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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百二十話 口うるさいじじい

 天文二十一年(一五五二年)五月


 その日は、珍しく何の予定もなかった。


 評定もない。

 客も来ない。

 急ぎの書状も、宗運からの呼び出しもない。


 惟種は朝から、加世姫と珠光姫とともに過ごしていた。


 庭では、初夏の風が木々を揺らしている。


 茶は温かい。

 菓子もある。

 何とも穏やかな日であった。


「このような日も、たまにはよいものだな」


 惟種は茶をすすった。


「たまにではなく、もう少しお休みになられてもよろしいのですよ」


 加世姫が微笑む。


「それができれば苦労はせぬ」


「宗運様へ、そう申し上げればよろしいのでは」


 珠光姫が静かに言った。


 惟種は首を横へ振る。


「無理だ。休みたいと言えば、休みの日にしかできぬ仕事を持ってくる」


「宗運様なら、なさりそうでございますね」


 加世姫が口元を隠す。


「そうであろう」


 惟種は大きく頷いた。


 今日は、その宗運も来ていない。


 完璧な休みである。


 そう思った時だった。


「若君! お暇にございますか!」


 大きな声とともに、障子が開いた。


 万満丸が飛び込んでくる。


「万満丸様、お待ちくだされ!」


 その後ろから、又六郎が入ってきた。


 まだ若いが、日頃から礼儀正しく、万満丸たちの面倒もよく見ていた。


 そして、その後ろには。


「わしも来たぞ!」


 又七郎までいた。


 又六郎よりもずっと幼く、万満丸と同じく遊びたい盛りである。


 又六郎は部屋の中を見回した。


 惟種。

 加世姫。

 珠光姫。

 三人が揃っている。


 又六郎の顔が青くなった。


「申し訳ございませぬ!」


 その場に膝をつく。


「すぐにお二人を連れて戻りまする」


「なぜだ」


「若君のお休みを邪魔してはなりませぬゆえ」


「暇かと聞かれたぞ」


「聞いてはなりませぬと申したのですが」


 又六郎が万満丸を見る。


 万満丸は、まったく悪びれていなかった。


「暇でございますか?」


「暇だ」


「では、遊んでくだされ!」


「よかろう!」


 惟種は笑った。


「元気がよろしい!」


「若君……」


 又六郎が困った顔をする。


 そこへ、廊下から足音が近づいてきた。


「何事にございますか」


 種茂が顔を出した。


 騒ぎを聞きつけたらしい。


「おお、種茂。よいところへ来た」


「何が、よいところなのでございますか」


「遊ぶぞ」


「は?」


 種茂の目が細くなった。


 最近、宗運に似てきた目である。


「私は、騒ぎが起きたものと思って参ったのですが」


「騒ぎではない。万満丸たちが暇だと言うのでな」


「それで、私も遊ぶのでございますか」


「うむ」


「なぜでございましょう」


「人が多い方が楽しい」


「そのような理由で」


 種茂は何か言いかけた。


 だが、万満丸と又七郎が期待に満ちた目で見ている。


 種茂は小さく息を吐いた。


「何をなさるおつもりにございますか」


「それを今から考える」


「まだ決めておられなかったのですか」


「うむ」


 惟種は腕を組んだ。


 子どもたちと遊ぶ。


 何をすればよい。


 鬼ごっこは疲れる。


 剣術は休みにならない。


 馬に乗れば、護衛が増える。


 釣りは準備に時間がかかる。


「何か、面白いものは……」


 惟種は庭の向こうを見た。


 その時、ふと思い出した。


「あ」


「いかがなさいましたか」


 加世姫が尋ねる。


「阿蘇筒があった」


「阿蘇筒?」


 万満丸が首を傾げる。


「遠くのものを、近くに見せる筒だ」


「そのようなものがあるのですか!」


