第二百二十三話 疱瘡を防ぐもの
天文二十一年(一五五二年)六月。
阿蘇館から少し離れた場所に、一つの建物があった。
周囲には高い塀。
出入り口は一つ。
近づける者も限られている。
中にいるのは、医師。
薬師。
牛や馬を世話する者。
そして、長く病の研究に携わってきた者たちであった。
惟種が建物へ入る。
宗運も、その後ろに続いた。
「できたとは、本当か」
惟種が尋ねる。
正面に座る年嵩の医師が、深く頭を下げた。
「はい」
「本当にか」
「はい」
「間違いではないのだな」
医師は、わずかに言葉を選んだ。
「疱瘡を防ぐ苗として、使える見込みが立ちました」
「見込みか」
「誰にでも効くとは、まだ申し切れませぬ。されど、これまでの結果を見るかぎり、偶然とは考えにくいものにございます」
惟種は、その場に立ったまま動かなかった。
長かった。
最初に命じたのは、天文十九年。
それから二年余り。
牛と馬の身体に、疱瘡に似た疱がないか探させた。
特に牛の乳房。
乳を搾る者の手。
その者が人の疱瘡にかかったことがあるか。
村で疱瘡が流行した時、無事であったか。
すべてを記録させた。
最初は、誰も意味を理解しなかった。
牛の膿を集めて、何になるのか。
傷へ塗る薬にでもするのか。
そう思われていた。
だが、惟種が求めていたのは薬ではない。
疱瘡を防ぐ苗だった。
牛に出る、疱瘡に似た病。
それにかかった者は、人の疱瘡へかかりにくい。
その知識はあった。
だが、知っていることと、作れることは違った。
ただの傷。
虫刺され。
別の病による腫れ。
何の効き目もないもの。
高い熱を出させるもの。
傷を膿ませるだけのもの。
採る時を誤ったもの。
運ぶ間に駄目になったもの。
何度も失敗した。
医師も。
薬師も。
牛を世話する者も。
諦めかけた。
惟種も、何度か思った。
本当に、この時代に作れるのか。
自分の記憶が、何かを間違えているのではないか。
それでも、止めなかった。
疱瘡は人を選ばない。
武士も。
百姓も。
商人も。
公家も。
子どもも。
老人も。
容赦なく命を奪う。
生き残っても、顔や身体へ深い痕を残す。
防ぐ方法を知っているのに。
できぬからと、諦めるわけにはいかなかった。
惟種は医師の前へ座った。
「どの牛から採った」
「乳房へ疱の出た牛にございます」
医師が書付を開く。
「その牛の乳を搾っていた女の手にも、同じ疱が出ておりました」
「その女は、人の疱瘡にかかったことがあるか」
「ございませぬ」
「村で流行した時は」
「二度とも、疱瘡を発しませなんだ」
惟種は小さく頷いた。
「その牛の疱から採ったものを、苗にしたのだな」
「はい」
「結果を聞かせよ」
「最初に三人へ苗を入れました」
医師は書付へ目を落とした。
「三人とも腕が腫れ、熱を出しました。されど、七日から十日ほどで治まり、疱も二十日余りでかさぶたとなって落ちました」
「後に異常は」
「見られませぬ」
「その三人を、疱瘡患者のいる離れへ入れたのだな」
「はい」
「何度だ」
「三度にございます」
「患者へ触れさせたのか」
「水を飲ませ、衣を替え、身体を拭かせました」
医師の声が低くなる。
「されど、三人とも疱瘡を発しませなんだ」
惟種の指が、わずかに動いた。
「その後は」
「さらに六人へ入れました」
「結果は」
「誰一人、疱瘡を発しておりませぬ」
「苗を受けなかった者は」
「同じ離れで患者の世話をした者が、六人おりまする」
「どうなった」
「四人が疱瘡を発しました」
医師は一度、言葉を切った。
「うち一人は、亡くなりました」
部屋が静かになる。
「残る二人は」
「以前に疱瘡を患った者にございます」
惟種は書付へ目を落とした。
苗を受けた九人は、一人も発症していない。
