第二百十六話 潰し合い
読者の皆様、いつも作品をお読みいただきありがとうございます。先ほど熊本で震度7の大きな地震が発生いたしました。本作は「阿蘇家」を舞台に描いていることもあり、熊本在住の読者様も多くいらっしゃるかと存じます。皆様の身の安全が何より第一です。どうか周囲の状況に十分ご注意いただき、安全な場所でお過ごしください。
なお、作者は鹿児島におります。現在のところ無事です。皆様のご無事と、これ以上被害が広がらないことを心よりお祈り申し上げます。
「そんなものは知らん」
惟種の声が、広間に落ちた。
通宣が顔を上げる。
「……は?」
「黒瀬が誰の命で動いたかなど、知らぬと言ったのだ」
通宣は、しばらく言葉を失った。
黒瀬は死んだ。
主立った者も討たれた。
館には火が放たれ、残された兵の大半は、銭で雇われた牢人や浪人であった。
河野の命で動いた証はない。
誰かに命じられたという証すら残っていない。
だからこそ、通宣は黒瀬一人の企てとして終わらせようとしている。
「されど、惟種殿」
通宣は、慎重に言葉を選んだ。
「黒瀬は、我が直の家臣ではございませぬ。河野方に通じてはおりましたが、それがしの命で動いた証は――」
「その話は終わった」
惟種は遮った。
「終わった……とは」
「そなたは黒瀬に命じておらぬ。そう申すのであろう」
「はい。まこと、そのとおりにございます」
「ならば、命じておらぬということにしてやる」
通宣の表情が、わずかに緩んだ。
だが、それは一瞬だった。
「ただし」
惟種は続けた。
「黒瀬が河野方に通じていたことは、そなたも認めたな」
「それは……はい」
「その黒瀬が、阿蘇の旗を見た上で、わしを襲った」
「……」
「河野の名を背負う者が、阿蘇家当主へ弓を引いた。それを河野は知らぬ。止めることもできぬ。挙げ句の果てに、その者は西園寺領へ突っ込み、何も語らず死んだ」
惟種は、ゆっくりと通宣を見据えた。
「河野は、己の筋にある者すら御せぬのか」
「黒瀬は独立した国人にございます」
「都合のよい時だけ、独立した国人になるのだな」
「そのようなつもりでは」
「河野方として西園寺と争う時は、河野の者。阿蘇を襲えば、河野とは関わりなき者。ずいぶんと便利な話だ」
通宣の顔が強張った。
「河野が命じたのであれば、そなたの罪だ」
惟種は、指を一本立てた。
「河野が命じておらぬのであれば、己の筋にある者を御せなかった、そなたの咎だ」
もう一本、指を立てる。
「どちらにしても、河野が始末をつけよ」
「お待ちくだされ!」
通宣の声が強くなった。
「それでは、あまりに一方的ではございませぬか。黒瀬の企てにより、河野もまた名を傷つけられたのでございます!」
「それで?」
惟種は尋ねた。
通宣が言葉を止める。
「……それで、とは」
「いつから始める」
「いつ……とは?」
惟種は、少しだけ首を傾けた。
「知れたこと」
広間の空気が、さらに冷えた。
「おぬしと、わしとの潰し合いよ」
通宣の顔から、血の気が引いた。
「な……」
「河野は、阿蘇に咎はないと申す。阿蘇は、河野に咎があると申す。どちらも退かぬのであれば、あとは潰し合うしかあるまい」
「お待ちください!」
通宣が両手を畳についた。
「それがしには、そのようなつもりはございませぬ!」
「そなたのつもりなど、聞いておらぬ」
「それがしは、阿蘇家との友好を願い、ここへ参ったのでございます!」
「友好を願う者の筋にある兵が、わしを殺そうとした」
「ですから、黒瀬は!」
「宗運!」
惟種が声を上げた。
「はっ」
宗運が即座に応じる。
「兵はいくら出せる!」
広間が静まり返った。
種茂が宗運を見る。
親英も、義弘も、小七郎も、卜伝も、何も言わない。
宗運は一瞬たりとも迷わなかった。
「はっ。五万ほどならば」
通宣の肩が揺れた。
「五万……」
「ひと月もあれば、揃えられましょう」
宗運は淡々と続けた。
「兵糧も、一年分は用意できまする」
「船は」
「府内、博多、肥後、薩摩より集めますれば、伊予へ渡すには足りましょう」
「大筒は」
「船手のものを、すべて」
「そうか」
惟種は頷いた。
「ならば、足りるな」
「お待ちくだされ!」
通宣が身を乗り出した。
「五万もの兵を動かせば、阿蘇家とてただでは済みますまい!」
「だから、潰し合いだと言っている」
惟種は、平然と返した。
「そなたも潰れる。わしも傷を負う。どちらが先に倒れるか、試せばよい」
「某には、阿蘇殿と争うつもりなど!」
「では、なぜ黒瀬はわしを襲った」
