第二百二十二話 祝いの灯
天文二十一年(一五五二年)五月下旬。
阿蘇館の一室に、七人の男が集まっていた。
阿蘇惟豊。
甲斐宗運。
鍋島種茂。
島種清。
島津義久。
島津貴久。
そして、島津日新斎。
加世姫の懐妊を祝い、島津家から祝いの一行が訪れていた。
表向きは、そのための集まりである。
だが、室内に酒も祝いの膳もない。
部屋の外には、厳重な警護が置かれていた。
あるのは、九州の地図。
各地の国人の名を記した紙。
遠見方の中継所を示す印。
そして、宗運の前に置かれた分厚い書付だけだった。
「まことに、めでたきことでございますな」
日新斎が口を開いた。
「加世が身籠ったと聞いた時には、わしも驚いた」
貴久が答える。
「まだ月が浅い。無事に生まれてくれればよいが」
「それは、我らも同じ思いにございます」
惟豊が頷いた。
「惟種は、ずいぶんと慌てておるようだ」
「若君が?」
種茂が首を傾げる。
「産婆を三人置くと言い出したそうだ」
「三人」
「湯を沸かす者。布を用意する者。食事を作る者。それぞれ別に置くとな」
種清が笑った。
「若君らしゅうございます」
「加世を部屋から出さぬ勢いでな。珠光姫に止められたそうだ」
貴久は目を細めた。
「大切にされているならば、父としては何よりにございます」
「されど」
宗運が口を開いた。
室内の空気が変わった。
「御懐妊は、阿蘇家だけの慶事ではございませぬ」
宗運は地図へ目を落とす。
「九州へ、阿蘇家の治世が惟種様一代で終わらぬことを示す好機にございます」
「まだ男子とも決まっておらぬぞ」
惟豊が言った。
「無事に生まれるとも限らぬ」
「承知しておりまする。ゆえにこそ、懐妊そのものを使います」
宗運が書付を一枚取った。
「阿蘇神社にて安産祈願を行い、九州の諸家へ知らせを出します。公方様、一条家、西園寺家。阿蘇家と縁のある者たちへも」
「祝いの使者が増えるな」
「はい」
宗運は、次の書付を開いた。
「加世姫様の守りも、これまで以上に固めます」
食事を作る者は固定する。
水は、井戸から汲んだ時。
煮立てた時。
部屋へ運ぶ時。
その都度、別の者が改める。
阿蘇方が選んだ医師と産婆以外は近づけない。
贈り物は別の館で開き、中身を改める。
女房の出入りも、すべて記録する。
「加世姫様へ届く道は、すべて閉じまする」
「すべてか」
貴久が尋ねた。
「はい」
宗運は、一度だけ目を伏せた。
「そして、届く道があるように見せまする」
種茂の顔が動いた。
種清が腕を組む。
義久は黙ったまま、宗運の言葉を待った。
「祝いの使者が増えれば、阿蘇へ出入りする者も増えます」
宗運は地図の上へ札を置いた。
「薬を持ち込む商人」
一枚。
「贈り物を改める下役」
もう一枚。
「実家の借財に困っている女房」
さらに一枚。
「すべて、こちらで用意した偽りにございます」
「女房を買収できると流すのか」
種茂が尋ねる。
「はい。薬商人を通せば奥へ品を入れられる。贈り物へ何かを混ぜられる。そのような噂も流しまする」
種清が宗運を見る。
「加世姫様を、餌になさるおつもりですか」
「餌にはいたしませぬ」
宗運は即座に答えた。
「餌があると思わせるだけにございます」
日新斎の口元が上がった。
「なるほど」
低い声だった。
「御子を害したい者へ、道が開いていると思わせるのか」
「はい」
「その道の先で待つのは」
「我らの手の者にございます」
「くっくっく」
日新斎が笑った。
種茂が横目で見る。
種清も、わずかに身を引いた。
「悪い顔をなされますな、祖父上」
義久が言う。
「何を申す。めでたい話をしておるだけではないか」
「とても、そのようには見えませぬ」
「義久には、まだ分からぬか」
「分かるから申し上げております」
日新斎は、さらに楽しそうに笑った。