受けていない者は、疱瘡にかかったことのない四人すべてが発症した。
人数は少ない。
これだけで、誰にでも効くとは言えない。
それでも。
差は、あまりにも大きかった。
「最初の三人へ苗を入れてから、どれほど経った」
「半年を越えておりまする」
「今も異常はない」
「ございませぬ」
惟種は、ゆっくりと息を吐いた。
「できたのだな」
医師は、すぐには頷かなかった。
書付を見る。
小さな壺を見る。
ともに研究を続けてきた者たちを見る。
そして、深く頭を下げた。
「疱瘡を防ぐ苗にございます」
誰も声を上げなかった。
二年余り求め続けたものが、ようやくできた。
喜ぶべきことである。
それでも、その場にいた者たちは笑わなかった。
ここへ至るまで、多くの者へ危険を負わせた。
牛を世話した者。
医師。
薬師。
自ら苗を受けた者。
そして。
死罪を待つ罪人もいた。
危険をすべて伝えたうえで、苗を受けるかを選ばせた。
成功すれば命を助ける。
罪を減じる。
家族には米と銭を与える。
拒むならば使わない。
そう定めた。
だが。
死を待つ者へ差し出した選択を、本当に自由な選択と呼べるのか。
惟種には、今でも分からなかった。
「罪人たちは」
「全員、生きておりまする」
「約束は守ったな」
「一人は赦免。残る者も死罪を免じ、府内の土木方へ移しました。家族への米と銭も、すでに渡しております」
「名は残してあるか」
「すべて記しておりまする」
「消すな」
惟種は書付を見る。
「この苗が世に広がっても、罪人だったという理由で名を消すな。この者たちが、最初に命を懸けたのだ」
「御意にございます」
「それと」
惟種は、別の書付へ目を向けた。
「疱瘡の患者で、協力した者がいたな」
医師の顔が曇る。
「甚兵衛という男にございます」
「生きては」
「おりませぬ」
短い答えだった。
甚兵衛。
府内近くの村に住む、四十を過ぎた男だった。
疱瘡にかかり、家族から離され、この建物の奥にある離れへ入れられた。
熱は下がらず。
顔も身体も膿んだ。
医師たちも、助からぬと考えていた。
その甚兵衛が。
苗を受けた者を、自分の世話へ入れてよいと言った。
病を移すかもしれない。
それでも構わぬと。
「何と申しておった」
惟種が尋ねる。
「自分は、もう長くないと」
「うむ」
「幼い妹を疱瘡で亡くしたことがあるそうにございます」
医師は声を落とした。
「子も一人、同じ病で亡くしたと」
「そうか」
「ゆえに、自分を使って、この病を終わらせてくれと」
部屋が静まり返った。
「名はいらぬとも申しておりました」
「勝手なことを申す」
惟種は小さく呟いた。
「名を残せ」
「はっ」
「家族は」
「妻と、娘が一人」
「米と銭を渡せ」
「すでに」
「一度ではない」
惟種は医師を見た。
「毎年だ。少なくとも、その代が終わるまで阿蘇家が面倒を見ろ」
「毎年、でございますか」
「この苗が使われるかぎりだ」
「承知いたしました」
「甚兵衛は、ただ病で死んだのではない」
惟種は書付へ手を置いた。
「この病を終わらせるため、最後まで力を貸した」
「はい」
「ならば、阿蘇家が忘れてはならぬ」
医師たちは、深く頭を下げた。
惟種は、小さな壺を見る。
中にあるのは、わずかな苗。
何度も選び。
試し。
失敗し。
ようやく残ったもの。
これですぐに、疱瘡がなくなるわけではない。
苗を絶やさぬようにしなければならない。
誰に、どのように入れるかも定めなければならない。
身体へ病の苗を入れる。
そう聞けば、恐れる者もいる。
神仏への背きだと申す者もいるだろう。
それでも。
始めなければ、何も変わらない。
「では」
惟種が袖をまくった。
「わしにも入れよ」
「お待ちくだされ」
宗運が止めた。
「何だ」
「まずは、私へ」
「九人へ試したのだぞ」
