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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百十四話 火消しの使者

 府内の港に入った時、惟種は思わず目を細めた。


 港に、人が集まっていた。


 ただの出迎えではない。


 武装した者がいる。


 数は多くない。


 だが、明らかに急ぎ集められた手勢であった。


 その中央に、甲斐宗運が立っている。


 顔はいつも通りだった。


 静かである。


 だが、その目だけは、笑っていなかった。


「宗運」


 惟種が甲板から声をかけると、宗運は深く頭を下げた。


「若君。ご無事で何よりにございます」


 その声を聞いて、惟種は少しだけ肩の力が抜けた。


 やっと帰ってきた。


 そう思った。


 船が岸に寄せられる。


 板が渡され、虎松とその母、惟種、種茂たちが順に降りた。


 宗運は虎松とその母にも丁寧に頭を下げた。


「遠路、ようこそ阿蘇へ」


 虎松の母は静かに礼を返す。


 虎松は緊張した顔で、母の袖を握っていた。


 宗運はその姿を一瞥し、それから惟種へ視線を戻した。


「急報を受け、出せる者を集めました。港より船を出す用意もさせておりましたが」


「間に合わなかったな」


「はい」


 宗運は淡々と答えた。


「時が悪うございました」


 惟種は、宗運の後ろにいる手勢を見た。


 少ない。


 宗運が本気で動こうとして、これだけしかすぐに動かせない。


 それが、今の阿蘇の現実だった。


 九州は広い。


 府内も、肥後も、筑後も、日向も、まだ固めている途中である。


 兵を動かせば、どこかが薄くなる。


 森羅衆も、警邏方も、港の者も、好きに剥がせるものではない。


 惟種は、改めて思った。


 四国へ兵を出せぬ。


 それは、口実ではない。


 本当に、まだ出せぬのだ。


     ◇


 府内館に入ると、すぐに評定の場が設けられた。


 虎松とその母は、別室へ案内された。


 長旅と危難の直後である。


 まずは休ませるべきだった。


 惟種たちは、濡れた旅装を改める間も惜しみ、座に着いた。


 宗運。

 鍋島種茂。

 甲斐親英。

 塚原卜伝。

 島津義弘。

 愛洲小七郎。


 そのほか、急ぎ集められた者たち。


 空気は重い。


 宗運は、まず惟種へ深く頭を下げた。


「改めて申し上げます。若君、ご無事で何よりにございます」


「今回は危なかった」


 惟種は素直に言った。


「宗運の手の者がいなければ、船に間に合わなかったかもしれぬ」


「手の者は、置いておりました」


「うむ。助かった」


「ですが」


 宗運の視線が、種茂へ向いた。


 種茂の背筋が、わずかに伸びる。


「種茂」


「は」


 宗運の声は低かった。


 怒鳴らない。


 だからこそ、怖い。


「そなたは、何のために若君の側におる」


 種茂は、黙って頭を下げた。


「……返す言葉もございませぬ」


「私の代わりです」


 宗運は静かに言った。


「若君の周りを見、危うきを先に潰し、万一の時は身を盾にしてでも時を稼ぐ。そのために、そなたを側へ置いております」


「は」


「私の手の者を付けていた。知らせもあった。されど、若君はあそこまで危うき場に立たれた」


 種茂の額が、畳に近づく。


「申し訳ございませぬ」


「若君の命が第一」


 宗運の声は、さらに低くなった。


「文も、荷も、面目も、すべて後でよい。若君が失われれば、阿蘇は揺れます。九州も揺れます。それを忘れてはなりませぬ」