「あるぞ」


 惟種は立ち上がった。


「職人たちに作らせていたのを、すっかり忘れておった」


「また、お忘れになっていたのですか」


 種茂が言う。


「忘れていたのではない。後で使おうと思っていたのだ」


「それを、世間では忘れていたと申しまする」


「細かいことはよい」


 惟種は人を呼び、蔵から阿蘇筒を運ばせた。


 細長い木の筒である。


 中には、何度も磨かせた玻璃がはめ込まれている。


 職人たちが失敗を重ね、ようやく形になったものだった。


 出来のよいものは、全部で三本。


 遠くの山肌はもちろん。


 数町離れた人の動きも、かなりはっきりと見えた。


 視野は狭い。


 筒を少し動かすだけで、見ていたものを失う。


 端の方は歪んで見える。


 それでも、この時代の道具としては、異様なほど遠くが見えた。


 万満丸が筒を覗き込む。


「近い!」


 大声を上げた。


「木が近くにございます!」


「わしにも見せろ!」


 又七郎が万満丸の袖を引く。


「待て。今、見ている」


「わしも見たい!」


「順番だ」


「今がよい!」


 二人が筒を奪い合い始めた。


 又六郎が慌てて止める。


「お二人とも! 壊してはなりませぬ!」


 惟種は、その様子を笑って見ていた。


 そして、阿蘇筒の横に置かれた箱へ目を向ける。


 箱の中には、玻璃で囲まれた灯火が入っていた。


 油皿。

 太い芯。

 後ろには、よく磨いた銅板。

 前には、光を遮るための小さな板が付いている。


 板を開けば、光が見える。


 閉じれば、消える。


 火そのものは消えない。


 玻璃の上には雨覆いがあり、下には空気を入れるための細い穴が開けられている。


 風の入り口は横へ曲げられ、雨が吹き込みにくい形にしてあった。


 多少の風雨であれば、火は消えない。


 曇った日でも、銅板へ光を集めれば遠くから見える。


 激しい雨や霧までは無理であろう。


 だが、晴れの日だけに使える灯ではなかった。


「そうだ」


 惟種は手を叩いた。


「これで、間者ごっこをしよう」


「間者ごっこ?」


 加世姫が聞き返す。


「遠くへ離れて、光で話をするのだ」


「光で、話すのでございますか」


 珠光姫が玻璃灯を見る。


「うむ。光を見せたり、隠したりする」


「それだけで、言葉が伝わるのでございますか」


「この表を使う」


 惟種は紙を一枚取り出させた。


 仮名を縦横に並べた表である。


 武田で使われていたといわれている暗号を、少しだけ変えたものだった。


 ほとんど、そのままとも言う。


「これは何と申すものでございますか」


 種茂が尋ねる。


「惟種暗号文だ」


「若君がお考えになったのでございますか」


「もちろんだ」


「本当にございますか」


「細かいことはよい」


 惟種は話を進めた。


 最初の明滅で、縦の位置を示す。


 少し間を置く。


 次の明滅で、横の位置を示す。


 長く板を閉じれば、一文字が終わる。


 それを繰り返せば、離れた場所へ文を送ることができる。


「面白そうにございます!」


 万満丸が声を上げた。


「やるぞ!」


 又七郎も手を上げる。


「では、二つに分かれる」


 惟種は、庭の先にある小高い場所を指した。


「種茂、珠光姫、万満丸は向こうへ行け」


「私もでございますか」


 種茂が聞き返す。


「灯を動かす者が必要だ」


「若君がなさればよろしいのでは」


「わしは、こちらから文を送る」


「それは、若君が遊びたいだけでは」


「そうだぞ」


 種茂は諦めた。


「私は、こちらに残るのでございますか」


 又六郎が尋ねる。


「うむ。暗号を読む役だ」


「承知いたしました」


「わしは?」


 又七郎が自分を指す。


「阿蘇筒を見る役だ」


「分かった!」


 又七郎は喜んで筒を抱えた。


