表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
220/237

第二百二十一話 父になる

 天文二十一年(一五五二年) 五月下旬。


 惟種は、加世姫の部屋へ呼ばれていた。


 そこには、加世姫だけではない。


 珠光姫。


 加世姫に仕える女房たち。


 そして、年嵩の産婆まで座っている。


 皆、どこか落ち着かない顔をしていた。


 惟種は部屋へ入り、首を傾げる。


「何事だ」


 誰も、すぐには答えなかった。


 加世姫が、少し恥ずかしそうに目を伏せる。


 珠光姫は、穏やかに微笑んでいた。


「加世。具合でも悪いのか」


「いえ」


「ならば、なぜ産婆がおる」


 惟種が産婆を見る。


 産婆は深く頭を下げた。


「恐れながら、若君」


「うむ」


「加世姫様は、おそらく御懐妊にございます」


 惟種は動きを止めた。


「懐妊」


「はい」


「子ができたということか」


 産婆が、もう一度頭を下げる。


「まだ月が浅うございます。されど、月の障りもすでに二度なく、お身体の様子を拝見いたしましたところ、まず間違いないものと」


「そうかぁ……」


 惟種の口から、間の抜けた声が漏れた。


 女房たちが顔を見合わせる。


 珠光姫が口元を隠した。


 加世姫だけは、少し不安そうに惟種を見ている。


「殿」


「うん」


「お喜びでは、ございませぬか」


「いや」


 惟種は慌てて首を横へ振った。


「嬉しい。嬉しいぞ」


「では、なぜそのようなお顔を」


「わしが、父になるのだなと思ってな」


「左様にございます」


「父か」


 もう一度、口に出す。


 どうにも実感がなかった。


 九州探題になった。


 国を治めた。


 大軍を動かした。


 大友と戦った。


 三好と公方様の間にも入った。


 それでも。


 父になる。


 その言葉の方が、よほど重く感じられた。


「若君」


 産婆が声をかける。


「はい」


「何か、御心配でもございますか」


「心配はある」


 惟種は加世姫を見る。


「熱はないか」


「ございませぬ」


「咳は」


「出ておりませぬ」


「吐き気は」


「朝方に、少し」


「食べられるものはあるか」


「酸いものが、欲しくなることがございます」


「そうか」


 惟種は、すぐに女房たちへ顔を向けた。


「加世の部屋へ入る者は、必ず手を洗わせよ」


「手を、でございますか」


「うむ。惟種清玉も使わせよ」


 女房たちが頷く。


「熱や咳のある者は近づけるな。井戸水も、そのまま飲ませぬように。一度煮立ててから冷ませ」


「承知いたしました」


「食事は、米ばかりにするな。麦も、豆も、魚も、卵も食べさせよ。青菜と海藻もだ」


 産婆が目を丸くする。


「ずいぶんと、お詳しいのでございますな」


「少し聞いたことがあるだけだ」


 惟種は平然と答えた。


「食べられぬ時は、無理に食べさせるな。少しずつ、回数を分ければよい」


「はい」


「生ものは避けよ。魚も肉も、よく火を通すこと。部屋も閉めきるな。寒くない日は風を入れよ」


 惟種は室内を見回す。


「廊下で転んでは困るな」


「殿」


 加世姫が呼ぶ。


「何だ」


「私は病人ではございませぬ」


「分かっておる」


「このままでは、部屋から出していただけなくなりそうです」


「そこまでは言っておらぬ」


「先ほどから、出歩くなとお顔に書いてございます」


「書いておらぬ」


「書いてございます」


 珠光姫が笑った。


「殿は、加世姫様よりも慌てておられるように見えます」


「わしは慌てておらぬ」


「左様でございますか」


「うむ」


 惟種は力強く頷いた。


「ただ、無事に産んでもらわねば困る」


 その言葉に、加世姫が目を細めた。


「私ではなく、御子が大切なのでございますか」


「両方だ」


 惟種は即座に答えた。


「子が無事でも、加世に何かあれば意味がない。加世が無事でも、この子を失えば、わしも加世も悲しむ」


 少し言葉を切る。


「二人とも無事でなければ、わしは納得せぬ」


 加世姫は何も言わなかった。


 ただ、嬉しそうに頭を下げる。


