第二百二十一話 父になる
天文二十一年(一五五二年) 五月下旬。
惟種は、加世姫の部屋へ呼ばれていた。
そこには、加世姫だけではない。
珠光姫。
加世姫に仕える女房たち。
そして、年嵩の産婆まで座っている。
皆、どこか落ち着かない顔をしていた。
惟種は部屋へ入り、首を傾げる。
「何事だ」
誰も、すぐには答えなかった。
加世姫が、少し恥ずかしそうに目を伏せる。
珠光姫は、穏やかに微笑んでいた。
「加世。具合でも悪いのか」
「いえ」
「ならば、なぜ産婆がおる」
惟種が産婆を見る。
産婆は深く頭を下げた。
「恐れながら、若君」
「うむ」
「加世姫様は、おそらく御懐妊にございます」
惟種は動きを止めた。
「懐妊」
「はい」
「子ができたということか」
産婆が、もう一度頭を下げる。
「まだ月が浅うございます。されど、月の障りもすでに二度なく、お身体の様子を拝見いたしましたところ、まず間違いないものと」
「そうかぁ……」
惟種の口から、間の抜けた声が漏れた。
女房たちが顔を見合わせる。
珠光姫が口元を隠した。
加世姫だけは、少し不安そうに惟種を見ている。
「殿」
「うん」
「お喜びでは、ございませぬか」
「いや」
惟種は慌てて首を横へ振った。
「嬉しい。嬉しいぞ」
「では、なぜそのようなお顔を」
「わしが、父になるのだなと思ってな」
「左様にございます」
「父か」
もう一度、口に出す。
どうにも実感がなかった。
九州探題になった。
国を治めた。
大軍を動かした。
大友と戦った。
三好と公方様の間にも入った。
それでも。
父になる。
その言葉の方が、よほど重く感じられた。
「若君」
産婆が声をかける。
「はい」
「何か、御心配でもございますか」
「心配はある」
惟種は加世姫を見る。
「熱はないか」
「ございませぬ」
「咳は」
「出ておりませぬ」
「吐き気は」
「朝方に、少し」
「食べられるものはあるか」
「酸いものが、欲しくなることがございます」
「そうか」
惟種は、すぐに女房たちへ顔を向けた。
「加世の部屋へ入る者は、必ず手を洗わせよ」
「手を、でございますか」
「うむ。惟種清玉も使わせよ」
女房たちが頷く。
「熱や咳のある者は近づけるな。井戸水も、そのまま飲ませぬように。一度煮立ててから冷ませ」
「承知いたしました」
「食事は、米ばかりにするな。麦も、豆も、魚も、卵も食べさせよ。青菜と海藻もだ」
産婆が目を丸くする。
「ずいぶんと、お詳しいのでございますな」
「少し聞いたことがあるだけだ」
惟種は平然と答えた。
「食べられぬ時は、無理に食べさせるな。少しずつ、回数を分ければよい」
「はい」
「生ものは避けよ。魚も肉も、よく火を通すこと。部屋も閉めきるな。寒くない日は風を入れよ」
惟種は室内を見回す。
「廊下で転んでは困るな」
「殿」
加世姫が呼ぶ。
「何だ」
「私は病人ではございませぬ」
「分かっておる」
「このままでは、部屋から出していただけなくなりそうです」
「そこまでは言っておらぬ」
「先ほどから、出歩くなとお顔に書いてございます」
「書いておらぬ」
「書いてございます」
珠光姫が笑った。
「殿は、加世姫様よりも慌てておられるように見えます」
「わしは慌てておらぬ」
「左様でございますか」
「うむ」
惟種は力強く頷いた。
「ただ、無事に産んでもらわねば困る」
その言葉に、加世姫が目を細めた。
「私ではなく、御子が大切なのでございますか」
「両方だ」
惟種は即座に答えた。
「子が無事でも、加世に何かあれば意味がない。加世が無事でも、この子を失えば、わしも加世も悲しむ」
少し言葉を切る。
「二人とも無事でなければ、わしは納得せぬ」
