第二百十九話 公方様であるかぎり
公方様の屋敷へ入ると、義藤はすぐに奥の間へ向かった。
惟種も、その後を追う。
宗運も続いた。
義藤が足を止めた。
「宗運」
「はっ」
「そなたは来ずともよい」
宗運は、深く頭を下げた。
「恐れながら、それはできませぬ」
「なぜだ」
「殿のお側を離れるわけにはまいりませぬゆえ」
「余の屋敷ぞ」
「阿蘇家が用意した、阿蘇家がお預かりしております屋敷にございます」
義藤の眉が動いた。
惟種は、そっと目を逸らした。
「余は、惟種と二人で話したいのだ」
「なりませぬ」
宗運は、即座に答えた。
義藤の顔が険しくなる。
「余を疑っておるのか」
「いいえ」
「ならば、なぜだ」
「以前、公方様と殿をお二人にいたしましたところ、殿は村上家と武田家の調停へ赴くこととなりました」
惟種は宗運を見た。
「それは、わしのせいではあるまい」
「公方様より頼まれ、殿がお引き受けになりました」
「公方様のせいでもあるまい」
「ゆえに、お二人を同席させることが危険なのでございます」
「なぜ、そうなる」
「前例がございますゆえ」
宗運は、静かに答えた。
惟種は何も言えなくなった。
確かに前例はあった。
義藤が口を開く。
「此度は、何も命じぬ」
「先ほどの御沙汰も、事前に伺っていたものとは異なりました」
「それは久秀が申すのを遅らせたからであろう」
「左様にございます」
「ならば、余のせいではない」
「存じておりまする」
「では、席を外せ」
「それはできませぬ」
義藤が宗運を睨んだ。
宗運は平然としている。
惟種は小さく息を吐いた。
「宗運」
「はっ」
「公方様が、二人で話したいと仰せだぞ」
「若君」
「何だ」
「越後を経て信濃まで赴かれたのは、どなたでございましたか」
「わしだな」
「その間、九州の政を預かったのは」
「宗運だな」
「では、私が同席するのがよろしいかと」
「うむ」
惟種は頷いた。
「その方がよいな」
「惟種!」
義藤が声を上げた。
「申し訳ございませぬ」
惟種は頭を下げる。
「宗運がここまで申すのであれば、諦めていただけませぬか」
「余は公方ぞ」
「存じておりまする」
「惟種は九州探題であろう」
「はい」
「ならば、この者に命じよ」
惟種は宗運を見た。
宗運も惟種を見る。
「宗運。席を外してはくれぬか」
「お断りいたしまする」
「だそうにございます」
「そなたは九州探題であろう!」
「なぜでございましょう。宗運には、あまり効かぬのでございます」
義藤はしばらく惟種を睨んでいた。
やがて、大きく息を吐く。
「もうよい」
「ありがたき幸せ」
「宗運も座れ」
「はっ」
三人は向かい合って座った。
茶が運ばれる。
女房たちが下がると、部屋には本当に三人だけとなった。
義藤は茶碗へ手を伸ばした。
だが、飲まない。
茶の表面を見つめたまま、口を開いた。
「惟種」
「はっ」
「先ほどのことだ」
やはり、それか。
惟種は姿勢を正した。
「ずいぶんと、怖い顔をしておったな」
「申し訳ございませぬ」
「謝れと言っているのではない」
義藤は顔を上げる。
「なぜ、あのように尋ねた」
「事前に松永殿より伺っていた話と、異なっておりましたゆえ」
「久秀の話を信じ、余を疑ったのか」
「いいえ」
惟種は、すぐに否定した。
「では、なぜだ」
「公方様御自身の御沙汰であるか、確かめたかったのでございます」
義藤の眉が寄る。
「余自身の沙汰ならば、従うつもりであったと申すか」
「はい」
「境目を、すべて河野へ与える沙汰であってもか」
惟種は、わずかに間を置いた。
「従いました」
「西園寺が納得せずとも」
「公方様の御沙汰であると、実充殿を説得いたしました」
「阿蘇の面目が傷ついてもか」
「それも含めて、公方様の御沙汰にございますれば」
義藤は黙った。
惟種も黙る。
宗運は、茶碗に手を触れようともしなかった。
「では」
しばらくして、義藤が言った。
「久秀が文を出さなければ、そなたはあのまま引いたのだな」
「はい」
「なぜだ」
惟種は少し考えた。
公方様だから。
それだけでは足りない。