「ありがたき幸せにございます」


「礼を言われることではない」


「いいえ」


 加世姫は顔を上げた。


「嬉しゅうございます」


 惟種は少し照れくさくなり、産婆へ顔を向けた。


「いつ頃、生まれる」


「まだ、はっきりとは申せませぬが」


 産婆は指を折って数える。


「順調であれば、霜月の末から師走にかけてかと」


「年の暮れか」


「左様にございます」


 あと半年ほど。


 長いようで、短い。


 その間に、準備すべきことはいくらでもある。


 産婆。


 清潔な部屋。

 湯。

 布。

 食事。

 薬。

 出血した時の備え。


 惟種の頭の中で、必要なものが次々と浮かび始めた。


「加世の近くへ置く産婆は、一人では足りぬ」


「殿」


「二人。いや、三人ほど用意するか」


「殿」


「湯を沸かす者も必要だな。清潔な布も多く作らせよう。冬なら部屋を暖めるものも」


「殿」


 加世姫の声が、少し強くなった。


 惟種は口を閉じる。


「まだ、半年ほどございます」


「半年しかない」


「半年もございます」


「だが、すぐだぞ」


「まずは、お心を落ち着けてくださいませ」


「落ち着いておる」


 珠光姫と女房たちが、とうとう笑い始めた。


 惟種は不満そうに周囲を見る。


「なぜ笑う」


「皆、殿が嬉しそうなのでございます」


 珠光姫が答えた。


「そう見えるか」


「はい」


 自分では、心配しているだけのつもりだった。


 だが。


 嬉しくないはずがない。


 惟種は、加世姫の腹へ目を向けた。


 まだ、何も変わってはいない。


 見た目では分からない。


 本当に子がいるのか。


 今にも実感が消えてしまいそうだった。


「触れてもよいか」


 惟種が尋ねる。


 加世姫は少し驚いた後、穏やかに頷いた。


「はい」


 惟種は、そっと手を伸ばした。


 着物の上から、加世姫の腹へ触れる。


 当然、何も動かない。


 音も聞こえない。


「まだ、分からぬな」


「まだ早うございます」


「そうか」


 惟種は手を置いたまま、考えた。


 この時代なら、珍しいことではない。


 加世の年なら、母になることを奇異に思う者はいない。


 周囲も、ただめでたいこととして受け止めている。


 だが。


 わしは、数えで十三だぞ。


 前世なら。


 まだ学校へ通っている歳である。


 父親どころか。


 一人で生きることさえ許されぬような年頃だった。


 早い。


 どう考えても早い。


 それでも。


 この子にとって、自分が父であることは変わらない。


 前世の歳など、何の言い訳にもならない。


 惟種は、加世姫の腹を見つめた。


 守らなければならない。


 加世も。

 この子も。

 阿蘇も。

 この子が生きていく国も。


 今より少しでも、安全に。

 今より少しでも、豊かに。


 飢えず。

 戦に怯えず。


 病で簡単に命を落とさぬ国にする。


 九州探題としてではない。

 阿蘇の若君としてでもない。


 一人の父として。


「無事に生まれてこい」


 惟種は、小さく呟いた。


 加世姫が、惟種を見る。


「殿」


「父として、できることはすべてする」


 惟種は加世姫へ向き直った。


「だから、加世も無理はするな」


「はい」


「具合が悪ければ、すぐに言え」


「はい」


「わしに遠慮するな」


「はい」


「食べたいものがあれば」


「殿」


「何だ」


「分かりました」


 加世姫は笑った。


「殿が、立派な父上になられることも」


「まだ、なっておらぬ」


「もう、なり始めておられます」


 惟種は返す言葉を失った。


 数え十三。


 早い。


 明らかに早い。


 だが、早いか遅いかを考えても仕方がない。


 もう、自分は父になるのだ。


 惟種は、加世姫の腹へ置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。


 その小さな命を守る。


 その覚悟だけは。


 誰よりも早く、決めておこうと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