第二百十八話 それが御沙汰にございますか
天文二十一年(一五五二年) 四月。
府内の町には、兵があふれていた。
槍を揃えた足軽。
具足を着けた常備兵。
鉄砲を担ぐ者。
荷車を引く者。
道を直す者。
その数は、決して少なくない。
だが、伊予へ渡るために集めた兵ではなかった。
本来は、治安を守るための兵である。
訓練を兼ねて村々を巡り、盗賊や野武士を追い、反乱や一揆を起こさせぬよう睨みを利かせる。
時には道を造り、堤を直し、川を浚う。
阿蘇の新しい政を、力で支えるための兵だった。
港に並ぶ船も同じである。
海運。
沿岸の警邏。
抜け荷の取り締まり。
海賊への備え。
どれも必要な役目だった。
それらを府内へ集めた。
旗を掲げた。
兵を整列させた。
大筒を積んだ大船も、見栄えのよい位置へ並べた。
公方様を迎えるため。
河野通宣へ見せるため。
そして、三好にも阿蘇の力を見せるためである。
数千の兵が、ぴたりと揃って槍を立てる。
太鼓が鳴る。
旗が風にはためく。
港では大船が舷を並べ、その船腹から大筒が覗いていた。
見えるところだけならば、圧巻の一言であった。
内情は、そうではない。
この兵を伊予へ送れば、村々の警邏が薄くなる。
土木は止まる。
各地へ送った文官を守る兵も減る。
海運も乱れる。
せっかく押さえている国人や寺社が、再び動きかねない。
見栄えのよい軍勢である。
だが、本当に動かしてはならぬ軍勢でもあった。
「見事ではないか!」
府内へ入った足利義藤は、声を弾ませた。
騎馬の上から兵列を眺め、満足そうに何度も頷いている。
「余を迎えるため、これほどまで整えたか!」
「はっ」
惟種は、深く頭を下げた。
間違いではない。
公方様を迎えるためでもある。
ただし、それだけではなかった。
義藤は、そんな惟種の内心など知らず、上機嫌だった。
「うむ。やはり府内はよいな」
すでに何度も訪れている。
阿蘇家が管理する己の屋敷もある。
義藤にとって府内は、もはや客として訪れるだけの土地ではなかった。
京の御所とは違う。
ここには三好の目も少ない。
余計なことを考えずに過ごせる。
半ば、自分の家だと思っている節さえあった。
その後ろには、三好長慶と松永久秀がいた。
長慶は、表情を崩していない。
整然と並ぶ兵。
港の大船。
荷駄。
兵糧を運ぶ車。
その一つ一つを、静かに見ていた。
久秀は兵の顔よりも、蔵と道と船着き場を見ていた。
どれほどの荷が動いているか。
どれほどの速さで兵糧を積めるか。
港から船を出すまで、何日必要か。
その目は、軍勢の裏側を測っていた。
河野通宣は、青ざめていた。
槍が並ぶたび。
大筒が目に入るたび。
府内で聞いた五万という数が、頭をよぎっているのだろう。
西園寺実充は、ただ感心していた。
「これほどとは……」
小さく呟き、何度も左右へ目を向けている。
西園寺家の兵とは、揃い方が違う。
武具も。
歩調も。
旗の数も。
何より、兵を養う後ろの力が違った。
惟種は、彼らの顔を一通り見た。
見せるべきものは、見せた。
あとは、話である。
◇
調停の場は、府内館の大広間に設けられた。
上座には公方様。
その下に三好長慶。
さらに一段下がって、松永久秀が控える。
阿蘇惟種、西園寺実充、河野通宣が向かい合う。
宗運、種茂、親英らも控えていた。
義藤は、機嫌よく広間を見回した。
「此度、余が直々に参ったからには、争いは収めてもらう」
自信に満ちた声だった。
惟種は頭を下げながら、内心で小さく息を吐いた。
公方様の御言葉に従うことを、欠片も疑っておられぬ。
事実、そのつもりではある。
そのために来ていただいた。
公方様が命じたという形があれば、阿蘇は拳を下ろせる。
河野も面目を失わずに退ける。
西園寺も、阿蘇が見捨てたとは思うまい。
皆にとって、必要な御沙汰だった。
だからこそ。
余計な者が、妙なことをしなければよいが。
惟種は顔に出さず、姿勢を正した。
「まず、西園寺。望みを申せ」
「はっ」
西園寺実充が両手をついた。
「我らが望みは、河野との即時停戦にございます」