宗運は地図へ視線を戻した。
「阿蘇家の治世へ不満を抱く者は、まだおりまする」
「当然であろう」
惟豊が言った。
「九州を平らげて、まだ年月が浅い」
「不満を抱くだけならば、罪にはいたしませぬ」
「では、どこで分ける」
「実際に動いた者だけにございます」
金を渡した者。
毒を求めた者。
女房や薬商人へ接触した者。
加世姫と御子を害するため、書状を交わした者。
「それらの証を押さえます」
「捕らえる時は」
「遠見方の光を使いまする。各地で同時に動かねば、証を焼かれ、逃げられますゆえ」
宗運は、遠見方の中継所を指でなぞった。
「首謀者と、直接害を為そうとした者は処断いたします」
「家臣や領民は」
「連座させませぬ」
「私兵は残すのか」
「残しませぬ」
宗運が別の書付を開く。
「武器を集め、私兵を解体いたします。使える者は阿蘇軍へ組み込み、所領には阿蘇家の文官を入れまする」
「すでに、送り込む文官の名まであるのだな」
種茂が書付を覗き込んだ。
「許しを得た時、すぐに動けねば意味がございませぬ」
室内が静かになった。
惟豊が、九州の地図を見る。
阿蘇家へ従ってはいる。
だが、心から従っているとは限らない。
兵を持つ。
土地を持つ。
民を抱える。
命令に従うふりをしながら、機会を待つ者もいる。
「我らが消すのは、人ではございませぬ」
宗運が静かに言った。
「では、何を」
「国人が私兵と土地を抱え、己の法で民を治める仕組みにございます」
貴久が宗運を見る。
「娘と孫へ、本当に危険はないのだな」
「ございませぬ。本物の加世姫様へ通じる道は、一つも開けませぬ」
貴久は、しばらく宗運を見つめた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「ならばよい」
その笑みは、父親のものではなかった。
「娘と孫を害そうとする者を、島津が許す理由もない」
「くっくっく」
日新斎が、また笑う。
「貴久も、よい顔をするようになった」
「父上ほどではございませぬ」
「わしは、ただ孫を案じておるだけよ」
「曾孫でございましょう」
「細かいことはよい」
日新斎。
貴久。
宗運。
三人の口元に、よく似た笑みが浮かんでいた。
種茂と種清は、黙って顔を見合わせる。
ああはなるまい。
二人は、ほとんど同時にそう思った。
「お二人とも」
義久が静かに呼んだ。
「何でございましょう」
「顔に出ておりますぞ」
「何がでございますか」
「我らは、あのようにはなるまいと」
種清が咳払いをした。
「そのようなことは考えておりませぬ」
「左様でございますか」
義久は、それ以上何も言わなかった。
ただ、わずかに笑った。
惟豊だけは笑わなかった。
「宗運」
「はっ」
「なぜ、先にわしへ持ってきた」
宗運は答えなかった。
「惟種が、この策を嫌うと思ったか」
「……はい」
「断られるかもしれぬと」
「その思いが、なかったとは申しませぬ」
惟豊の目が鋭くなる。
「今の当主は、惟種だ」
「大殿」
「わしは後見ではある。だが、家督は譲った」
惟豊は静かに言った。
「惟種が嫌う策だからこそ、惟種に決めさせよ」
「しかし、加世姫様と御子のこととなれば、御心を乱されるやもしれませぬ」
「乱れるであろうな」
惟豊は頷いた。
「だが、あやつは考える。そこまで甘くはない」
宗運は黙った。
「宗運。惟種を主と仰ぐなら、惟種の判断を信じよ」
しばらくして。
宗運は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
その日の夕刻。
惟種は、同じ部屋へ呼ばれた。
地図。
書付。
国人たちの名。
七人の顔。
部屋へ入った瞬間、嫌な予感がした。
「何だ、この顔ぶれは」
「若君」
宗運が頭を下げる。