「肝に銘じます」


 場は静まり返っていた。


 惟種は、小さく息を吐いた。


「宗運、そこまでだ」


 宗運は、惟種を見た。


「ですが」


「叱るなとは言わぬ。種茂にも落ち度はある」


 種茂は頭を下げたままである。


「だが、助かったのも種茂が動いたからだ。あの場で乱れれば、もっと悪かった」


「……」


「今は、先を詰める」


 宗運は、しばらく黙った。


 そして、静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


 種茂は、なおも深く頭を下げていた。


 惟種は、少しだけ声を柔らかくした。


「種茂」


「は」


「次はないぞ」


「はっ」


「だが、今回の働きも忘れてはおらぬ」


「……ありがたきお言葉にございます」


 叱責の場は、そこで終わった。


 だが、種茂の顔は硬いままだった。


 おそらく、この叱責は効くだろう。


 宗運の静かな言葉は、下手な怒号よりよほど深く刺さる。


     ◇


「まずは、状況を確認する」


 宗運が言った。


「中村御所、土佐一条家、西園寺家、三間土居家。そして、河野方の襲撃。順にお願いいたします」


「うむ」


 惟種は、簡潔に話した。


 中村御所で一条兼定と会ったこと。

 一条房通の気配。

 土居宗珊から聞いた京の一条家の影。

 松葉城で西園寺実充と会い、米、金、武具、水軍の援助を約したこと。

 宇都宮氏の後ろに大内の影があること。

 河野氏の後ろに三好の影があること。

 河野氏が村上水軍と縁を結んでいること。

 そして、三間土居家から虎松とその母を預かったこと。


 宗運は、ほとんど表情を変えずに聞いた。


 だが、目だけは少しずつ細くなっていく。


「なるほど」


 一通り聞き終えると、宗運は短く言った。


「面倒なものを、よくもこれほど拾ってこられましたな」


「言い方」


「事実にございます」


「否定しにくい」


 惟種は、少しだけ視線を逸らした。


 小七郎が横で小さく笑った。


 宗運の視線がそちらへ向いた瞬間、小七郎はすっと真面目な顔になった。


 切り替えが早い。


 惟種は見なかったことにした。


     ◇


「さて」


 宗運は、文を置いた。


「本題は、黒瀬掃部助でございます」


 場の空気が変わる。


「河野方に属する末端国衆。手勢、およそ三百。阿蘇の一行が港へ向かうところを襲った」


「うむ」


「偶然とは思えませぬ」


「わしもだ」


 惟種は頷いた。


「あれは、明らかにこちらを狙っていた」


「左様でしょう」


 宗運は淡々と言った。


「普通に考えれば、自殺に近い振る舞いにございます。阿蘇家の若君を襲う。虎松殿とその母君もおられる一行を襲う。さらに阿蘇の旗が立ってなお止まらぬ。これは、宣戦布告と取られても仕方ありませぬ」


「河野本家の考えか」


「その疑いは濃うございます」


 宗運は静かに答えた。


「されど、証はまだ足りませぬ」


「黒瀬の単独行動ではないと」


「黒瀬ほどの末端国衆が、阿蘇の一行の動き、船の位置、土居家の護衛の数、嵐明けの出港時を正確に掴めたとは思えませぬ」


「内から漏れたか」


「西園寺家中、河野方の目、村上水軍の耳。いずれか、あるいはすべて」


 宗運は言葉を切った。


「もっとも、河野本家は、必ず火消しに走りましょう」


「火消し」


「はい」


 宗運の声は冷たい。


「あの場で若君を討てたならば、話は別です。討てば、後は混乱に乗じてどうとでも言うつもりだったのでしょう。黒瀬が勝手にやった。阿蘇が先に手を出した。土居家と揉めた。海賊であった。いくらでも言いようはございます」


