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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百十五話 ご健勝のこと

 府内館の空気は、冷えていた。


 河野より使者が来た。


 その報せを受けた時、惟種は宗運と目を合わせた。


 早い。


 あまりにも早い。


 惟種たちが三間で襲われ、府内へ戻ったばかりである。


 河野が襲撃の報せを聞いてから使者を立てたのなら、まだ海の上にすらいないはずだった。


 それが、すでに府内の港へ入っている。


 襲撃より前から動いていた。


 そう考えるほかない。


「何者だ」


「河野家当主、河野通宣殿御自身にございます」


 控えの者の言葉に、広間の空気がさらに硬くなった。


 本人が来た。


 ただの使者ではない。


 火消しにしては重すぎる。


 友好を結びに来たというなら、あまりにも都合がよすぎる。


 惟種は、しばらく黙った。


 宗運も何も言わない。


 種茂は険しい顔をしている。


 親英も、義弘も、口を閉ざしていた。


「通せ」


 惟種が言うと、控えの者が頭を下げて退いた。


 しばらくして、廊下に足音が響いた。


 河野通宣は、供の者を連れて広間へ入った。


 落ち着いている。


 装束にも乱れはない。


 進物を持たせ、正式な使者としての体裁を整えていた。


 通宣は座へ進むと、深く頭を下げた。


「惟種殿。ご健勝のことと、お慶び申し上げまする」


 その瞬間、種茂が動いた。


「ご健勝だと!」


 鋭い声が、広間に響いた。


 手は刀へ伸びていない。


 だが、怒りは隠していなかった。


 阿蘇の当主が襲われた。


 虎松とその母も危うかった。


 土居清晴が命を張って時を稼いだ。


 その直後に、ご健勝。


 種茂が怒るのも無理はなかった。


「種茂」


 宗運の声が落ちた。


 怒鳴ってはいない。


 だが、その一言で場が止まった。


 種茂は歯を食いしばり、頭を下げた。


「……失礼いたしました」


 通宣は、わずかに眉を上げた。


 驚いたような顔である。


 いや。


 驚いたふりをしたのかもしれない。


「これはこれは。いったい、どういうことでございましょうか」


 惟種は、軽く手を振った。


「いや何、虫の居所が悪いだけよ。気にするな」


 宗運が、じっと惟種を見た。


 種茂も、親英も、義弘も、小七郎も、卜伝も、口を挟まない。


 この場は惟種に任せる。


 そういう空気になった。


 通宣は、苦い笑みを浮かべた。


「それは、まずい時に参ってしまいましたかな」


「いや」


 惟種は、通宣を見た。


「むしろ、都合がよいとも言える」


「ほう」


「通宣殿は、いつ湯築を発たれた」


 通宣の目が、ほんのわずかに動いた。


 だが、すぐに笑みを戻した。


「三日前にございます」


「三日前」


「はい。此度は阿蘇家と縁を結びたく、海を渡って参りました」


「襲撃より前だな」


 惟種は内心で呟いた。


 口には出さなかった。


 通宣が軽く合図すると、後ろに控えていた者たちが箱を並べた。


「我が領にて取れる鰮の塩漬け、紙、織物。それに、明より取り寄せました陶器にございます」


「ほう」


「ささやかな品ではございますが、お納めいただければ幸いにございます」


 確かに荷はある。


 見せかけだけではない。


 友好の使者として、前もって整えてきた品である。


 それだけは間違いなかった。


 惟種は、通宣を観察した。


 落ち着いている。


 だが、広間へ入った直後、惟種の姿を見た時。


 ほんの一瞬だけ、通宣の目が止まった。


 ご健勝のこと。


 あれは挨拶ではない。


 確認だったのではないか。


 生きていたか。


 そう確かめたようにも見えた。


「それで」


 惟種は言った。


「河野家は、阿蘇とどのような縁を結びたい」


 通宣は、改めて頭を下げた。


「此度の西園寺家との境のことにございます」