実充は顔を上げた。
「さらに、此度奪われました城、村、田畑の返還。黒瀬の地につきましても、西園寺家へお預けいただきたく存じまする」
そこまでは、惟種が河野へ示した条件と同じである。
だが、実充は続けた。
「加えて、長く争いとなっております境目の地につきましても、我ら西園寺家の支配とお認めいただきたく存じます」
河野通宣の眉が動いた。
惟種も実充を見る。
さらに取るつもりか。
強気である。
だが、交渉の初めから譲る必要はない。
言えるだけ言っておき、後から削る。
それも交渉であった。
「河野」
義藤が通宣を見る。
「そなたの望みは」
「はっ」
通宣は深く頭を下げた。
「此度の黒瀬の暴挙につきましては、河野家もまことに遺憾に存じまする」
惟種の眉が、わずかに動いた。
遺憾。
便利な言葉である。
「されど、黒瀬はすでに討死し、その企ても潰えました。よって、黒瀬の件につきましては、これにて不問としていただきたく存じます」
不問。
惟種のこめかみに、ぴきりと何かが走った。
通宣は続ける。
「西園寺家との争いについては、ひとまず停戦に応じまする。ただし、その境につきましては、西園寺方が押し込む以前の姿へ戻すことを望みます」
「以前とは、いつのことだ」
実充が低く問う。
「河野の記録に基づく境にございます」
「河野の記録だけで決めるつもりか!」
「西園寺方の申し分だけで決めることもできますまい」
両者の間に、険しい空気が流れる。
義藤が手を上げた。
「まだあるのであろう」
「はっ」
通宣は、惟種へ顔を向けた。
「阿蘇殿には、九州探題として、九州の静謐に御専念いただきたく存じまする」
惟種は黙って通宣を見た。
「伊予の境目につきましては、伊予の者同士にて定めさせていただきたい」
要するに。
阿蘇は九州へ帰れ。
西園寺から手を引け。
そういうことだった。
惟種は思った。
うん。
なめているな。
府内の港を見たはずである。
並ぶ兵も、大船も、大筒も見た。
それでも、まだそのようなことを言う。
初めから譲歩する気がないのは分かる。
強く言い、最後に少し退く。
交渉とは、そういうものだ。
分かってはいる。
それでも、本人を殺されかけた側としては、腹が立った。
「河野殿」
三好長慶が口を開いた。
穏やかな声だった。
「その望みは、通りますまい」
通宣が長慶を見る。
だが、何も言わなかった。
「三好家は、此度の争いの当事者にございませぬ」
長慶は、公方様へ頭を下げる。
「河野、西園寺、いずれへも兵を出す考えはなく、ただ公方様の御前にて静謐が戻ることを願うのみでございます」
惟種は、長慶を見た。
関わりはない。
今後も兵を出さない。
綺麗な言葉である。
河野を切り離すための言葉でもあった。
「無論」
長慶は続けた。
「河野殿が阿蘇殿と争われようとも、三好家より兵船を出すことはございませぬ」
通宣の顔は動かなかった。
少なくとも、表向きは。
ただ、膝の上に置かれた手だけが、袴を強く握っていた。
事前に聞いていたのか。
それとも、この場で初めて切られたのか。
惟種には分からない。
だが、通宣は反論しなかった。
それが答えのようにも見えた。
「では、長慶」
義藤が尋ねる。
「そなたは、どのように収めるべきと考える」
「まず、停戦」
長慶は即座に答えた。
「これに異論はございませぬ」
「うむ」
「此度、河野方が新たに奪った城、村、田畑につきましては、西園寺家へ返すべきでしょう」
通宣が、わずかに目を伏せる。
「黒瀬の地につきましても、黒瀬が河野家の直臣ではない以上、河野家が所有を主張する筋ではございますまい。西園寺家へ預けるのが妥当かと存じます」
ここまでは、事前に久秀から届いていた文のとおりだった。
問題は、古くから争われている境目である。
久秀の文には、北半は河野。
南半は西園寺。
旧記を改めたうえで、幕府から検使を送る。
そう記されていた。
出来レース。
そのはずであった。
「境目の地につきましては」
義藤が口を開いた。
「河野方より差し出された旧記を改めた」
惟種は、静かに義藤を見る。
