第百八十三話 智と明①
天文二十年(一五五一年)八月。
越後、長尾家の御座所。
「今のおぬしでは、無理だな」
「……なっ!?」
長尾景虎の眉が、ぴくりと動いた。
景虎が口を開こうとしたところで、惟種は慌てて片手を上げた。
「おっと、待たれよ! まずは一つ、断っておきたいことがある」
「……何でございましょう」
「これから話すのは、あくまで奈落の統治についてだ。ゆえに、少々無礼講で頼むぞ」
「……奈落、でございますか?」
「そうだ。先に断っておかねば、どこぞの尾張の阿呆と同じことになってしまうからな!」
景虎は何のことか分からぬ様子で宇佐美定満へ目を向けたが、宇佐美も静かに首を傾げた。
「……尾張の阿呆とは、どなたのことでございましょう?」
「気にするな。少々、昔の話だ」
惟種はそう答えると、懐から一本の扇子を取り出した。
「実はな、その尾張の若造と話した折に、このようなものを作ったのだ」
「……扇子、にございますか?」
「うむ。まあ、見てくれ」
惟種が扇子を広げる。
そこには、大きく四つの文字が記されていた。
『天下布武』
景虎は、その文字をじっと見つめた。
「……天下布武」
「そうだ。武をもって天下に秩序をもたらす。なかなか勇ましい言葉であろう?」
「確かに。乱れた世を正すというのであれば、武もまた必要にございましょう」
「うむ。わしも、それを否定するつもりはない」
惟種は頷くと、今度は扇子を裏返した。
『民が笑って暮らせる世』
「……こちらは」
「わしが求めるものだ」
惟種は扇子を景虎へ向けた。
「長尾殿。どちらが阿蘇の考えで、どちらが尾張の若造の考えか、分かるか?」
「……阿蘇殿が求めておられるのは、民が笑って暮らせる世、ということでございましょう?」
「おお! さすがに分かるか!」
惟種は嬉しそうに笑った。
「そうだ。わしは、民が笑って暮らせる世を作りたい。腹いっぱい飯を食い、病になれば薬があり、子らが学び、大人も安心して働ける。そのような国を作りたいのだ」
「……なるほど」
「そのためには武も必要だ。敵が攻めてくれば守らねばならぬし、民を苦しめる者がおれば取り締まらねばならぬ。だが、武を振るうことそのものが目的になってはならぬと思っておる」
景虎は、黙って聞いていた。
惟種は扇子を膝の上へ置いた。
「さて、ここからが本題だ」
「……うむ」
「そのような世を作るには、何が必要だと思う?」
「まずは、国を治める者の覚悟でございましょう。正しき道を示し、民を守る。そのためにも、主たる者が義を貫かねばなりませぬ」
「うむ。それも大切だな」
惟種は素直に頷いた。
「だが、それだけでは足りぬ。どれほど立派な考えを持っておろうと、一人でできることなど、たかが知れておる」
「……ほう」
「だからこそ、臣下がおるのだ」
惟種は後ろに控える家臣たちへ目を向けた。
「わしで言えば宗運がおる。ここにいる鑑連や種茂、船を任せた親英もそうだ。皆がそれぞれの役目を果たしてくれるからこそ、阿蘇は成り立っておる」
鑑連は車椅子に座したまま、静かに聞いていた。
「わしは今、九州を離れて越後まで来ておる。だが、その間も阿蘇では田を耕し、市を開き、政を進める者たちがおる。わしがおらぬからといって、すべてが止まってしまっては困るからな」
惟種は少しだけ笑った。
「そもそも、わしが一人で何もかもできるのであれば、宗運にあれほど叱られることもないであろう」
種茂が、わずかに口元を緩める。
鑑連も一瞬だけ表情を和らげた。
「長尾殿にも、宇佐美殿をはじめ、頼もしい家臣がおられるのであろう?」
「無論にございます」
景虎は迷わず答えた。
「宇佐美は我が家にとって欠かすことのできぬ者。ほかの家臣たちも、それぞれに力を尽くしてくれております」
「うむ。見ておれば分かる。港での一件でも、宇佐美殿はすぐに事を収めようとしておられた」
宇佐美が静かに頭を下げる。
惟種は改めて景虎へ向き直った。
「長尾殿。これから少々、偉そうなことを申すぞ」
「……はい」
「わしは、そなたを好ましく思っておる。港では身を挺してわしを守ってくれた。その勇気にも、義を重んじる姿勢にも、心から敬意を抱いておる」
景虎の表情が、わずかに変わった。
「ゆえに、あえて申し上げたい。どうか、お考えを少し改めていただきたいのだ」
「……某の考えを、でございますか」
「うむ」
景虎は、しばらく惟種を見つめた。
「……承知いたしました。どうか続きをお聞かせくだされ」
「うむ。では、遠慮なく申すぞ」
惟種は扇子を畳んだ。
「臣下を頼ることだ。そして、働きに応じて賞し、その力を十分に生かさねばならぬ」
「それは、我らとて心がけております」
「そうであろうな。だが、わしには一つ気になることがある」
