第二百十七話 聞いていた話と違う
読者の皆様へ
昨日の熊本での地震を受け、改めて皆様のご無事を心よりお祈り申し上げます。
今後も強い揺れが起こる可能性があります。被災地域やその周辺にお住まいの皆様におかれましては、どうか引き続き身の安全を最優先にし、倒れやすい物や崖、損傷した建物などには十分ご注意ください。
また、不安な夜を過ごされた方も多いかと存じます。どうか無理をなさらず、休める時に少しでもお身体を休めてください。
これ以上大きな被害が広がることなく、一日も早く穏やかな日常が戻ることを、心より願っております。
府内の港を出た船は、北へ向かっていた。
帆は張られている。
風も悪くない。
船足も、決して遅くはなかった。
それでも、河野通宣には遅く感じられた。
「もっと急げぬのか!」
通宣が声を荒らげる。
船頭が慌てて頭を下げた。
「これ以上は、風次第にございます!」
「ならば、帆を増やせ!」
「すでに、すべて張っておりまする!」
分かっている。
船頭を責めても、船が速くなるわけではない。
海が、通宣の焦りに合わせてくれるはずもない。
それでも、黙ってはいられなかった。
府内の港が、少しずつ遠ざかっていく。
通宣は船尾に立ち、遠くなっていく陸を睨んだ。
まだ見える。
阿蘇の大船。
高い舷側。
太い帆柱。
そして、船腹に並ぶ大筒。
あの大船を先頭に、阿蘇の船団が伊予へ来る。
五万の兵を運んで。
その考えが浮かぶたび、腹の底が冷えた。
なぜだ。
なぜだ。
なぜ、こうなった。
策としては悪くなかった。
いや。
よくできていたはずだ。
阿蘇惟種が西園寺家へ近づけば、河野は困る。
両家が正式に縁を結べば、西園寺の背後に九州の大国が立つ。
米が来る。
銭が来る。
鉄砲も、火薬も来る。
河野が西園寺を押し込もうとしても、阿蘇の蔵が続く限り、西園寺の兵糧は尽きない。
だから、その前に止める必要があった。
阿蘇惟種を始末する。
そうすれば、阿蘇家は当主を失う。
九州は平定されたばかり。
各家の兵は削られ、阿蘇の役人が諸国へ入り、古くからの仕置きを次々と改めている。
表向きは静かでも、不満を抱える者は少なくない。
惟種が死ねば、必ず揺れる。
阿蘇家は九州を鎮め直すことに追われ、四国へ手を伸ばすどころではなくなる。
黒瀬は、そのための駒だった。
兵は三百。
だが、その大半は銭で雇った牢人や流れ者。
黒瀬とともに死のうが、逃げようが、河野とのつながりを語れる者ではない。
襲撃が成功すればよし。
失敗したなら、そのまま西園寺領へ攻め込ませる。
そこで討ち死にさせる。
黒瀬の館には火を放つ。
主立った者も始末する。
黒瀬は阿蘇だけを狙ったのではない。
河野と西園寺の争いに乗じ、双方をかき乱そうとした国人。
そのように見せる。
通宣自身は、その前に府内へ入る。
友好の使者として。
進物まで持参して。
惟種が討たれていれば、哀悼を述べればよい。
河野もまた、黒瀬の暴挙に驚いている。
そう言って、阿蘇家中へ近づけばよい。
惟種が生きていたとしても、黒瀬を切り捨てればよい。
河野の命で動いた証など、どこにも残らない。
黒瀬は河野の直臣ではない。
境目の国人が勝手に動いた。
河野もまた、名を汚された被害者。
そう言い張ればよかった。
実際、黒瀬の後始末に問題はなかった。
黒瀬は死んだ。
主立った者も死んだ。
館は焼けた。
生き残ったのは、何も知らぬ雇われ兵ばかり。
証は消えた。
すべて、定めたとおりに進んでいた。
それなのに。
『そんなものは知らん』
惟種の声が、耳の奥に残っていた。
黒瀬が誰の命で動いたかなど知らぬ。
命じていようが、いまいが、河野の咎。
河野方に通じる者を御せなかった責を取れ。
証など、最初から必要としていなかった。
「馬鹿な……」