加世姫は何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます」
「礼を言われることではない」
「いいえ」
加世姫は顔を上げた。
「嬉しゅうございます」
惟種は少し照れくさくなり、産婆へ顔を向けた。
「いつ頃、生まれる」
「まだ、はっきりとは申せませぬが」
産婆は指を折って数える。
「順調であれば、霜月の末から師走にかけてかと」
「年の暮れか」
「左様にございます」
あと半年ほど。
長いようで、短い。
その間に、準備すべきことはいくらでもある。
産婆。
清潔な部屋。
湯。
布。
食事。
薬。
出血した時の備え。
惟種の頭の中で、必要なものが次々と浮かび始めた。
「加世の近くへ置く産婆は、一人では足りぬ」
「殿」
「二人。いや、三人ほど用意するか」
「殿」
「湯を沸かす者も必要だな。清潔な布も多く作らせよう。冬なら部屋を暖めるものも」
「殿」
加世姫の声が、少し強くなった。
惟種は口を閉じる。
「まだ、半年ほどございます」
「半年しかない」
「半年もございます」
「だが、すぐだぞ」
「まずは、お心を落ち着けてくださいませ」
「落ち着いておる」
珠光姫と女房たちが、とうとう笑い始めた。
惟種は不満そうに周囲を見る。
「なぜ笑う」
「皆、殿が嬉しそうなのでございます」
珠光姫が答えた。
「そう見えるか」
「はい」
自分では、心配しているだけのつもりだった。
だが。
嬉しくないはずがない。
惟種は、加世姫の腹へ目を向けた。
まだ、何も変わってはいない。
見た目では分からない。
本当に子がいるのか。
今にも実感が消えてしまいそうだった。
「触れてもよいか」
惟種が尋ねる。
加世姫は少し驚いた後、穏やかに頷いた。
「はい」
惟種は、そっと手を伸ばした。
着物の上から、加世姫の腹へ触れる。
当然、何も動かない。
音も聞こえない。
「まだ、分からぬな」
「まだ早うございます」
「そうか」
惟種は手を置いたまま、考えた。
この時代なら、珍しいことではない。
加世の年なら、母になることを奇異に思う者はいない。
周囲も、ただめでたいこととして受け止めている。
だが。
わしは、数えで十三だぞ。
前世なら。
まだ学校へ通っている歳である。
父親どころか。
一人で生きることさえ許されぬような年頃だった。
早い。
どう考えても早い。
それでも。
この子にとって、自分が父であることは変わらない。
前世の歳など、何の言い訳にもならない。
惟種は、加世姫の腹を見つめた。
守らなければならない。
加世も。
この子も。
阿蘇も。
この子が生きていく国も。
今より少しでも、安全に。
今より少しでも、豊かに。
飢えず。
戦に怯えず。
病で簡単に命を落とさぬ国にする。
九州探題としてではない。
阿蘇の若君としてでもない。
一人の父として。
「無事に生まれてこい」
惟種は、小さく呟いた。
加世姫が、惟種を見る。
「殿」
「父として、できることはすべてする」
惟種は加世姫へ向き直った。
「だから、加世も無理はするな」
「はい」
「具合が悪ければ、すぐに言え」
「はい」
「わしに遠慮するな」
「はい」
「食べたいものがあれば」
「殿」
「何だ」
「分かりました」
加世姫は笑った。
「殿が、立派な父上になられることも」
「まだ、なっておらぬ」
「もう、なり始めておられます」
惟種は返す言葉を失った。
数え十三。
早い。
明らかに早い。
だが、早いか遅いかを考えても仕方がない。
もう、自分は父になるのだ。
惟種は、加世姫の腹へ置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
その小さな命を守る。
その覚悟だけは。
誰よりも早く、決めておこうと思った。