幕府の命令だから。
それは違う。
惟種は幕府など、好きではなかった。
何も治められぬ。
兵も動かせぬ。
それでも権威を振りかざし、諸家の争いへ口だけを出す。
役に立たぬどころか、時に邪魔でしかない。
だが。
目の前の男は違った。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。
将軍の座など捨て、寺にでも入ればよい。
誰かにすべてを押しつければよい。
惟種なら、とっくにそうしている。
それでも義藤は、逃げない。
追われても戻る。
兵がなくとも立とうとする。
壊れかけた幕府を、必死に立て直そうとしている。
惟種には、その苦労が理解できた。
理解できるからこそ。
可哀想だとも思う。
同時に、好ましくも思う。
自分にはできぬことを、この男は続けている。
「公方様だからにございます」
惟種は答えた。
義藤の顔が、わずかに緩む。
だが、すぐにまた曇った。
「三好も、そう申す」
「は」
「長慶も久秀も、余を公方と呼ぶ」
義藤は茶碗を持ち上げた。
一口だけ飲む。
「余の前では頭を下げる。御沙汰にも従う。少なくとも、従っているようには見える」
茶碗が置かれた。
「だが、余の知らぬところで、物事が決まっておる」
惟種は答えなかった。
「今日とて、久秀が先にあの旧記を出しておれば、余が誤った沙汰を下すことはなかった」
「左様にございますな」
「そなたも、そう思うか」
「事実にございますれば」
義藤の口元が歪んだ。
「長慶は、余に従っておる」
「はい」
「従っておるのだ」
「左様にございますな」
「だが、少しばかり、己の考えで動きすぎる」
少しばかり。
惟種は、口には出さなかった。
宗運も何も言わない。
ただ、わずかに目を伏せた。
「久秀もだ」
義藤は続けた。
「余のためだと申す。三好家のためだと申す。天下の静謐のためだと申す」
「はい」
「だが、何が余のためなのかを、余より先に決めておる」
その声には、苛立ちがあった。
それ以上に。
不安があった。
「惟種」
「はっ」
「そなたも、同じなのか」
惟種は義藤を見る。
義藤も、惟種を見ていた。
先ほどまでの強い目ではない。
将軍が家臣を見定める目でもない。
ただ、確かめようとしていた。
自分には、まだ味方がいるのか。
目の前の男だけは、自分を裏切らぬのか。
それを。
「私は、三好殿とは異なりまする」
「何が違う」
「公方様より賜りました御役目は、できる限り果たしてまいりました」
「うむ」
「村上家と武田家の争いも、御言葉に従い、調停いたしました」
「そうだ」
「先の三好殿との争いにつきましても、微力ながら間に入らせていただきました」
「うむ」
「此度も、公方様の御沙汰に従い、兵を止めました」
義藤は、何度も頷いた。
「では」
少しだけ声が震えた。
「そなたは、余の忠臣であろう」
惟種は迷わなかった。
「公方様が公方様であるかぎり、私はあなたの忠臣でありましょう」
義藤の顔から、強張りが消えた。
「そうか」
「はい」
「余の忠臣か」
「公方様の忠臣にございます」
義藤は、ようやく笑った。
先ほどまでの不安が、少しずつ薄れていく。
惟種も穏やかに頭を下げた。
嘘は言っていない。
今の義藤であるかぎり。
苦しい立場から逃げず。
私欲のためではなく、将軍として立とうとし。
阿蘇家と惟種の義を、踏みにじらぬかぎり。
惟種は義藤の忠臣であり続ける。
だが。
義藤でなければ、従わない。
足利家に忠節を誓ったわけではない。
幕府に身も心も捧げたわけでもない。
目の前にいる、この男だから。
惟種は従っている。
義藤は、その違いに気づかなかった。
ただ一人。
宗運だけが、惟種の言葉の最初の一節を聞き逃さなかった。
公方様が、公方様であるかぎり。
それは忠節の誓いである。
同時に。
決して越えてはならぬ線を示す言葉でもあった。
宗運は黙って茶を飲んだ。
少し、胃が痛んだ。
「やはり、そなたは違うな」
義藤の声に、先ほどまでの弱さはなかった。
「三好とは違う」
「恐れ入りまする」
「幕臣たちとも違う」