通宣は、小さく呟いた。
そのような理屈があるか。
証もなく、一国の当主を責めるなど。
横暴である。
無法である。
だが。
横暴だと訴えて、何になる。
阿蘇は強い。
河野より、はるかに。
強い者が、己の理を押し通す。
乱世とは、そういうものだった。
「聞いていた話と違うではないか……」
通宣は、拳を握った。
阿蘇家は兵を出せない。
そう聞いていた。
九州を平定したとはいえ、内実は固まっていない。
各地で仕置きを改め、旧来の国人や寺社から力を奪っている。
大軍を国外へ出せば、九州のどこかが必ず動く。
阿蘇惟種は、その危うさを知っている。
民を疲れさせることを嫌う。
無益な戦はしない。
降る者には寛大。
義を重んじ、弱き者をいたずらに踏みにじらない。
そう聞いていた。
だからこそ、証さえ消せば退くと思った。
西園寺家一つのために、九州を危うくすることはない。
そう踏んでいた。
だが。
あれのどこが甘い。
黒瀬の仕業と認めながら、その背後などどうでもよいと言い放った。
河野を潰す。
五万を出す。
大筒船を伊予へ向ける。
通宣の首を刎ね、その首を手土産に河野領へ攻め込む。
惟種は、少しも表情を変えずにそう告げた。
虚勢だったのか。
通宣には分からない。
だが、甲斐宗運は一瞬も迷わなかった。
五万ほどならば。
ひと月あれば揃う。
兵糧は一年分。
船も集める。
大筒も、すべて持ってくる。
あの場にいた者は、誰一人として驚かなかった。
まるで、五万など初めから数の内であるかのように座っていた。
惟種の言葉よりも。
それを当然のように受け止めた家臣たちの方が、恐ろしかった。
「五万……」
通宣の口から、その数が漏れた。
河野単独で、どうにかできる数ではない。
伊予の国人をかき集める。
村上筋へ援けを求める。
城を固める。
それでも、本当に五万が来れば厳しい。
しかも、阿蘇には米がある。
銭がある。
鉄砲がある。
火薬がある。
大筒がある。
ただ兵を集めただけの大軍ではない。
長く戦える大軍だ。
船を沈めても、次の船が来る。
城に籠もっても、大筒で崩される。
西園寺も同時に動く。
阿蘇から米と武具を受け取った西園寺が、河野の南を突く。
河野は海と陸、両方で戦わねばならない。
「村上筋ならば……」
通宣は、自らに言い聞かせた。
瀬戸内の潮を知るのは、村上筋である。
狭い水道へ誘い込めば、阿蘇の大船とて自由には動けない。
大きな船ほど、小回りは利かぬ。
火船を使う。
夜に襲う。
潮へ乗せて囲む。
勝てる可能性はある。
だが。
本当に勝てるのか。
淡路の港を吹き飛ばした大筒。
大友を屈服させた船手。
有明の海で、数に勝る敵を破った阿蘇の船。
河野は、その正確な数すらつかんでいない。
大筒の数も。
鉄砲の数も。
船の造りも。
分からないものが多すぎた。
さらに、村上筋が河野のために、阿蘇と最後まで戦う保証もない。
阿蘇には銭がある。
河野より良い条件を出された時、すべての者が河野に従うだろうか。
分からない。
何一つ、確かではなかった。
「嵌められたのか……」
通宣は、低く呟いた。
三好の手の者。
そう名乗った男の顔が浮かぶ。
阿蘇は動けない。
今、四国へ兵を出せば、九州が乱れる。
惟種は甘い。
西園寺を助けるために、自らの国を危うくする者ではない。
黒瀬を用いるなら、表へ出ぬよう援ける。
銭も。
武具も。
必要な者も。
実際、援助はあった。
ただの話ではなかった。
だからこそ、通宣も信じた。
阿蘇と西園寺が結ぶ前に動くべきだと。
これ以上、阿蘇を四国へ近づけてはならないと。
だが。
「何が三好の手の者だ……!」
通宣は、舷側を拳で打った。
「確かに援けは受けた! されど、ここまでになるとは聞いておらぬ!」
近くにいた供の者が、身を固くした。