「聞こう」


「これにつきましては、我ら河野に義がございます」


 広間の空気が、わずかに硬くなった。


 種茂の目が細くなる。


 宗運は動かない。


「もとは、西園寺実充殿の境への押し込みより始まりました。我ら河野は、長く領地を奪われております。此度の動きは、奪われたものを取り戻したにすぎませぬ」


「なるほど」


「惟種殿は、義と理に厚き御方と聞き及んでおります」


 通宣は丁寧に続けた。


「ゆえに、河野の動きをお認めいただきたく、馳せ参じました」


 惟種は黙って通宣を見た。


 阿蘇が西園寺へ近づく前に、河野の正当性を認めさせる。


 それが表向きの目的だろう。


 そして、互いに領分へ立ち入らないという約を結ばせる。


 阿蘇を九州へ押し戻し、伊予へ手を伸ばさせない。


 通宣の狙いは、そこにある。


 だが。


 それだけなのか。


 宗運が静かに口を開いた。


「通宣殿」


「はい」


「若君が、西園寺家および三間土居家へ赴いていたことは、ご存じでしたか」


「いえ」


 通宣は、ゆっくりと首を横に振った。


「土佐一条家へ向かわれたとの噂は耳にしておりました。されど、西園寺家へ立ち寄られたことまでは存じませぬ」


「左様にございますか」


「はい」


 淀みがない。


 あらかじめ用意していた答えのようだった。


「では」


 宗運は続けた。


「黒瀬掃部助という者は、ご存じですな」


 通宣の表情は変わらなかった。


「もちろんにございます」


「どのような者で」


「境目の国人衆にございます。河野方に通じてはおりますが、我が直の家臣ではございませぬ」


 早い。


 宗運がまだ何も言っていないうちから、通宣は黒瀬との距離を置いた。


 惟種は、目を細めた。


「黒瀬が何かしたのか」


 通宣は、不思議そうに尋ねた。


 白々しい。


 種茂の肩が震えた。


「貴様……」


「種茂」


 宗運が止める。


 だが、今度は惟種が口を開いた。


「黒瀬勢三百に、襲われた」


 通宣の目が見開かれた。


「何と」


「三間土居の地でな」


「それは、まことにございますか」


「わしが嘘をついているとでも言うのか」


「滅相もございませぬ!」


 通宣は、慌てて両手を畳についた。


「しかし、黒瀬がなぜ阿蘇殿を」


「それを聞いている」


「それがしには、何も」


「阿蘇の旗を立てた」


 惟種は静かに言った。


「名も名乗った。それでも黒瀬勢は止まらなかった」


 通宣は何も答えない。


「虎松とその母もいた。土居清晴殿が命を張って防がねば、どうなっていたか分からぬ」


「……」


「黒瀬は、河野方に通じる者だな」


「それは、間違いございませぬ」


「ならば、説明せよ」


 通宣は、ゆっくりと顔を上げた。


「黒瀬は、我が直の配下ではございませぬ」


「先ほど聞いた」


「河野方に通じてはおります。されど、我が命で動く者ではございませぬ。境目の国人は、己の利で動く者も多うございます」


「ほう」


「まして阿蘇殿を襲うなど、それがしが命じるはずがございませぬ」


 通宣の声が強くなる。


「此度、それがしは友好の使者として参っております。進物も持参し、阿蘇家との縁を願うために来たのです。その裏で阿蘇殿を襲わせるなど、道理に合いませぬ」


 道理。


 なるほど。


 表向きは、そのとおりである。


 友好を求めて自ら府内へ赴きながら、同時に阿蘇の当主を襲わせる。


 普通に考えれば、あまりにも危険だった。


 だが、惟種が死ねばどうなる。


 阿蘇は当主を失う。


 九州では、平定されたばかりの諸家がざわめく。


 常備兵への切り替えも、文官による統治も、まだ根を張りきってはいない。


 内政は止まり、九州の立て直しに追われる。


 四国へ手を伸ばすどころではなくなる。


 そして通宣は、友好の使者として府内にいる。


 河野は何も知らなかった。


 まことに残念である。


 そう言って、阿蘇の次の当主へ近づけばよい。


 失敗しても、黒瀬へすべてを押しつければよい。