「古き由緒によれば、河野の申すところに理がある」
西園寺実充の顔から、表情が消えた。
「ゆえに、境目については河野の支配を認めることとする」
広間が静まり返った。
西園寺実充が顔を上げる。
「公方様!」
憤りが、その声に滲んでいる。
「我ら西園寺が、どれほど血を流してあの地を守ったと!」
「実充殿」
惟種が低く止めた。
実充はなおも何か言おうとしたが、口を閉じた。
惟種は、公方様を見た。
話が違う。
事前に久秀から届いた文では、境目は二つに分けることになっていた。
義藤は、そのことを知らぬのか。
それとも。
知ったうえで、裁定を変えたのか。
惟種は、久秀へ一瞬だけ目を向けた。
久秀は動かない。
穏やかな顔で、公方様の御沙汰を聞いている。
なぜ黙っている。
境目すべてが河野の地ではないと、知っているはずであろう。
久秀は惟種にも、そう書き送っている。
なのに、公方様が裁定を口にするまで黙っている。
わざとか。
だとすれば、何のためだ。
公方様へ恥をかかせるためか。
わしが、公方様の言葉へどう反応するのかを見るためか。
惟種は、三好長慶へも目を向けた。
長慶は久秀を見なかった。
公方様にも、惟種にも目を向けず、ただ正面を見ている。
知らなかったのか。
それとも。
知ったうえで、黙っているのか。
惟種の声が、低く落ちた。
「公方様」
義藤が、惟種を見る。
「それが御沙汰にございますか」
大声ではない。
詰め寄ったわけでもない。
ただ、確かめた。
義藤御自身が決められたことなのか。
その一点を。
だが、広間の空気は変わった。
義藤の顔から、先ほどまでの上機嫌が消える。
「惟種」
「はっ」
「余の沙汰である」
義藤は、まっすぐに惟種を見た。
「異存があるか」
惟種もまた、義藤を見返した。
そこに私欲は見えない。
阿蘇を苦しめようという悪意もない。
ただ、示された記録を信じ、自ら裁いた顔だった。
ならば。
今の公方様が、そうお決めになったのならば。
惟種は、両手を畳についた。
「承りました」
西園寺実充が、驚いたように惟種を見る。
惟種は頭を下げたまま続けた。
「公方様の御沙汰とあらば、阿蘇家も従いまする」
義藤の表情が、わずかに緩んだ。
その時だった。
「恐れながら、公方様」
松永久秀が口を開いた。
遅い。
あまりにも、都合のよい頃合いだった。
「境目の旧記につきまして、申し上げたきことがございます」
義藤が久秀を見る。
「何だ」
「河野殿の由緒が認められるのは、境目の北半までにございます」
久秀は、用意していた文書を前へ出した。
「別の旧記によれば、南半は長く西園寺家の支配にあったと記されておりまする」
義藤の眉が動いた。
「何だと」
先ほどまでとは違う声だった。
「南半は、西園寺の地であると申すか」
「はっ」
「ならば、なぜ先に申さぬ」
義藤の声に、明らかな苛立ちが滲んだ。
久秀は、静かに頭を下げる。
「旧記の確かさを、今一度改めておりましたゆえ」
「今一度だと」
「申し上げるのが遅れました。申し訳ございませぬ」
義藤は久秀を睨んだ。
だが、この場でそれ以上は責めなかった。
差し出された文書へ目を落とす。
何度か読み返す。
やがて、顔を上げた。
「ならば、先ほどの沙汰は改める」
広間に緊張が走った。
「境目の北半は河野。南半は西園寺とする」
西園寺実充は、なお不満そうだった。
河野通宣も顔を険しくしている。
だが、どちらも口は挟まなかった。
「なお、細かな境につきましては、幕府より改めて検使を遣わす。旧記を改め、双方立ち会いのもとで境を定めよ」
「はっ」
通宣が頭を下げる。
実充は、しばらく黙っていた。
「実充殿」
惟種が呼ぶ。
実充が惟種を見る。
今は飲んでくれ。
黒瀬領は得た。
新たに奪われた土地も戻る。
境目の南半も確保した。
何より、阿蘇からの支援は続く。
惟種は言葉にせず、目で伝えた。
実充は、悔しそうに唇を噛んだ。
やがて、両手を畳につく。
「公方様の御沙汰とあらば、従いまする」
惟種は、公方様へ向き直った。
「先ほどは、御前にて差し出がましきことを申し上げました」