 日が少し傾くのを待ち、二組は離れた。


 屋敷に残ったのは、惟種、加世姫、又六郎、又七郎。


 小高い場所へ向かったのは、種茂、珠光姫、万満丸である。


 遠くで、珠光姫たちが灯を用意する。


 惟種が阿蘇筒を覗いた。


「見えるぞ」


「本当でございますか」


 加世姫も覗く。


「あら」


 遠くにいる珠光姫の顔まで見えた。


 珠光姫は、こちらへ向かって手を振っている。


「珠光姫様が見えます」


「阿蘇筒はすごいであろう」


「なぜ、今までお使いにならなかったのですか」


「忘れておった」


「やはり、忘れておられたのですね」


 惟種は聞こえなかったことにした。


「始めるぞ」


 玻璃灯へ火を入れる。


 惟種が板を開いた。


 閉じる。


 また開く。


 又六郎が表を見ながら、回数を数える。


「見えるか、と送るのでございますね」


「そうだ」


 しばらくすると、遠くの光が動いた。


 短く光る。


 消える。


 また光る。


 又六郎が表を追う。


「よく見える、とございます」


「成功だ!」


 惟種が笑った。


 又七郎も跳ねる。


「話せたぞ!」


 加世姫も楽しそうに微笑んでいた。


「では、次だ」


 惟種は板へ手をかけた。


「何と送られるのですか」


 又六郎が尋ねる。


「宗運は口うるさいじじい」


 又六郎の動きが止まった。


「若君」


「何だ」


「それを、お送りになるのでございますか」


「うむ」


「おやめになられた方が」


「遊びだぞ」


 惟種は気にせず、板を動かした。


 又六郎は青い顔で回数を数える。


 遠くでは、珠光姫が表を見ていた。


 途中で顔を伏せる。


 肩が震えている。


 種茂は惟種暗号文を覗き込み。


 固まった。


 万満丸だけが楽しそうに、種茂の袖を引いている。


 しばらくして、返事が来た。


 又六郎が読み上げる。


「そのようなことを申してはなりませぬ」


「うむ」


「されど、そうかもしれませぬ」


 惟種が吹き出した。


 加世姫も口元を押さえる。


 又六郎は笑ってよいのか分からず、必死に顔を伏せていた。


「種茂も分かっておるではないか!」


「宗運は爺なのか?」


 又七郎が尋ねる。


「爺だな」


「若君!」


 又六郎が止める。


「次だ」


 惟種は、すっかり調子に乗っていた。


「日新斎はつるっぱげ」


 又六郎が、今度こそ目を見開いた。


「祖父上のことでございますか!」


「ほかに誰がおる」


「おりませぬが!」


「では、送るぞ」


「お待ちくだされ!」


 惟種は待たなかった。


 光が明滅する。


 遠くで珠光姫が解読し、顔を伏せた。


 種茂は空を見上げた。


 万満丸は腹を抱えて笑っている。


 又七郎も、意味を理解したらしい。


「祖父上は、つるっぱげだ!」


「又七郎!」


 又六郎が弟の口を塞いだ。


「次は貴久殿だな」


「父上まで!」


「貴久は、なんかこわい」


 又六郎は何か言おうとした。


 だが、口を閉じた。


「何だ」


「何でもございませぬ」


「怖いのか」


「……怒っておられなくとも、少し」


「そうであろう!」


 惟種は喜んで文を送った。


 返ってきた答えは短かった。


「それは、少し分かりまする」


 又六郎が読み上げる。


「誰だ。今の文を考えたのは」


 遠くを見る。


 珠光姫。

 種茂。

 万満丸。


 三人とも笑っている。


「皆だな」


 加世姫が楽しそうに言った。


「次は、父上だ」


 惟種が腕を組む。


「大殿にございますか」


 又六郎が尋ねる。


「うむ」


「何と送られますか」


「父上は……」


 惟種は考えた。


 父、惟豊。


 厳しいところはある。


 だが、宗運ほど口うるさくはない。


 頭も禿げてはいない。


「父上は、すぐ隠居したがる」