通宣は、すぐに口を閉じる。
海の上とはいえ、どこに耳があるか分からない。
三好の名を軽々しく口にするべきではなかった。
それでも、疑いは消えなかった。
三好は、阿蘇の内情を見誤ったのか。
それとも。
河野が失敗すれば切り捨てるつもりで、初めから動かしたのか。
河野と阿蘇が争えば、互いに傷つく。
三好は何も失わない。
阿蘇の四国進出は遅れる。
河野が滅びても、三好にとってはそれだけの話。
まさか。
自分たちは、黒瀬と同じなのではないか。
使い終われば捨てられる駒。
その疑いが、頭を離れなかった。
だが、今は三好を責めている時ではない。
阿蘇の五万が本当に動く前に、手を打たなければならない。
「伊予へ着き次第、早船を二艘出せ!」
通宣が振り返った。
「はっ」
供の者が膝をつく。
「一艘は湯築へ向かわせよ」
「何とお伝えいたしますか」
「父上と一門、宿老を急ぎ集めよ。西園寺境での新たな動きも、すべて止めさせろ」
「はっ」
「阿蘇の船の動きを探らせよ。村上筋にも使いを出せ。阿蘇の船が瀬戸内へ入った場合、どれほどの船を出せるか、ただちに返答せよとな」
「承知いたしました」
「もう一艘は」
通宣は、言葉を止めた。
三好へ援軍を求める。
言うのは簡単だった。
だが、書状に黒瀬の名は書けない。
阿蘇襲撃についても、詳しくは残せない。
三好との関わりを示す証を、自ら作るわけにはいかなかった。
「三好殿のもとへ向かわせる」
「援兵をお求めになりますか」
「ああ」
答えながら、通宣は歯を食いしばった。
信用できるかも分からぬ相手へ、助けを求める。
腹立たしい。
情けない。
それでも、河野家を背負う以上、意地だけで家を滅ぼすわけにはいかなかった。
「書状には、伊予の情勢が急変したゆえ、使者の口上を聞かれたしとだけ記せ」
「黒瀬のことは」
「一字も書くな」
通宣は、供の者を睨んだ。
「阿蘇が五万の兵と大筒船を伊予へ向ける構えであること。河野が先の話を信じて動いたこと。この事態を鎮めるため、相応の援けを願いたいこと。すべて口で伝えよ」
「はっ」
「援兵が難しければ、せめて阿蘇を止める手立てを示せとな」
「承知いたしました」
「使者には、口を固くするよう言い含めよ」
「はっ」
「急げ!」
「はっ!」
船上が、にわかに慌ただしくなった。
書状を用意するため、供の者たちが走る。
通宣は再び、遠ざかる府内の方角を見た。
もう港は見えない。
阿蘇の大船も。
大筒も。
だが、見えなくなったからといって、恐れが消えるわけではなかった。
むしろ、何をしているか分からない分だけ恐ろしい。
すでに、兵を集め始めているのか。
西園寺へ米を送っているのか。
土居へ鉄砲を渡しているのか。
大筒船へ火薬を積んでいるのか。
あと何日ある。
七日か。
十日か。
ひと月あれば揃うと言っていた。
だが、惟種は気が長くないとも言った。
家中をまとめねばならない。
父にも話さねばならない。
占領地を返せと言われた。
黒瀬領まで、西園寺へ渡せと言われた。
受け入れれば、家中が反発する。
拒めば、五万が来る。
三好の援けがなければ、河野は耐えられない。
村上筋も、必ず動くとは限らない。
通宣は、両の拳を握った。
策が悪かったわけではない。
黒瀬の始末を誤ったわけでもない。
三好の話が、すべて偽りだったとも言い切れない。
阿蘇は、本当に動けぬのかもしれない。
五万は、ただの脅しかもしれない。
だが。
あの広間で、惟種の目を見た。
通宣の首を刎ねると言った時も。
河野を潰すと言った時も。
あの鬼童は、少しも迷っていなかった。
虚勢だと決めつけるには、あまりにも危険だった。
自分は、阿蘇惟種を知ったつもりになっていた。
だが、違った。
甘かったのは。
己の方だった。
船は、伊予へ向けて走り続けていた。