「それは、某にも分かりませぬ!」
「わしにも分からぬ」
惟種は笑った。
「だから、そんなものは知らぬと言ったのだ」
通宣は息を詰まらせた。
惟種は、さらに身を乗り出す。
「河野の城は、我が船の大筒に何日耐えられる」
「……」
「三日か。五日か」
通宣は答えない。
「我が船の大筒ごときで散ってしまうのであれば、潰し合いにもならぬだろうな」
府内の港に浮かぶ大船。
その船に積まれた大筒。
かつて淡路の港を砕いた火力。
通宣も、その話は聞いている。
阿蘇が九州を六年で平らげたことも。
有明の海で敵船を沈めたことも。
府内の港を大筒で脅し、大友を屈服させたことも。
ただの脅しだと、笑い飛ばすことはできなかった。
「道は二つだ」
惟種は言った。
「一つ」
指を立てる。
「そなたを黒瀬と通じた者と定め、ここで首を刎ねる」
通宣の顔が引きつった。
「その首を手土産に、阿蘇の船を伊予へ向かわせる。河野の地は、西園寺と我らで分けて治めよう」
「お、お待ちくだされ!」
「二つ」
惟種は、もう一本指を立てた。
「阿蘇の要望を受け入れる」
「要望を!」
通宣は、食い気味に答えた。
「阿蘇殿の要望を、お伺いしたい!」
先ほどまでの余裕は、もはやなかった。
額には汗が浮かんでいる。
惟種は、宗運を見た。
宗運は黙って頭を下げた。
「三つある」
惟種は、通宣へ向き直った。
「一つ。西園寺家との争いを、ただちに止めよ」
「……は」
「一つ。此度の争いにて河野が奪った城、村、田畑。そのすべてを西園寺家へ返せ」
通宣の顔が険しくなる。
「それは」
「まだある」
惟種は、最後の指を立てた。
「一つ。黒瀬の地は、西園寺家の領地とする」
「黒瀬の地まで!」
通宣が思わず声を上げた。
「それは、あまりにも」
「黒瀬は、そなたの家臣ではないのであろう」
「……」
「ならば、河野が惜しむ理由はあるまい」
「されど、黒瀬の地は河野の境を守る要地にございます!」
「河野の地ではないのだろう?」
通宣が口を閉じる。
自らの言葉が、首を絞めていた。
黒瀬は河野の家臣ではない。
河野の命では動かない。
河野とは別の国人である。
そう言い切った以上、その領地を河野のものとして守るとは言えない。
「三つだ」
惟種は、改めて告げた。
「即時停戦」
「奪った領地の返還」
「黒瀬領を西園寺へ渡すこと」
通宣は、畳へ視線を落とした。
すぐには答えられない。
どれも河野家中の反発を招く。
特に黒瀬領を西園寺へ渡せば、河野は境目の要地を失う。
だが、拒めば目の前の男は、本当に五万を率いて来るかもしれない。
「……家中にて」
通宣が絞り出すように言った。
「家中にて、相談させていただきたい」
惟種は、しばらく通宣を見た。
「よかろう」
通宣が、わずかに息を吐く。
「ただし、急げよ」
「は」
「わしの気は、長くない」
「承知いたしました!」
通宣は深く頭を下げた。
立ち上がる時、わずかに膝がもつれた。
それでも姿勢を整え、再び一礼する。
「早急に、河野家中の意をまとめて参りまする」
「よい返事を待っている」
「はっ」
通宣は、進物を置いたまま広間を退出した。
廊下へ出る足は早かった。
やがて、府内館を飛び出すように去っていった。
◇
通宣が退出した後も、広間の空気はしばらく張り詰めていた。
誰も口を開かない。
通宣の足音が完全に聞こえなくなる。
さらに、館の門を出たとの報せが届く。
そこでようやく、惟種は大きく息を吐いた。
「宗運」
「はい」
「五万、出せるのか」
「出せまする」
即答だった。
惟種は宗運を見る。
「本当にか」
「はい」
宗運は淡々と答えた。
「御直の常備兵を動かし、各家へ兵を出させ、国人衆、地侍、寺社の者までかき集めれば、五万は揃いまする」
「……そうか」
「なりふり構わぬのであれば、八万ほどまでは」
広間がざわめいた。
種茂が目を見開く。
「八万も」
「数だけであれば」
宗運は言った。
「ただし、九州は燃えまする」
静かな声だった。
「各家の兵を引き抜けば、国元が空きます。兵を削られたことに不満を持つ者、知行を改められた者、旧き主を慕う者、寺社、国人。抑えていた者どもが、一斉に動きましょう」
惟種は黙って聞いていた。
「文官を各地へ送り、阿蘇の政へ改めておりますが、まだ根を張りきっておりませぬ。今、兵を引き抜けば、文官どもは孤立いたします」
「一揆も起きるか」
「起きまする」
「謀反は」
「そちらも」
宗運は、少しも濁さなかった。