 加世姫が、とうとう声を上げて笑った。


「それは、悪口なのでございますか」


「わしにとっては、悪口だ」


 光を送る。


 遠くで珠光姫が表を読む。


 種茂が大きく頷いた。


 万満丸も何度も頷いている。


 返事が来た。


「それは皆が知っておりまする」


 惟種たちは、また大笑いした。


 すると、今度は遠くの方から、頼んでもいない文が送られてきた。


「何だ」


 又六郎が表を追う。


 一文字ずつ、声に出す。


「惟種は」


「うむ」


「すぐ」


「何だ」


「面倒事を増やす」


 笑い声が止まった。


「誰だ!」


 惟種は阿蘇筒を覗いた。


 種茂が灯の板を動かしている。


 珠光姫は顔を伏せて笑っている。


 万満丸は種茂の横で飛び跳ねていた。


「種茂だな!」


「間違ってはおりませぬね」


 加世姫が静かに言った。


「加世まで!」


「若君は、面白いものを次々にお作りになりますから」


「面白いものだぞ」


「それが、後から大きな仕事になるのでございます」


「今日のこれは、ただの遊びだ」


「そうでございましょうか」


 加世姫は、玻璃灯と阿蘇筒を見た。


 惟種も見る。


 遠くの光が、また明滅している。


 離れた場所にいる者と。


 使者も走らせず。


 声も上げず。


 文を交わしている。


「遊びであろう」


 惟種は言い切った。


「光を見せたり、隠したりしているだけだぞ」


「若君」


 背後から声がした。


 全員の動きが止まった。


 惟種は、ゆっくり振り返る。


 宗運が立っていた。


「何だ、宗運か」


「何だ、ではございませぬ」


 宗運の後ろには、屋敷の警護をする者が数人いる。


 遠くで怪しげな光が明滅している。


 間者の合図ではないか。


 そう報告を受けて来たらしい。


 宗運は、玻璃灯を見る。


 阿蘇筒を見る。


 惟種暗号文を見る。


 そして、紙に書き留められた文へ目を落とした。


 宗運は黙った。


 長い沈黙だった。


「若君」


「何だ」


「これは、何でございましょう」


「光を使って、遠くの者と話しておった」


「遠くの者と」


「うむ」


「使者も、早馬も使わずに」


「そうだ」


「どの程度、離れておりますか」


「あの丘だ」


 惟種が指差す。


 宗運は阿蘇筒を手に取った。


 覗き込む。


 少し筒を動かす。


 遠くにいる種茂たちを見つけたらしい。


 宗運の目が細くなった。


「この筒で、さらに遠くの光も見えるのでございますな」


「見通せる場所であればな」


「多少の雨でも、火は消えませぬか」


「玻璃で囲ってある。雨覆いも付けた。激しい雨や霧は無理だが、多少の雨風なら使えるぞ」


「曇った日にも」


「晴れた日よりは見えにくいが、後ろの銅板で光を集めればな」


「昼も夜も」


「昼は曇りや薄暗い時なら灯を使える。晴れていれば、磨いた銅板で日の光を返した方が早い」


 宗運は、しばらく玻璃灯を見た。


「間へ同じものを置けば、さらに先へ送れますな」


「そうなるな」


「城から城へ」


「できるであろうな」


「港から館へ」


「できるな」


「見張り台から本陣へ」


「できるぞ」


「船と陸の間でも」


「船が大きく揺れなければ、簡単な合図くらいはできると思う」


 宗運は、ゆっくりと阿蘇筒を置いた。


「若君」


「何だ」


「なぜ、そのような重大なものを、遊びに使っておられるのです」


「重大か?」


 宗運の眉が動いた。


「光をちかちかさせておるだけだぞ」


「その光で、文を送っておられるのでしょう!」


「そうだが」


「早馬で半日かかる知らせを、わずかな時で送れるのでございますぞ!」


「中継すればな」


「城と城をつなげば、一日の知らせが半刻にもならぬやもしれませぬ!」


「便利そうだな」