「はい」
「効果も出ておる」
「左様にございます」
「ならば、わしが受けてもよいであろう」
「なりませぬ」
「なぜだ」
「九人の者と若君では、阿蘇家にとっての重みが違いまする」
「命の重みに違いはない」
「阿蘇家にとってはございます」
「宗運」
「若君へ勧めるものを、私が受けずに済ませることはできませぬ」
宗運も袖をまくった。
「まず、私が受けまする」
「そなたに何かあれば、わしが困る」
「若君に何かあれば、九州が困りまする」
「わしは九州ではなく、そなたの話をしておる」
「私は阿蘇家の話をしておりまする」
二人は見つめ合った。
どちらも譲らない。
医師たちは、困ったように目を伏せていた。
やがて、惟種が息を吐く。
「分かった」
「御許しいただけますか」
「ただし、傷は清い布で覆え。布は毎日替え、膿や汁へ触れた者には惟種清玉で手を洗わせろ」
「はっ」
「使った布は煮るか、焼け。かさぶたが自然に落ちるまで、誰にも傷を触れさせるな」
「承知いたしました」
「それから」
惟種は宗運を見た。
「加世には近づくな」
宗運が、わずかに黙った。
「なぜ、そこで黙る」
「加世姫様へ近づく用は、もとよりございませぬ」
「そういう意味ではない!」
医師の一人が顔を伏せた。
肩が震えている。
「若君」
「何だ」
「笑われておりまする」
「分かっておる!」
宗運は平然と腕を差し出した。
医師が、小さな刃で傷をつける。
そこへ苗を入れた。
宗運の眉が、わずかに動いた。
「痛いか」
「槍に比べれば」
「それを言った者は、後で痛いと言うのだぞ」
「そのようなことは」
「覚えておこう」
宗運の腕へ、清い布が巻かれた。
◇
三日後。
宗運の腕が赤く腫れた。
四日後には、小さな疱ができた。
熱も出た。
それでも宗運は、寝台の上で書付を読んでいた。
「休め」
惟種が書付を取り上げる。
「急ぎのものにございます」
「種茂へ渡せ」
「種茂殿にも仕事がございます」
「そなたは熱がある」
「苗によるものにございます」
「熱があることに変わりはない!」
宗運が書付を取り返そうとする。
惟種は渡さない。
そこへ種茂が入ってきた。
二人から書付を取り上げる。
「私がいたします」
「種茂」
「若君は、執務へお戻りください」
「宗運が休まぬのだ」
「若君がおられるから、休まれぬのでは」
「なぜだ」
「御前で寝ている姿を見せたくないのでございましょう」
惟種が宗運を見る。
宗運は目を逸らした。
「そうなのか」
「そのようなことはございませぬ」
「では、寝ろ」
「若君がお戻りになられましたら」
「やはり、そうではないか!」
結局。
惟種が部屋から出るまで、宗運は横にならなかった。
二十日余りが過ぎた。
熱は下がった。
腕の疱も乾き、かさぶたとなって落ちた。
身体に異常はない。
宗運は以前と変わらず。
いや。
以前以上に仕事をしていた。
◇
惟種は、再び研究所を訪れた。
「では、次はわしだ」
袖をまくる。
「もうしばらく、人数を増やしてからでも」
宗運が言った。
「そなたが受けた後で、わしだけ逃げると思うたか」
「思ってはおりませぬ」
「わしは、いずれ陛下へもお勧めするつもりなのだ」
惟種は腕を差し出した。
「九州の民にも受けさせる」
「はい」
「子どもにもだ」
「はい」
「ならば、わしが受けずに勧めるわけにはいかぬ」
宗運は、しばらく惟種を見つめた。
やがて、深く頭を下げる。
「承知いたしました」
医師が、惟種の左腕へ小さな傷をつけた。
「あいたぁ」
思わず声が出た。
「若君」
宗運が見る。
「何だ。痛いものは痛い」
「私の時には、後で痛いと申す者がおると」
「今、痛いのだから仕方がないだろう!」
医師たちが顔を伏せる。
「笑うな!」
「笑ってはおりませぬ!」