 通宣が本人でなければできぬ火消しであった。


「証拠は、あるのでしょうな」


 通宣が問うた。


 種茂が顔を上げる。


「証拠だと」


「河野が命じたという証にございます」


「黒瀬が襲ったことは事実だ!」


「それは否定しておりませぬ」


 通宣は種茂へ向き直った。


「されど、黒瀬が我が命で動いたという話は別でございましょう」


「貴様!」


「種茂」


 宗運の声が落ちる。


 種茂は歯を食いしばり、口を閉じた。


 通宣は、再び惟種へ頭を下げた。


「黒瀬が阿蘇殿へ弓を引いたことが事実であるならば、河野としても捨て置けませぬ」


「どのようにする」


「ただちに詮議を行いまする」


「詮議」


「はい。黒瀬へ使者を送り、事情を問いただします。もし、まことに阿蘇殿を害そうとしたのであれば、河野の名にかけて処断いたしまする」


 よく言う。


 惟種は、通宣を見た。


 黒瀬のもとへ使者を送る。


 事情を聞く。


 処断する。


 すべて、これから行うことのように話している。


 その時だった。


「申し上げます!」


 廊下の向こうから、切迫した声が響いた。


 広間の全員が、入口へ目を向けた。


 控えの者が戸を開く。


 泥と汗にまみれた使者が、転がるように広間へ入った。


 西園寺家の者だった。


「何事だ」


 惟種が問う。


 使者は一度、河野通宣へ目を向けた。


 それから、畳へ手をついた。


「黒瀬掃部助、残兵を率いて西園寺領へ攻め込みました!」


 広間が静まり返った。


「何だと」


 種茂が呟いた。


「黒瀬勢は、松葉城へ向けて進みましたが、西園寺勢と三間勢に囲まれ、壊滅。黒瀬掃部助以下、主立った者はことごとく討死したとのことにございます!」


 惟種は、何も言わなかった。


 宗運の目が細くなる。


「捕らえた者は」


「わずかにございます。されど、その多くは銭で集められた浪人や牢人にございます。黒瀬の命で加わっただけで、何も知らぬと」


「黒瀬の館は」


「火が上がっております」


「誰が火を放った」


「分かりませぬ。西園寺勢が着いた時には、すでに」


 出来すぎている。


 黒瀬は死んだ。


 側近も死んだ。


 兵の大半は、何も知らぬ雇われ者。


 館には火が放たれた。


 誰の命で阿蘇を襲ったのか。


 それを証すものは、何一つ残らない。


「何ということだ」


 通宣が呻いた。


 その顔には、驚きと怒りが浮かんでいた。


「黒瀬め。阿蘇殿のみならず、西園寺へまで弓を引くとは」


 通宣は、深く頭を下げた。


「惟種殿。これでは黒瀬が何を企んでいたのか、河野としても確かめようがございませぬ」


 声には痛恨が滲んでいる。


 だが。


 ほんの一瞬。


 通宣の肩から力が抜けた。


 安堵。


 惟種には、そう見えた。


「河野と西園寺を争わせ、その間に阿蘇殿まで害そうとしたのやもしれませぬ」


 通宣は続けた。


「黒瀬は河野方に通じる者ではございました。されど、このような企て、河野の望むところではございませぬ」


 すべてを黒瀬一人の企てとする。


 河野もまた黒瀬に欺かれた被害者。


 そういう話に持っていくつもりなのだ。


 宗運は、黒瀬討死を知らせる使者を見た。


 次に、河野通宣を見る。


 そして、小さく息を吐いた。


「図られましたな」


 惟種は、通宣から目を離さなかった。


「そんなものは知らん」


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同作者の別連載
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― 新着の感想 ―
黒瀬家はうちの陣営だけど、うちの家の奴じゃないから知らない、は流石に言い訳としては通らなそうですねぇ。現代的に言えば子会社の不始末は親会社にも管理監督責任って問われそうな気がします。 にしても阿蘇家が…
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