深く頭を下げる。
「御沙汰に異を唱えたのではございませぬ。公方様御自身のお考えであるか、確かめたかっただけにございます」
義藤は、しばらく惟種を見た。
「分かっておる」
「ありがたき幸せ」
「そなたが従うことも、分かっておった」
義藤はそう言った。
だが、その声には、ほんのわずかに確かめるような響きがあった。
惟種は顔を上げる。
「公方様の御取り計らいにより、此度の争いは相収まりました」
はっきりと言った。
三好が収めたのではない。
久秀が裁いたのでもない。
すべて、公方様の御沙汰によって決まった。
たとえ途中で誤りがあったとしても。
自ら改め、正したのは公方様である。
そう、この場で定めるために。
惟種は西園寺実充と河野通宣を見た。
「両名」
二人が惟種を見る。
「公方様の御沙汰である」
声に力を込めた。
「異存はあるまいな」
実充が頭を下げる。
「ございませぬ」
通宣も、少し遅れて頭を下げた。
「河野家も、御沙汰に従いまする」
「ならば、ただちに兵を止めよ」
「はっ」
「此度奪った城、村、田畑は西園寺家へ返すこと」
「承知いたしました」
「黒瀬の地は西園寺家の支配とする」
通宣の肩が、わずかに下がった。
「……承りました」
「境目については、幕府の検使を待て。それまでは、勝手に杭一本動かすことも許さぬ」
「はっ」
惟種は、公方様へ向き直る。
「公方様。阿蘇家もまた、御沙汰に従い、伊予へ兵を渡しませぬ」
義藤の顔に、満足げな色が戻った。
「うむ。それでよい」
五万の兵を、御言葉一つで止めた。
公方様の目には、そう映っている。
三好も。
河野も。
西園寺も。
そう受け取るだろう。
実際には、初めから一兵も渡すつもりはない。
だが、それでよい。
阿蘇は弱くて兵を出さなかったのではない。
公方様の御沙汰を尊び、振り上げた拳を下ろしたのだ。
その形が必要だった。
調停は、終わった。
◇
人々が広間を退出し始める。
河野通宣は、深く頭を下げて出ていった。
西園寺実充は、まだ納得しきれぬ顔をしていたが、惟種へ一礼して後に続く。
三好長慶も、公方様へ礼を述べて立ち上がった。
松永久秀は、惟種の横を通り過ぎる際、わずかに頭を下げた。
目が合う。
久秀は、何も言わなかった。
惟種も、何も言わない。
事前の文と違った。
久秀は、境目の旧記を知っていた。
公方様へも、初めから示すことができたはずである。
それでも、公方様が裁定を口にするまで黙っていた。
わしが、どう動くかを見るために。
公方様の御沙汰を前に、反発するのか。
それとも、従うのか。
おそらく、それを測った。
何のために。
惟種には、まだ分からない。
ただ一つ。
久秀は、最初から間違いを正すつもりだった。
ならば、狙いは裁定そのものではない。
公方様と、わし。
その間にあるものを、見定めようとしたのだ。
「惟種」
公方様の声がする。
「はっ」
「少し、よいか」
「もちろんにございます」
「屋敷へ参れ」
阿蘇家にある、阿蘇家が管理する公方様の屋敷。
義藤は、すでに我が家のように使っている。
「久しぶりに来たのだ。茶でも飲もう」
「先ほどまで、調停をなさっておられたのでは」
「終わったではないか」
「左様にございますな」
義藤は立ち上がった。
先ほどまでの緊張など、もう気にしていないようにも見える。
だが、広間を出る直前。
義藤は、惟種だけに聞こえる声で言った。
「先ほどは、ずいぶんと怖い顔をしたな」
惟種は、わずかに目を細めた。
やはり、気にしている。
「申し訳ございませぬ」
「屋敷で聞く」
「はっ」
惟種は頭を下げ、義藤の後に続いた。
その背を、松永久秀が見ていた。
公方様と惟種の間に、亀裂はない。
御沙汰に疑問を抱いても、惟種は最後には従った。
義藤もまた、惟種が従うことを信じている。
それは、この日、確かめられた。
だが。
義藤が久秀へ向けた、あの目。
そこには、これまでにはなかったものが浮かんでいた。
疑い。
ほんの小さなものである。
されど。
亀裂とは、そのようなところから広がるものだった。