「それは、何とも申し上げられませぬ」
「なぜだ」
「私は幕臣の方々を、よく存じませぬゆえ」
「そういうところだ」
義藤は笑った。
すっかり気を取り直したらしい。
惟種も少し安心した。
本当は、言いたいことがないわけではない。
幕府など、捨ててしまえばよい。
将軍も。
守護も。
国人も。
家々が勝手に兵を抱え、土地と民を奪い合う世など、根から終わらせればよい。
戸籍を作る。
税を一つにまとめる。
家々の兵を減らし、一つの軍へ組み込む。
文官を各地へ送り、法で治める。
生まれた家ではなく、働きによって役を与える。
古い慣わしに縛られぬ国を作る。
海の向こうから敵が来ても、決して奪われぬ国を。
遠い先にある日本へ。
少しでも近づける。
公方様も、一緒に。
そう言えたなら。
どれほどよいか。
だが、言えるはずがなかった。
それは義藤が、命を懸けて守ろうとしているものを、根から否定する言葉である。
幕府を捨てろとは。
義藤に、将軍であることを捨てろと言うのと同じだった。
この御方は、決して頷かぬ。
今はまだ。
言うべき時ではない。
「惟種」
「はっ」
義藤は声を落とした。
「幕府の内が、少し騒がしい」
惟種の意識が戻る。
「先ほどの件にございますか」
「それもある」
義藤は茶碗へ目を落とした。
「長慶は余に従っておる。だが、余の意をすべて聞いているわけではない」
「はい」
「細川もだ」
「細川殿が、いかがなさいましたか」
「氏綱ではない」
その一言で、惟種にも分かった。
「晴元殿にございますか」
「うむ」
義藤の顔から、再び笑みが消えた。
「晴元に心を残しておる者がいる」
「幕臣の中に」
「そうだ」
「確かなことにございますか」
「まだ、分からぬ」
義藤は指先で茶碗の縁をなぞった。
「だが、文が動いているという」
「どなたよりお聞きになりましたか」
「余が知った時には、長慶も久秀も知っておった」
惟種は黙った。
義藤が何を不満に思っているかは分かる。
将軍でありながら。
自らの幕府の内情を、三好より後に知らされた。
それが許せないのだ。
「長慶は、晴元に通じる者を疑っておる」
「証は」
「まだない」
「では、すぐに動かれぬ方がよろしいかと」
「分かっておる」
義藤は少し不満そうに言った。
「余とて、その程度は分かる」
「失礼いたしました」
「だが、長慶が勝手に動かぬとも限らぬ」
義藤は、惟種を見た。
「人を捕らえるかもしれぬ」
「幕臣を、三好殿が」
「疑わしき者を差し出せと、余に迫るやもしれぬ」
宗運の目がわずかに細くなった。
「公方様は、いかがなさるおつもりにございますか」
宗運が初めて口を開いた。
「証がなければ、渡さぬ」
義藤は即座に答えた。
「余の家臣だ。三好の疑いだけで、差し出すことなどできぬ」
その言葉に、惟種は小さく頷いた。
義藤は義藤である。
今のところは。
「もっとも」
義藤は胸を張った。
「余が長慶を抑えればよいだけのことだ」
「左様にございますな」
惟種は答えた。
義藤は満足そうに頷く。
だが。
少しして、その胸から力が抜けた。
「……もしもの時は」
義藤は言葉を切った。
「惟種」
「はっ」
「余を助けよ」
惟種は、義藤を見る。
義藤の目には、先ほどまでとは違う光があった。
不安は残っている。
それでも、惟種の言葉を得て、立ち向かおうとしている。
ならば。
「お呼びくだされ」
惟種は頭を下げた。
「できる限り、御力となりましょう」
「必ずだぞ」
「義と理に背かぬかぎり」
義藤の眉が動く。
「何だ、それは」
「公方様が、道を違えられるとは思っておりませぬ」
「当然だ」
義藤は、また胸を張った。
「余は公方であるぞ」
「左様にございますな」
「頼んだぞ」
義藤は笑った。
「余の忠臣よ」
惟種も笑い、深く頭を下げる。
「義藤様の臣にございますれば」
義藤は満足そうに頷いた。
惟種も嘘は言っていない。
二人の間に、亀裂はない。
今は。
宗運は、静かに茶を飲んだ。
また一つ。
公方様からの頼みが増えた。
胃の痛みも。
また少し、増した。




