあれば、今よりは落ち着く。それまでは内に注力する」
「御意にございます」
「商いは続ける」
「はい」
「だが、兵も武具も出さぬ」
「承知いたしました」
九州の外では。
各地が動いていた。
尾張では。
信秀が倒れ。
信長が清洲を取った。
東国では。
武田、今川、北条が手を結んだ。
中国では。
大内、陶、毛利、尼子が争い始めている。
どこも。
惟種が知る歴史とは、少しずつ違っていた。
いや。
少しではない。
もう、大きく違っている。
前世の知識だけを頼りにすることは。
ますます危うくなっていた。
「以上にございます」
種茂が書付を閉じた。
惟種は、広間を見回す。
九州の内は、落ち着きつつある。
民は飢えず。
道が延び。
軍も整い始めた。
ようやく。
一つの国として動き始めたのだ。
だが、その外では。
尾張が動き。
東国が結び。
中国地方が割れ始めている。
内が整ったからといって。
世が待ってくれるわけではない。
「宗運」
「はっ」
「九州は、落ち着いたのだな」
「おおむねは」
「おおむねか」
「仕置きに、終わりはございませぬ」
「そうだろうな」
惟種は小さく息を吐いた。
「だが、以前よりはよい」
「左様にございます」
「民も飢えておらぬ」
「はい」
「軍も整いつつある」
「はい」
「ならば、少しくらい休んでも」
「これで」
宗運が言葉を重ねた。
「殿も、心置きなく京へ向かえまする」
惟種は止まった。
「何だと」
「九州の政は、おおむね順調にございます」
「うむ」
「軍の編成も、我らで進められまする」
「うむ」
「疱瘡除けの苗を、陛下へ御説明するため」
「うむ……」
「京へ参りましょう」
惟種は宗運を見た。
「そのために、この評定を開いたのか」
「まさか。そのようなことはございませぬ。九州の政と、諸国の動きを確かめるためにございます」
「目を逸らすな」
「逸らしてはおりませぬ」
宗運が、まっすぐ惟種を見る。
「京へ参りましょう」
「嫌だ!!」
広間に笑いが起こった。
惟種は、深く肩を落とす。
九州は。
ようやく、一つの国として動き始めた。
民は飢えず。
軍も整い。
政も落ち着きつつある。
これほど、喜ばしいことはない。
だが。
内が落ち着けば。
次は、外へ出ろと言われる。
「京には行きたくない……」
惟種の呟きだけが。
広い評定の間へ、むなしく響いた。




