第百八十四話 義の境目
天文二十年(一五五一年)九月。
越後に入ってから、数日が過ぎていた。
惟種は、公方様から預かった御内書に阿蘇家の副状を添え、武田晴信と村上義清の双方へ使者を送っていた。
求めたのは、三年間の休戦である。
村上方がなお押さえる真田旧領の一部を、武田方に属する真田氏へ返還する。その代わり、武田には三年間の軍事行動を控えさせ、村上にも兵を退いてもらう。戦で荒れた田畑や村々を立て直すための猶予を設けるというのが、惟種の案だった。
(……これで話がまとまれば、さっさと帰れるのだがなぁ)
そんな惟種のもとへ、宇佐美定満から知らせが届いた。
村上義清が、内密に会談を求めてきたという。
「……早いな」
使者を送ってから、まだそれほど日も経っていない。返書より先に、当主本人が少数の供を連れて越後へ来るとは思わなかった。
「何であろうな……事前に内容は伝えたはずだが……」
隣にいた鍋島種茂が静かに答える。
「村上殿としても、直接お確かめになりたいことがあるのでございましょう」
「……まあ、そうであろうな」
内密に訪れた以上、他家には聞かせたくない話があるのだろう。
少しばかり嫌な予感はしたが、ここまで来て会わぬわけにもいかない。
「長尾殿にも同席していただこう。三人で話した方が早かろう」
「承知いたしました」
こうして、惟種、長尾景虎、村上義清による会談が設けられた。
◇
村上義清は、想像していた以上に威圧感のある男だった。
四十を過ぎたほどであろうか。大柄な体に日に焼けた顔、鋭い目つきは、黙って座っているだけでも相手を圧するものがあった。
座敷へ入ってきた義清は、景虎と惟種の前へ進み、丁寧に頭を下げた。
「初めてお目にかかる。村上義清と申す。此度はこのような場を設けていただき、ありがたく存じます」
「長尾景虎にございます。遠路、よくぞお越しくだされた」
「阿蘇惟種にございます。こちらこそ、お会いできて光栄に存じます」
惟種も礼を返す。
(……うわぁ。何とも威圧感のあるおっさんやなぁ)
義清は席についた後も、こちらを測るような目を向けていた。
(……いや、待て。これ、わざと威圧しておらぬか? 小癪な!)
惟種は何食わぬ顔で姿勢を整えた。
義清が改めて二人へ頭を下げる。
「まずは、公方様の御意向を受け、このような場を整えていただいたこと、厚く御礼申し上げる。阿蘇殿におかれては、遠く九州よりお越しいただき、ありがたき幸せにございます」
「いえ。わしも公方様より仰せつかった役目にございます。できる限りのことはいたしたいと考えております」
「……されど!」
義清の声が急に大きくなった。
「真田の旧領を返還するなど、到底承服できませぬ!」
(……おおう)
惟種は思わず目を瞬かせた。
「武田晴信は、我が領内へ幾度となく兵を進めてまいった! そのうえ砥石まで奪い、なおも信濃へ手を伸ばそうとしておる。そこへ、真田の旧領まで返せと申されるか!」
義清は膝の上で拳を握った。
「そのような条件、受け入れるわけにはまいりませぬ!」
(……知らんがな!)
惟種は心の中で叫んだ。
(……文句なら晴信に言うてくれ! わしは関係なかろう!)
もちろん、口には出せない。
景虎も黙ってこちらを見ている。
惟種は仕方なく、静かに口を開いた。
「……村上殿。お気持ちは分かります。真田の旧領を返すことが、容易ならざる決断であることも承知しております」
「ならば!」
「ですが、村上殿は、これ以上自領が減ってもよろしいとお考えか?」
義清の表情が変わった。
「……何を申される」
「このまま戦を続ければ、領地を取り戻せるとお考えでしょうか。それとも、さらに失うことになるのでしょうか」
「負けるわけがなかろう!」
義清は即座に言い返した。
「我らは、これまでも武田を幾度となく退けてきた! 晴信ごときに、そう簡単に屈するものか!」
その自信に根拠がないわけではない。村上義清は、これまで武田晴信を相手に幾度も痛手を与えてきた。
だが、砥石はすでに武田方へ渡っている。
「……なるほど。では、砥石を失ったことは、どのようにお考えか?」
「…………」
「村上殿の武勇を疑うつもりはございませぬ。武田晴信を幾度も退けたことは見事だと思っております。ですが、過去に勝ったからといって、次も勝てるとは限りますまい」
義清の眉間に深い皺が寄った。
「阿蘇殿。某が武田に負けると申されるか?」
「そうではございませぬ。戦を続ければ、勝つことも負けることもあるでしょう。ですが、勝っても負けても、兵と民は疲弊いたします。それをいつまで続けるおつもりなのかと、お尋ねしているのです」
惟種は、穏やかな声を崩さなかった。
「領地を守るために戦う。それは当然のことでしょう。しかし、守るべき民がいなくなってしまっては、何のための領地なのか分からなくなります」
義清は黙り込んだ。
不満が消えたわけではない。
惟種もしばらく口を閉ざした。
(……面倒なことになったのう)
村上義清が簡単に折れるとは思っていなかったが、このままでは話が進まない。
そして何より、惟種は早く九州へ帰りたかった。
(……仕方ない。銭で解決するか!)