「便利そう、ではございませぬ!」


 宗運の声が大きくなった。


「敵兵が現れた!」


 突然の声に、又七郎が肩を震わせた。


「一揆が起きた!」


 宗運は続ける。


「敵船が港へ向かっている! 堤が切れた! 火の手が上がった! 文官が襲われた!」


「宗運」


「それらの知らせを、その日のうちに阿蘇へ届けられるのでございます!」


「うむ」


「阿蘇家の目と耳が、これまでとは比べものにならぬほど遠くまで届くのです!」


「そうか」


「そのような顔で答えられますな!」


 加世姫は笑いを堪えていた。


 又六郎は背筋を伸ばしている。


 又七郎は、宗運を見上げていた。


 だが、宗運はまだ終わらなかった。


「しかも、この表は何でございますか」


「惟種暗号文だ」


「どこかの家もしくは間者のものではございませぬか」


「少し変えた」


「どこを変えられました」


「名を変えた」


「何も変わっておりませぬ!」


 宗運の声が、さらに大きくなった。


「いや、並びも少し」


「敵に知られているやもしれぬ暗号を使い、屋外で灯を明滅させ、子どもたちと悪口を送り合っておられたのでございますか!」


「言い方が悪いぞ」


「どこが違いまする!」


 違わなかった。


 惟種は、玻璃灯を見る。

 阿蘇筒を見る。

 暗号表を見る。

 遠くの丘を見る。


 確かに。


 これは、少し悪かったかもしれない。


「うむ」


 惟種は神妙に頷いた。


「正直、すまんかった」


 宗運の顔が、さらに険しくなった。


「すまんかったで済むことではございませぬ!」


「すいません……」


 惟種は素直に頭を下げた。


 加世姫が顔を伏せる。


 笑っているのだろう。


 又六郎も懸命に口を結んでいた。


「若君は、この合図を敵に見られた場合のことをお考えになりましたか」


「暗号を知らねば読めぬであろう」


「読む必要などございませぬ!」


「なぜだ」


「偽りの光を送ればよいのです!」


 惟種の顔から、少しだけ笑みが消えた。


「敵船ありと偽れば、水軍を動かせまする。反乱ありと送れば、常備兵を城から引き離せまする。援兵を求むと偽れば、兵を罠へ誘い込めまする」


「……なるほど」


「なるほど、ではございませぬ!」


「すいません……」


 惟種は、もう一度頭を下げた。


 今度は先ほどより深かった。


 宗運は大きく息を吸った。


 目を閉じる。


 ゆっくりと吐く。


 そして、後ろにいた警護の者たちへ振り返った。


「ここで見聞きしたことは、他言無用にございます」


「はっ」


「丘にいた者も、戻り次第こちらへ。誰が、どこまで仕組みを知ったか確かめまする」


「子どもたちもか」


 惟種が尋ねる。


「万満丸様と又七郎様は、すでに文を送っておられます」


「遊んでいただけだぞ」


「その遊びで国が動くと申し上げておりまする!」


「すまぬ」


 三度目の謝罪だった。


「阿蘇筒、玻璃灯、暗号表は、すべて回収いたしまする」


「わしのものだぞ」


「阿蘇家のものにございます」


「作らせたのは、わしだ」


「若君は、忘れておられました」


「それを言われると弱いな」


「今後、許しなく持ち出すことを禁じます」


「わしもか」


「若君は特に、でございます」


「なぜだ!」


「本日の有り様をご覧くだされ!」


 惟種は周囲を見た。


 万満丸。


 又六郎。


 又七郎。


 加世姫。


 遠くには、珠光姫と種茂。


 灯で送った悪口の数々。


「うむ」


 反論できなかった。


「さらに」


 宗運は暗号表を手に取った。


「この送り方では遅すぎまする」


「文は送れたぞ」


「宗運は口うるさいじじい、と送るだけで、どれほどかかりましたか」


「数えておらぬ」


「急報に、そのような時をかけてはおられませぬ」


 宗運は紙を裏返した。


「よく使う知らせは、一つの合図にまとめまする」