「六年かけて平らげた九州が、再び割れます。戸籍も、田畑帳も、蔵の改めも、常備兵への切り替えも、多くがやり直しとなりましょう」
種茂が唇を噛んだ。
親英も、義弘も黙っている。
誰も驚いてはいなかった。
分かっていた。
阿蘇家は強い。
だが、盤石ではない。
六年で九州を平定した代わりに、古い仕組みを急ぎ壊し、新しい仕組みへ無理に切り替えている。
民の支持はある。
銭も、米も、武具もある。
だが、各地の武家や国人が、心から阿蘇へ従っているわけではない。
今は、宗運の策と阿蘇の豊かさによって、かろうじて押さえ込んでいるだけだった。
「若君」
宗運が、惟種を見た。
「それでも、お集めになりますか」
「集めぬ」
惟種は、間を置かずに答えた。
種茂も、親英も驚かなかった。
「河野一つのために、六年を無駄にするほど愚かではない」
「西園寺家から援兵を求められても、ですか」
「兵は出さぬ」
惟種は、はっきりと言った。
「初めから、そう申している。出せるのは、銭、米、武具、火薬だ」
「はい」
「西園寺家は見捨てぬ。だが、西園寺を守るために九州を壊すこともしない」
宗運は小さく頷いた。
「では、河野が三つの条件を拒めば、いかがなさいます」
「公方様に御沙汰を願う」
種茂が顔を上げた。
「公方様に、でございますか」
「ああ」
惟種は、少しだけ顔をしかめた。
「阿蘇はすでに兵を整えた。されど、このまま弱き河野を踏み潰すことは忍びない。公方様の御威光により、矛を収める道をお示しいただきたい。そう申し上げる」
宗運の口元が、わずかに動いた。
「振り上げた拳を、公方様に下ろしていただくのでございますな」
「その言い方は、少し腹が立つな」
「違いますか」
「違わぬ」
惟種は、ため息をついた。
「ここで阿蘇が何もせずに退けば、阿蘇家当主を襲っても、証さえ消せばよいと思われる」
「次が現れまする」
「だから、河野には、本当に五万が来ると思わせねばならぬ」
「公方様は、仲裁をお引き受けになるでしょうか」
「なる」
惟種は即答した。
「公方様にとって、わしは一の家臣らしいからな」
「らしい、ではございませぬ。公方様自ら、そう仰せになりました」
「そうだったな」
「九州探題が御沙汰を請い、五万の兵を公方様の御言葉一つで止めたとなれば、御威光を示すにも絶好の機会にございます」
「喜んで止めてくださるだろうよ」
「また、大きな恩を着せられますな」
「九州を燃やすよりは安い」
惟種は答えた。
「三好はいかがいたしましょう」
宗運の問いに、惟種は少し考えた。
「河野一つのために、表立って阿蘇とは争わぬだろう」
「公方様の御沙汰であれば、なおさら逆らえませぬ」
「河野を切るか」
「条件を飲ませ、家だけは残そうとするでしょうな」
「それで十分だ」
三好が裏で何をしているか。
今はまだ、確かな証はない。
だが、河野のために、阿蘇の大船と大筒を瀬戸内へ招くとは思えない。
まして、公方様が仲裁へ入れば、三好は表向き逆らえない。
「西園寺家への支援は、続けますか」
宗運が尋ねた。
「続ける」
惟種は即答した。
「公方様には、阿蘇の兵を止めていただく。西園寺との縁を切れと命じていただくわけではない」
宗運は、わずかに笑った。
「河野が西園寺を攻め続ければ」
「西園寺の蔵が空になるたび、阿蘇が満たす」
「鉄砲が壊れれば」
「新しいものを送る」
「城が崩れれば」
「直す銭と材木を送る」
惟種の声は冷たかった。
「兵だけは出さぬ」
「はい」
「だが、西園寺が負ける戦にもさせぬ」
宗運は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
種茂が、惟種を見た。
「では若君は、初めから戦を始めるおつもりは」
「ない」
惟種は答えた。
「始めれば、阿蘇も傷を負う。九州も乱れる。河野一つに払う代価ではない」
「では、先ほどの潰し合いとは」
「始まると、信じさせるためだ」
惟種は、通宣が置いていった進物を見た。
鰮の塩漬け。
紙。
織物。
明の陶器。
友好の品として持ち込まれたもの。
その主は今頃、府内の港へ向かい、河野家中へ知らせるため船を急がせているだろう。
阿蘇は怒っている。
五万を動かす。
大船と大筒を伊予へ向ける。
河野を滅ぼすつもりだ。
そう信じて。
「宗運」
「はい」
「西園寺へ、先に米を送れ」
「どれほど」
「河野の耳に届くほどだ」
「承知いたしました」
「土居へは、銭と鉄砲を」
「はっ」
惟種は、ゆっくりと立ち上がった。
「兵は一人も出さぬ」
だが。
「河野が勝てる戦にも、決してさせぬ」