「御許しをいただきたき策がございます」
「よい話ではなさそうだな」
「良き話であるとは申しませぬ」
「そうか」
惟種は座った。
「申せ」
宗運は、一つも隠さず説明した。
加世の懐妊を広く知らせること。
その裏で、偽の隙を見せること。
実際に動いた者だけを捕らえること。
私兵を解き、所領へ文官を入れること。
すべてを聞き終えた惟種は、しばらく黙っていた。
「宗運」
「はっ」
「気に食わぬ」
「承知しておりまする」
「加世の懐妊を使うことも。餌があるように見せることもだ」
「はい」
「加世と子に危険はないのだな」
「ございませぬ。女房も、薬商人も、贈り物を改める者も、すべて我らの手の者にございます」
「毒が加世の館へ入ることは」
「絶対にございませぬ」
惟種は、書付を手に取った。
「不満を口にしただけでは捕らえぬ」
「はい」
「証を作るな」
宗運の目が、わずかに動いた。
「はっ」
「こちらから毒を勧めるな。犯意のない者を、そそのかして動かすことも許さぬ」
「承知いたしました」
「証は、すべてわしへ見せろ」
「はっ」
「家臣や領民は連座させるな」
「首謀者へ深く関わった者以外は、命を取りませぬ」
「私兵は解く」
「はい」
「土地には文官を入れる」
「御意にございます」
惟種は書付を置いた。
「宗運」
「はっ」
「これは、首を取るための策か」
「違いまする。阿蘇家の治世を進めるためにございます」
「違う」
宗運が顔を上げた。
「民を、今よりましに暮らさせるためだ」
「……はっ」
「国人を消した後、前より悪くなるなら、この策に意味はない」
「御意にございます」
惟種は目を閉じた。
暗殺は嫌いだ。
調略も好きではない。
敵の中へ入り込み。
騙し。
罠へ誘う。
そのようなやり方は、どうにも性に合わない。
金を動かす方がよい。
商いを奪う方がよい。
民を味方につける方がよい。
相手より豊かになり。
相手の領民が、阿蘇へ来たいと思うようにする。
そうやって勝つ方が、ずっとよい。
だが。
加世と子を、本当に害そうとする者がいるなら。
放置するわけにはいかない。
反乱が起きれば、巻き込まれるのは民である。
戦になれば、田畑が焼ける。
兵が死ぬ。
子が泣く。
その前に摘めるのなら。
「許す」
宗運が深く頭を下げた。
「はっ」
「ただし、加世と子へは、塵一つ近づけるな」
「承知いたしました」
惟種は宗運を見た。
「それと」
「何でございましょう」
「そなた、この話をわしへ黙って進めるつもりだったな」
部屋の空気が止まった。
宗運は答えなかった。
それが答えだった。
「若君が、御心を乱されることを案じました」
「乱れるぞ」
「はい」
「だが、わしが嫌うことと、判断できぬことは別だ」
宗運は何も言えなかった。
「わしが断ると思ったか」
「その可能性はあるものと」
「断るかもしれぬ」
「はい」
「それでも必要なら、わしを説き伏せろ」
宗運が顔を上げた。
「若君」
「宗運。わしは、その程度の話もできぬ男か」
「そのようなことは、決して」
「ならば話せ」
惟種の声は大きくなかった。
だが、怒鳴られるよりも重かった。
「わしは、そなたを信じておる」
「はい」
「そなたが必要だと考えた策なら、気に食わなくとも聞く」
「……はい」
「本当に駄目なら、わしが止める」
「はい」
「止めるかどうかは、聞いてから決める」
宗運は、深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「謝るだけでは足りぬ」
「次からは、必ずお話しいたします」
惟種は、しばらく宗運を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「ならばよい」
「御意にございます」