「……村上殿。一つ、よろしいか?」
「何でございましょう」
「実はな、わしも武田晴信には、少々煮え湯を飲まされましてな」
義清が顔を上げた。
景虎もわずかに口元を動かす。
「……武田に、でございますか?」
「うむ。越後へ着いた早々、何とも愉快ではない目に遭わされたのだ。できれば、意趣返しの一つもしてやりたいと思っておる」
「……では、いかがなさるおつもりか?」
「まずは三年間、兵を休めなされ」
義清が眉を寄せた。
「……三年」
「そうだ。失ったものをすぐ取り戻そうとするのではなく、まずは今あるものを守る。田畑を戻し、村を立て直し、兵を休ませるのだ」
「されど、真田の旧領は……」
「一部は返していただきたい。それがなければ、武田も休戦には応じまい」
惟種は少しだけ声を落とした。
「ですが、村上殿。三年後まで今と同じとは限りますまい。国を立て直し、兵を養い、その先でどうするかは改めて考えればよいのです」
義清は腕を組んだ。
惟種は景虎へ目を向けた。
「長尾殿。村上家の後ろ盾となっていただけるとのこと」
「無論だ」
景虎は迷わず答えた。
「公方様の御意向を受けての休戦であれば、越後もその約定を守るために力を尽くそう。武田がこれを破り、再び不当に兵を進めるのであれば、黙って見過ごすつもりはない」
「……ありがたい」
義清は景虎へ頭を下げた。
それでも、まだ迷いは残っているようだった。
惟種は続けた。
「それと、阿蘇家も微力ながら力を貸しましょう」
義清が顔を上げる。
「……阿蘇家も?」
「うむ。簡単に申せば、銭でな」
「……銭?」
「荒れた田畑を戻すにも、村を立て直すにも、銭がいる。村上殿が本気で国を立て直すというのであれば、必要なところは阿蘇も助けよう」
義清はしばらく惟種を見つめ、やがて少し言いにくそうに口を開いた。
「……阿蘇殿」
「何でございましょう?」
「失礼ながら、それほどの財を動かせるとは、にわかには信じられませぬが……」
「…………」
惟種の眉が、ぴくりと動いた。
(……ほう?)
義清に悪意はないのだろう。
九州の財政事情など、詳しく知っているはずもない。
それでも、少々聞き捨てならなかった。
(……阿蘇家の財力を知らぬか、この田舎者が……!)
もちろん、口には出さない。
惟種は表情を整えた。
「……村上殿。三百万貫、と申せば分かるか?」
「……は?」
「三百万貫だ」
義清が固まった。
「……三万貫、ではなく?」
「三百万貫だと言うておろう」
惟種は少しだけ得意げに胸を張った。
「今の阿蘇では、市や港、商いなどから年に動く銭がおよそ三百万貫になる」
「……さ、三百万貫……」
「無論、すべてが蔵に積まれておるわけではないぞ。商いへ回す分もあれば、領内の政に使う分もある。好き勝手に三百万貫をばら撒けるという意味ではない」
景虎も、珍しく驚きを隠せていなかった。
「……それほどの財を、阿蘇家が?」
「うむ。九州各地の市や港も整ってきたし、南蛮との商いも大きくなってきた。領内の産業も育っておるからな」
惟種は二人を見回した。
「本来、このようなことは明かさぬ。此度は両家を信じて話しておるのだ。他言は無用に願いたい」
景虎がゆっくりと頷く。
「……承知した」
義清も慌てて頭を下げた。
「無論にございます」
「それならばよい」
惟種は満足そうに頷き、思い出したように付け加えた。
「ああ、ちなみにだが、年貢米などは別だぞ」
「…………は?」
義清が再び固まった。
景虎は思わず宇佐美へ目を向けたが、宇佐美も言葉を失っている。
「……何という……家だ……」
(……ふふふ。少しは分かったか!)
惟種は少しばかり気分をよくした。
だが、ここで勘違いされても困る。
「ただし、村上殿」
「……はっ」
「阿蘇に財があるからといって、無限に銭を渡せるわけではない。ほかにも使い道は山ほどある」
惟種は義清をまっすぐ見た。
「必要なところを見定め、その分は助けよう。されど、村上家の国を立て直すのは村上殿自身にございます。わしが代わって政をすることはできぬからな」
「……承知しております」
「わしは、武田に屈せと申しておるのではない。今は兵を休め、民を養い、力を蓄えていただきたいのだ」
義清は、しばらく黙っていた。
「……阿蘇殿」
「うむ?」
「一つだけ、お聞きしたい」
「何でございましょう」
「なぜ、そこまでしていただけるのでございますか。我ら村上は、阿蘇家とは遠く離れた家にございます。これまで深い誼があったわけでもございませぬ」
惟種は少し考えた。
(公方様に押しつけられた。早く九州へ帰りたい。それに晴信へ意趣返しもしたい。……まあ、理由はいくらでもあるな)
「……そうだな。公方様より仰せつかった役目だから、というのが一番大きい」
惟種はそう答えた。
「だが、それだけでもない。村上殿が武田と争い続ければ、信濃の民はいつまでも苦しむ。武田の民とて同じことだ。できることなら、わしはそのような争いを減らしたい」
「…………」
「三年あれば、できることも多かろう。まずは生き残りなされ。その先は、国を立て直してから考えればよい」
義清は長く息を吐いた。
そして、景虎へ目を向ける。
「……長尾殿」
「うむ」
「某がこの条件を受け入れたとして、武田が約定を破った際には、力を貸していただけますか」
「勿論」
景虎は迷わず答えた。
「公方様の御意向による休戦を、武田が一方的に破るというのであれば、越後も黙ってはおらぬ」
「……かたじけない」
義清は深く頭を下げた。
しばらくして、惟種へ向き直る。
「……承知いたしました。三年間の休戦、その条件にて話を進めていただきたく存じます」
「うむ!」
惟種は大きく頷いた。
(……銭で済むなら安いものだ。だから早く帰らせろ!)