「だが、失敗した」


「はい。しかも阿蘇の大筒で散らされ、若君は無事に府内へ戻られた」


「となると」


「河野は知らぬと言うでしょう。あるいは、黒瀬掃部助を罰する形を見せるやもしれませぬ」


「黒瀬を切るか」


「切って済むなら、安いものにございます」


 宗運の目が、さらに冷えた。


「ですが、それをそのまま受けるほど、阿蘇は軽くございませぬ」


 惟種は頷いた。


 同じことを考えていた。


 これは、ただの小競り合いではない。


 阿蘇の一行を狙った。


 虎松と母がいるところを狙った。


 土居清晴が命を張らなければ、どうなっていたか分からない。


 河野が知らぬで済む話ではない。


「叩くか」


 義弘が低く言った。


 目が鋭い。


 宗運は義弘を見た。


「お気持ちは分かります。ですが、すぐには動けませぬ」


「なぜです」


「動かせる兵が少ない」


 宗運は、惟種へ視線を戻した。


「若君。港にいた手勢を見ていただければ分かる通り、現在、兵は動かせませぬ」


「うむ」


「少なくとも、陸の森羅衆は」


 宗運は続けた。


「府内、肥後、筑後、日向、豊後の押さえ。警邏。道。蔵。帳。各地に手を置いております。いま大きく剥がせば、九州の内が緩みます」


「分かっている」


「海の者は出せます」


 親英がわずかに顔を上げた。


「ですが、それでも多くはありませぬ。阿蘇水軍は伸びておりますが、すべてを外へ出すことはできませぬ。博多、府内、日向、薩摩筋。押さえるべき水の道は多うございます」


「河野を叩くなら、村上水軍も出てくるか」


「必ず」


 宗運は即答した。


「河野を叩くとは、村上水軍を相手取るということにございます。さらに、その後ろに三好の影があるなら、面倒は倍では済みませぬ」


「厄介だな」


「厄介ですぞ」


 宗運は珍しく、少しだけ語気を強めた。


「若君。怒りはもっともにございます。私も、腹は立っております」


「そう見えぬ」


「顔に出さぬだけにございます」


 怖い。


 惟種は、そう思った。

 宗運が怒っている。


 静かに怒っている。


 こういう時の宗運が一番怖い。


「ですが、怒りで兵を出せば、相手の思う壺にございます」


「分かっている」


「まずは、河野の出方を見ます。次に黒瀬掃部助の扱いを見る。さらに、村上水軍の動きを探る。西園寺家への援助は急がせますが、表の名目は守るべきです」


「海路の見分と訓練」


「はい。訓練にございます」


 宗運がそう言うと、種茂が少しだけ顔を伏せた。


 惟種は見なかったことにした。


「それと」


 宗運は、淡々と続けた。


「土居清晴殿へは、すぐに礼を送るべきです。薬、金、武具。怪我人への手当ても含めて」


「それは命じた」


「さらに、清晴殿の働きを西園寺実充殿へ伝えましょう。あの場で阿蘇の若君を守ったという事実は、土居家の面目にもなります」


「うむ」


「虎松殿と母君の扱いも、丁重に」


「当然だ」


「人質としてではなく、学びの客として」


「分かっている」


「分かっているならよろしい」


 宗運の視線が痛い。


 惟種は少しだけ背筋を伸ばした。


     ◇


 その時だった。


 廊下の向こうから、足音が近づいた。


 急ぎの足音である。


 戸の外で声が上がった。


「申し上げます!」


 宗運が目を向ける。


「何事か」


「河野より、使者が参りました!」


 場が、一瞬静まり返った。


 惟種は、思わず宗運を見た。


 宗運も、惟種を見た。


「早いな」


 惟種が言う。


 宗運は、わずかに目を細めた。


「早すぎますな」


「火消しか」


「火消しでございましょう」


 宗運の声は、静かだった。


 だが、その奥に冷たいものがあった。


「使者の名は」


 宗運が問う。


 戸の外の者が、一瞬だけ声を詰まらせた。


「そ、それが」


「申せ」


「河野通宣殿にございます」


 今度こそ、場が凍った。


 惟種は眉を寄せた。


「通宣本人か」


「はい。河野家当主、通宣殿御自ら、友好の使者として参られたとのこと」


「友好」


 惟種は、思わずその言葉を繰り返した。


 友好。


 こちらは襲われたばかりである。


 虎松と母を連れた一行を狙われた。


 土居清晴が命を張った。


 阿蘇の旗を立てても、黒瀬勢は止まらなかった。


 それなのに、友好。


 あまりに白々しい。


 だが、それ以上に引っかかることがあった。


 早すぎる。


 あまりにも早すぎる。


 伊予で黒瀬が敗れた報せを聞き、それから河野通宣が船を出し、府内へ来た。


 そのような時の流れではない。


 そもそも、惟種たちの船が府内へ着いた直後である。


 この早さは、偶然ではない。


「宗運」


「はい」


「襲撃の後に出た使者ではないな」


「あり得ませぬ」


 宗運は即答した。


「では、元から近くにいたか」


「あるいは、初めから豊後筋へ船を寄せていたか」


「黒瀬が成功しても失敗しても、動けるように」


「そう見るべきでしょう」


 宗運の声は冷え切っていた。


「火がついてから水桶を持ってきたのではありませぬ。火がつく前から、水桶を抱えて待っていた火消しにございます」


 場の空気が、さらに重くなる。


 義弘の拳が、ぎり、と音を立てた。


 親英の目が細くなる。


 種茂は、静かに息を吐いた。


 小七郎は薄く笑っている。


 卜伝は、ただ静かに座っていた。  


 惟種は、ゆっくりと膝の上で拳を握った。


 河野通宣。

 友好の使者。

 あまりにも早い来訪。

 黒瀬掃部助。

 河野方。

 村上水軍。


 すべてが、一本の細い糸でつながっているように見えた。


 証はない。


 だが、臭い。


 あまりにも臭い。


「通せ」


 惟種は言った。


 声は、自分でも驚くほど低かった。


 そして、心の中で呟いた。


 河野。


 どう言い訳するつもりだ。


 阿蘇の旗を見ても止まらなかった黒瀬の刃。


 虎松の涙。

 清晴の覚悟。

 捨てた荷。


 そのすべてを、友好の挨拶で流せると思うなよ。


 宗運が静かに座り直した。


 種茂も顔を上げる。


 親英の目が細くなる。


 義弘は拳を握った。


 小七郎は、薄く笑っている。


 卜伝は、ただ静かに杯を置いた。


 府内館の空気が、また一段冷えた。


 河野通宣は、まだ姿を見せていない。


 だが、すでに戦は始まっている。


 刃ではなく、言葉の戦が。


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