惟豊は、その様子を黙って見ていた。
日新斎が口元を上げる。
「よい主を持ちましたな、宗運殿」
「恐れ入りまする」
「そして、よい家臣を持ちましたな、惟種殿」
「うむ。ちと口うるさいがな」
惟種は宗運を見た。
「若君」
「何だ」
「今、その話をなされますか」
「空気を軽くしようと思ったのだ」
「必要ございませぬ」
「ほらみろ」
種茂が顔を伏せた。
種清も笑いを堪える。
貴久と日新斎は、声を上げて笑った。
◇
数日後。
加世姫の懐妊が、正式に触れられた。
阿蘇神社では、安産祈願が行われた。
各地の寺社でも、加世姫と御子の無事が祈られた。
九州の諸侯。
公方様。
一条家。
西園寺家。
阿蘇家と縁のある者たちへ、書状が走った。
領内では、困窮する妊婦や、幼子を持つ家へ米と薬が配られた。
民は喜んだ。
阿蘇家に子が生まれる。
惟種の治世は、一代で終わらない。
その話は、語り部や商人の口から、九州の隅々へ広がっていった。
そして。
別の噂も、密かに流れた。
祝いの使者が多すぎて、奥の警護が緩んでいる。
加世姫の女房に、金に困っている者がいる。
薬商人を通せば、奥へ品を届けられる。
贈り物のすべてを改める余裕はない。
噂を聞いても、何もしない者がいた。
鼻で笑う者もいた。
阿蘇家を嫌いながらも、手を出さぬ者もいた。
宗運は、その者たちを捕らえなかった。
だが。
女房へ渡す銀が動いた。
毒を求める書状が交わされた。
薬商人へ接触する者も現れた。
加世姫と、まだ生まれてもいない御子を害するために。
動いた者がいた。
その名も。
書状も。
金も。
毒も。
すべて宗運の手元へ集められた。
それから十日ほど。
各地では、阿蘇の兵が密かに配置された。
館の出入り口。
街道。
港。
山道。
逃げ道も。
証を隠す場所も。
すべて押さえた。
遠見方が伝えるのは、一つだけ。
始めよ。
その合図だけである。
阿蘇から光が上がった。
短く二度。
間を置き。
長く一度。
捕縛を始めよ。
光は、次の見張り台へ送られた。
城から城へ。
山から山へ。
港から館へ。
使者よりも速く。
馬よりも速く。
九州各地へ、同じ合図が伝わった。
兵が動いた。
道が塞がれた。
館が囲まれた。
証を焼く前に。
逃げ出す前に。
使者を走らせる前に。
加世姫と御子を害そうとした者たちは、ほぼ同時に捕らえられた。
証の明らかな首謀者は処断された。
命令を受け、実際に動いた者も裁かれた。
だが。
不満を口にしただけの者は、捕らえられなかった。
何も知らなかった家臣も、処刑されなかった。
領民へ罪が及ぶこともなかった。
私兵は解体された。
槍。
弓。
鉄砲。
武具は、阿蘇家へ差し出された。
使える者には、新たな役目が与えられた。
常備兵となる者。
城を守る者。
道を警邏する者。
土木に従事する者。
当主を失った土地へは、阿蘇家の文官が入った。
戸籍を改めた。
田畑を調べた。
税を定めた。
国人が勝手に課していた賦役をやめさせた。
兵が民から奪うことを禁じた。
領民から、直接訴えを聞いた。
没収した米の一部は、困窮した村へ返された。
領主が消えたことで、不安を抱いていた民も。
以前より税が軽くなり。
兵の乱暴がなくなり。
訴えを聞く役人が来ると。
少しずつ、阿蘇家の統治を受け入れていった。
加世姫の懐妊を祝うためにともされた灯は。
阿蘇家へ仇なす者を照らし出す灯ともなった。
国人の私兵が、一つずつ消えた。
その代わりに、阿蘇軍が置かれた。
国人の家臣が土地を治める仕組みが、一つずつ消えた。
その代わりに、阿蘇家の文官が置かれた。
九州が完全に治まったわけではない。
不満を抱く者もいる。
阿蘇家の隙を狙う者も、まだ残っている。
それでも。
阿蘇家による九州の統治は。
また少しだけ、前へ進んだ。