「一つの合図?」


「敵兵。敵船。一揆。火災。洪水。疫病。援兵。兵糧。異常なし」


 宗運は、次々に書きつけていく。


「受け取った。もう一度送れ。誤りである。至急。これらも必要にございます」


「もう使い方まで考えたのか」


「今、考えました」


「早いな」


「若君が何も考えずにお使いになるからです」


「すまぬ…」


 四度目だった。


「まず、急ぎの知らせを短い合図で送る」


 宗運は続ける。


「その後に、詳しい文をこの表で送る。仔細を書いた書状も、早馬か船で届けさせまする」


「二度手間ではないか」


「光だけで兵を動かしてはなりませぬ」


「偽りの合図があるからか」


「ようやく御理解いただけましたか」


「うむ」


「急報で警戒させる。別の中継所からも同じ知らせが来るか確かめる。重大な命令には、書状を用いる」


「それなら、偽りにも備えられるな」


「左様にございます」


 宗運は、また紙へ書き込む。


「暗号表も一つでは足りませぬ」


「三つか?」


「なぜ、三つだと思われました」


「何となくだ」


「少なくとも三つ。できれば、月ごとに変えまする」


「毎月か!」


「敵に奪われた場合へ備えます」


「作るのは誰だ」


 宗運が惟種を見る。


 種茂がいれば、おそらく同じように惟種を見ただろう。


「わしか」


「ほかに誰がおられますか」


「宗運が考えればよいではないか」


「若君のお遊びから始まったものでございます」


「……すまん」


 五度目だった。


 宗運は阿蘇筒を手に取る。


「これより、阿蘇遠見方を設けまする」


「そのような役所はないぞ」


「今、設けました」


「わしの休みの日にか」


「若君が、休みの日に作られましたゆえ」


「作ったのは前だぞ」


「では、なぜ今まで黙っておられたのです」


「はっはっは、忘れていた!」


「なお悪うございます!」


「すいません!」


 今度は声まで大きくなった。


「遠見方では、阿蘇筒と玻璃灯を管理いたしまする」


 宗運は指を折る。


「信号を送る者。受け取る者。記録する者。暗号を管理する者。灯や筒を修理する者も必要にございます」


「大げさではないか」


「城から城へ知らせを送るのでございましょう」


「そうだな」


「一人の間違いで、兵が動くのでございます」


「それもそうだな」


「雨の日にも使えるよう、玻璃灯の作りも改めまする」


「今のものでも、多少の雨なら使えるぞ」


「多少では足りませぬ」


「大雨では光そのものが見えぬ」


「それでも、雨覆いを深くする。水が入らぬよう継ぎ目を改める。風を入れながら、火が揺れすぎぬ工夫も必要にございます」


「なるほど」


「灯が曇れば見えませぬ。煤が玻璃へ付かぬ芯と油も試しまする」


「職人が泣くぞ」


「若君が始められたことでございます」


「すいません……」


 惟種は、何度目か分からぬ謝罪をした。


 その時。


「宗運は、本当に口うるさい爺だな」


 又七郎が言った。


 空気が止まった。


「又七郎!」


 又六郎が弟を抱き寄せる。


 宗運は、ゆっくりと又七郎を見る。


「誰から聞かれましたかな」


 又七郎は惟種を指差した。


「若君だ」


「裏切ったな!」


「本当のことだろう?」


「そういうことではない!」


 宗運は、紙へ目を戻した。


「宗運は口うるさいじじい」


 読み上げる。


 惟種は目を逸らした。


「日新斎殿はつるっぱげ」


 又六郎と又七郎も目を逸らす。


「貴久殿は、なんかこわい」


 加世姫が顔を伏せる。


「大殿は、すぐ隠居したがる」


 惟種は咳払いをした。


「遊びだぞ」


「左様にございますか」


「うむ」


「では、遊びの続きとまいりましょう」


 宗運が笑った。


 笑っている。


 だが、目は笑っていなかった。


「若君には、阿蘇筒の仕組みを書いていただきます」


