智と明②
天文二十年(一五五一年)八月。
越後、長尾家の御座所。
「……ほぇ?」
惟種は、思わず間の抜けた声を漏らした。
先ほど自分が口にした「はて? 何のことかな?」を、そのまま返されるとは思っていなかったのである。
長尾景虎は、口元に笑みを浮かべていた。
(……こやつ、なかなかやるではないか!)
惟種としては景虎に助言をしたつもりだったが、遠い越後まで来た以上、できればこちらが話の主導権を握り、公方様から押しつけられた仕事を早々に片づけたいという思惑もあった。
その景虎に、最後は自分の言葉でやり返されてしまったのである。
(……まさか、ああ返してくるとはなぁ)
とはいえ、景虎はこちらの話を聞く気になっている。それなら十分だった。
(……まあ、よい! こちらに有利に進みそうだからな!)
景虎は改めて姿勢を正した。
「さて、阿蘇殿」
「うむ?」
「奈落の統治については、なかなか興味深い話を聞かせていただいた。されど、此度の本題は武田晴信と村上義清の争いにございましょう」
「……そうだな」
「して、何かお考えはおありか?」
景虎の表情が引き締まった。
「武田も村上も容易ならざる相手じゃ。両家とも己の領地と家の存亡を懸けて争っておる。公方様の御意向とはいえ、簡単に兵を収めるとは思えぬが」
惟種は自信満々に頷いた。
「無論! まずは両家へ文を送る!」
「……文、でございますか?」
「そうだ。公方様の御意向を伝え、こちらから休戦の条件を示す。いきなり兵を動かす必要などあるまい」
惟種は、膝の上に置いた扇子を軽く叩いた。
「此度の争いでは、真田氏の旧領も問題となっておる。もともと真田の領地であった場所を、村上方が押さえておるのであろう?」
「……うむ。真田の旧領を巡っては、確かに複雑な事情がある」
「ならば、まずはそこを整理する。村上方がなお押さえておる真田旧領の一部を、武田方に属する真田氏へ返還してもらうのだ」
景虎は少し考え込んだ。
「……されど、それでは村上側が一方的に領地を失うことになりませぬか?」
「そうだな。だからこそ、それだけでは終わらせぬ」
惟種は続けた。
「武田には、その見返りとして三年間の休戦を約束させる。村上も同様だ。互いに兵を退き、その間は相手の領地へ攻め込まぬこととする」
「……三年」
「うむ。戦で荒れた田畑を戻し、家を建て直し、逃げた民を呼び戻す。そのための三年間という名目だ」
惟種は景虎を見た。
「武田としても、真田氏の旧領を取り戻せるうえ、兵を休ませて領内を整えられる。村上とて、これ以上戦を続ければ兵も民も疲れるばかりだ。三年あれば、態勢を立て直す時間にはなろう」
「……なるほど」
景虎は腕を組んだ。
「されど、阿蘇殿。村上義清は、そう容易に領地を返す男ではありませぬぞ」
「うむ。知っておる」
「武田もまた、三年の休戦を喜んで受け入れるとは限らぬ。勢いを得ておれば、そのまま兵を進めたくもなりましょう」
「それも承知しておる」
惟種は落ち着いて頷いた。
「だからこそ、まずは文を送るのだ。村上が応じるならば、それでよい。応じぬのであれば、次の手を考える。武田についても同じことよ」
「……ほう」
景虎の目がわずかに細くなった。
「して、その次の手とは?」
惟種は、ぴたりと動きを止めた。
(…………)
景虎は真剣な顔でこちらを見ている。
宇佐美定満も、戸次鑑連も、鍋島種茂も返答を待っていた。
惟種は、ゆっくりと扇子を開いた。
(……プランB? んなもんねえよ!)
まず文を出す。
駄目なら、その時に考えればよい。
(……わしは早く帰りたいのだ!)
もちろん、その本音を口にするわけにはいかない。
惟種は何食わぬ顔で扇子を畳んだ。
「……それは、相手の出方によって変わるな」
「……相手の出方?」
「うむ。村上が拒むのか、武田が拒むのか。それとも双方が条件の一部を変えたいと申すのか。それによって打つ手は変わるであろう?」
「……確かに」
「ゆえに、今ここで先の手を決めつける必要はない。まずは両家の返答を見てから考えるべきであろう」
惟種は、いかにも深い考えがあるかのように頷いた。
景虎も少し考えた後、納得したように頷く。
「……なるほど。まずは両家の考えを確かめ、そのうえで手を打つということか」
「そういうことだ!」
「うむ。初めから力を示すばかりが策ではあるまい。公方様の御意向もある以上、まず使いを出すのが筋であろうな」
(……よし! 何とかごまかせた!)
惟種は内心で大きく息を吐いた。
(……返事が来るまでは考えぬことにしよう!)
「長尾殿。まずは文の内容を整えたい。双方に示す条件については、宇佐美殿とも相談させてもらいたいのだが、よろしいか?」
「無論じゃ。宇佐美、頼めるか?」
「はっ。阿蘇殿の御意向を伺い、早速手配いたします」
「種茂も頼むぞ」
「承知いたしました」
「うむ。よろしく頼む」
惟種は満足そうに頷いた。
(……やはり、家臣とは素晴らしいものよな!)
◇
「さて、長尾殿」
惟種は改めて景虎へ向き直った。
「調停の件については、ひとまずそのように進めたいと思う。だが、一つだけ、はっきり申し上げておきたいことがある」
「……ほう。それは?」
景虎が興味深そうに身を乗り出した。
惟種は少しばかり表情を引き締める。
「此度の港の一件だ」
宇佐美の顔がわずかに強張った。
「長尾殿。あれは、そなたらの用意した演出として収めた。そこに異論はない」
「……うむ」
「だがな!」
惟種は勢いよく扇子を畳んだ。
「武田の透波が出てきたことまで、忘れたわけではないぞ!」
景虎が目を瞬かせる。
「……武田の透波、とな」
「そうだ! わしは、あやつらに危うく殺されるところだったのだぞ!」
口にしているうちに、惟種はだんだん腹が立ってきた。
「まったく! 九州からはるばるやって来て、公方様の御意向に従い、わざわざ両家の争いを収めようとしておるわしに忍びを差し向けるとは何事だ!」
「……うむ」
「晴信め! このような真似をして、ただで済むと思うなよ!」
「……阿蘇殿」
「それ相応の報いは、必ず受けてもらうからな!」
惟種は、とうとう立ち上がりかけた。
種茂が慌てて袖を引く。
それでも惟種は構わず声を張り上げた。
「わしは三代先まで覚えておくからなぁ!!」
景虎は、しばらく黙って惟種を見ていた。
そして、とうとう堪えきれなくなった。
「はっはっはっはっは!!」