「肩が震えておるぞ!」
苗を入れ、腕へ布が巻かれた。
惟種は、その布を見つめた。
「これで、しばらく加世には近づけぬな」
「御存じでございましたか」
医師が尋ねる。
「そのために、この苗を作らせたのだぞ」
惟種は腕を上げた。
「この苗は生きておる。傷から出る膿や汁が、ほかの者へ移らぬとは限らぬ」
「左様にございます」
「身籠っている加世へ近づけるわけにはいかぬ」
傷は常に布で覆う。
使った布は煮るか、焼く。
触れた者は、惟種清玉で手を洗う。
かさぶたが自然に落ちるまで、加世の部屋へは入らない。
「二十日ほどになるかと存じます」
「分かっておる」
惟種は深く息を吐いた。
「分かってはおるが、二十日は長いなぁ……」
「若君がお決めになったことでございます」
宗運が言う。
「分かっておる!」
「必要だから耐えるのでございましょう」
「そうだ!」
「ならば、問題ございませぬ」
「問題はある!」
「どのような」
「加世や珠光へ会えぬ!」
「耐えてくだされ」
「そなた、自分が終わったから楽しんでおらぬか」
「まさか」
少し楽しんでいる顔だった。
◇
それから数日。
惟種の腕にも疱ができた。
熱も出た。
宗運の時より、少し高かった。
「暑い」
寝台の上で惟種が言う。
「熱がございますゆえ」
「知っておる」
「では、お休みくださいませ」
「加世と珠光へ会いたい」
「なりませぬ」
「廊下の端と端ならば」
「なりませぬ」
「顔を見るだけだぞ」
「なりませぬ」
「玻璃越しなら」
「どこに、そのような大きな玻璃がございますか」
「作らせる」
「その前に、かさぶたが落ちまする」
「宗運」
「何でございましょう」
「やはり、そなたは口うるさいじじいだ」
「熱があっても、口はお元気でございますな」
「うるさい」
それでも、熱は三日ほどで下がった。
腕の疱も乾いた。
二十日余りが過ぎ。
かさぶたが自然に落ちた。
身体に異常はない。
宗運。
惟種。
二人とも、苗を受けた。
先に試した九人も、疱瘡を発していない。
まだ、完全とは言えない。
何年守られるのか。
誰にでも効くのか。
子どもへ入れるなら、何歳がよいのか。
年寄りは。
妊婦は。
重い病を持つ者は。
調べることは、まだ山ほどある。
それでも。
ようやく、ここまで来た。
「朝廷へ書状を出す」
惟種が言った。
「まず、陛下へ研究の結果をお伝えする」
「はい」
宗運が頷く。
「京の医師にも見せる。志願する者へ苗を入れ、同じように記録を取る」
「効果が確かであると認められれば」
「その時、改めて陛下へお勧めする」
惟種は小さな壺を見る。
疱瘡を防ぐものがある。
身体へ苗を入れれば、あの恐ろしい病から命を守れるかもしれない。
すぐには信じてもらえないだろう。
恐れる者もいる。
拒む者もいる。
神仏へ背く行いだと申す者もいる。
だが、朝廷が認めれば大きい。
陛下の御言葉があれば。
地方の守護も。
寺社も。
民も。
少しは受け入れやすくなる。
「医師を京へ送る」
惟種が言った。
「苗を受けた者にも、何人か同行してもらう」
「それだけで、信じていただけるでしょうか」
宗運が尋ねる。
「難しいだろうな」
「身体へ病の苗を入れるのでございます。医師の言葉だけで、公家衆が受け入れるとは思えませぬ」
「では、公方様から説明してもらおう」
「公方様も、詳しくは御存じございませぬ」
「書状で教える」
「若君」
「何だ」
「京へ参りましょう」
惟種は黙った。
二年余り。
何度も失敗した。
多くの者が、危険を承知で力を貸した。
自分も受けた。
宗運も受けた。
これで、ようやく陛下へ伝えられる。
これほど、めでたいことはない。
ただし。
「京には、行きたくないのだがなぁ……」
惟種は、深く息を吐いた。