「今日か?」


「今からにございます」


「今日は休みだぞ」


「続いて、玻璃の磨き方。灯火の造り。雨覆いの形。空気穴の位置。銅板の曲げ方」


「待て」


「光を送る間隔。文の始まりと終わりの合図。誤りを正す合図もお決めください」


「宗運」


「何でございましょう」


「少しは手加減してくれぬか」


「国家の目と耳となる道具を、悪口を送る遊びへ使われた方が、何を仰いますか」


「うむ。正直、すまんかった」


「先ほども聞きました!」


「ごめんって……」


 宗運は、もう一度深く息を吐いた。


「中継所を置く場所もお考えいただきます」


「宗運が決めればよいではないか」


「阿蘇筒で、どこまで見えるかを考えられるのは若君にございます」


「種茂にも手伝わせよう」


「無論にございます」


「わしだけではないのだな」


「若君が最も多うございます」


「なぜだ!」


「若君が、最も詳しいからにございます」


 そこへ、珠光姫たちが丘から戻ってきた。


 事情を聞いた種茂は、すぐに宗運の横へ座った。


「若君。まずは港と阿蘇館の間で試すのがよろしいかと」


「種茂まで!」


「山の上へ中継所を置けば、さらに遠くまで届きまする」


「裏切り者!」


「先ほど、私を面倒事へ巻き込まれましたので」


 種茂は涼しい顔で答えた。


「それに、急報用の合図は、数を少なくした方がよろしいでしょう」


「種茂」


「はい」


「もう宗運の側か」


「若君の側に立ちますと、仕事が増えますゆえ」


「宗運の側でも増えるぞ」


「若君を止める方が、まだ少なく済みまする」


 珠光姫は口元を押さえている。


 万満丸は、まだ遊び足りないらしい。


「また明日もいたしましょう!」


「駄目でございます」


 宗運が即座に答えた。


「今後、阿蘇筒、玻璃灯、惟種暗号文は、遠見方の許しなく持ち出してはなりませぬ」


「わしのものだぞ」


「阿蘇家の重要な軍用道具となりました」


「いつの間に」


「今にございます」


「わしが使うのも駄目か」


「特に駄目にございます」


「ひどくないか」


「本日の文を、もう一度読み上げましょうか」


「やめてくれ」


 その日の夕刻。


 加世姫と珠光姫は、万満丸たちと夕餉を囲んでいた。


 惟種だけはいなかった。


 別の部屋で、机へ向かっていた。


 目の前には、紙の山。


 横には、宗運。


 反対側には、種茂。


「次は、急報用の合図についてお書きくだされ」


「敵船は、短く二度。間を置いて、長く一度ではどうだ」


「一揆と見分けがつきますか」


「一揆は、短く三度」


「火災は」


「長く二度」


「受け取ったという合図は」


「短く一度、長く一度」


「再送は」


「宗運」


「何でございましょう」


「やはり、そなたは口うるさいじじいだ」


「聞こえておりまする」


「休みだったのだぞ」


「私も休みの予定でございました」


「うむ」


 惟種は素直に頷いた。


「正直、すまんかった」


 宗運の眉が動いた。


「謝れば終わると思っておられませぬか」


「わるかった、勘弁してくれ……」


「では、続きを」


「許してはくれぬのか」


「若君」


 宗運が、にこやかに笑った。


「日新斎殿はつるっぱげ、貴久殿はなんかこわい、大殿はすぐ隠居したがる」


「うむ」


「その三つにつきましても、後ほど詳しくお聞かせいただきまする」


「なぜだ!」


 休みの日だった。


 ただ、子どもたちと遊びたかっただけである。


 それなのに。


 阿蘇遠見方が設けられた。


 急報と詳報の二つに、知らせの送り方が分けられた。


 雨風に耐える玻璃灯の改良まで始まった。


 そして惟種は、その夜遅くまで。


 宗運に、みっちりとしごかれた。


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