惟種は景虎をまっすぐ見た。
「おぬしは、臣下を信じておるのであろう?」
「無論」
景虎は即座に答えた。
「家臣たちの忠義を疑ったことなどない。彼らが力を尽くしてくれておるからこそ、わしも戦うことができる」
「うむ。それは分かる」
「ならば、何が気になると申される?」
惟種は少しだけ間を置いた。
「……信じることと、任せることは違うぞ」
景虎の眉が動いた。
「……どういう意味だ?」
「おぬしは家臣を信じておる。だが、大きなことが起これば、最後には必ず自分が動こうとしておらぬか?」
「…………」
「先ほども申しておったな。わしが先頭に立つ。わしが兵を率いれば、家臣たちも応えてくれる、と」
景虎は何も答えなかった。
「その覚悟は立派だ。だが、おぬしが背負わずともよいところまで背負ってはおらぬか?」
「家臣たちも、それぞれの役目を果たしておる」
「無論、そうであろう。だが、臣下を信じるのであれば、役目を任せ、働きに応じて賞し、誤りがあれば正す。そうして初めて、家臣も己で考えて動けるようになる」
惟種は宇佐美へ目を向けた。
「宇佐美殿ほどの方がおられるのだ。もっと頼ってもよいのではないか?」
宇佐美は何も答えなかった。
鑑連は、その姿を見ながら、ふと宗運を思った。若君がこうして九州を離れていられるのも、あの男が後ろを支えているからこそである。
景虎が静かに口を開いた。
「……では、阿蘇殿は、家臣にすべてを任せると申されるか?」
「すべてではない。最後に決めねばならぬことは、わしが決める。責を負うべき時には、わしが負う。それが当主の役目であろう」
「ならば、同じではないか」
「違うぞ」
惟種は首を振った。
「わしが倒れても、阿蘇は動かねばならぬのだ」
景虎は黙った。
「わしが病になったからといって、民が飯を食えなくなっては困る。わしが戦へ出たからといって、市も政も止まるようでは困る。たとえわしが死んでも、残された者たちが国を守り、民を養えるようにしておかねばならぬ」
惟種は、畳んだ扇子で膝を軽く叩いた。
「そのためには、家臣たちが己の役目を理解し、自ら考えて動けるようにする必要がある。いちいちおぬしの顔を見ずとも、やるべきことが分かるようにな」
「……なるほど」
「長尾殿。おぬしは強い。わしも、それは認めておる。だが、おぬし一人が強くとも、国そのものが強くなるとは限らぬ」
惟種は穏やかな声で続けた。
「おぬしが倒れれば、越後はどうなる? 家臣たちは誰の指示を待つ? その時、民はどうなる?」
景虎は、すぐには答えなかった。
「……先ほど、毘沙門天の御加護があれば、奈落の統治も難しくはないと申しておったな」
「うむ」
「ならば、その奈落を治めるために、鬼王が毎日走り回らねばならぬとしたら、どうだ?」
「……鬼王が?」
「そうだ。亡者が争えば鬼王が止め、道が壊れれば鬼王が直し、悪鬼が出れば鬼王が討ちに出る。それで奈落は治まるかもしれぬ」
「……ふむ」
「だが、その鬼王が眠っておる間はどうする? 病になったら? 戦で倒れたら?」
景虎は、そこで小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「鬼王には鬼王の役目があり、配下には配下の役目がある。それを分け、それぞれが働けるようにせねば、いつまで経っても鬼王一人が苦労するだけだ」
惟種は、景虎を見つめた。
「わしには、今のおぬしがその鬼王に見えるのだ」
座敷に静かな沈黙が落ちた。
景虎は答えず、しばらく考え込んだ。
やがて宇佐美へ目を向ける。
宇佐美は何も言わず、静かに頭を下げた。
景虎はその姿を見て、小さく笑った。
「……なるほど、なるほど」
そして、声を上げて笑い始めた。
「はっはっは! これは一本取られた!」
突然の笑い声に、長尾家の家臣たちが驚く。
惟種も少しばかり目を丸くした。
「……長尾殿?」
「いや、面白い! まこと、面白きことを申される!」
景虎は愉快そうに続けた。
「わしが強ければよいと思っておったが、それだけでは足りぬということか」
「そういうことだ」
「はっはっは! なるほどなぁ!」
景虎は再び笑った。
「奈落の統治者とは、なかなか難しいものよな!」
「そうだぞ! 地獄とて、一人で治められるものではないからな!」
惟種も嬉しそうに笑った。
やがて景虎は姿勢を正した。
「阿蘇殿。此度は、よいことを教えていただいた」
「……いえ」
「わしも、まだ学ばねばならぬことが多いようだ」
惟種は、そこで少しだけ気まずそうに目を逸らした。
(……少し言い過ぎたか?)
相手は、この越後の当主である。
しかも家臣たちが並ぶ御座所で、随分と偉そうなことを言ってしまった。
「……長尾殿」
「うむ?」
「先ほどは、随分と出過ぎたことを申しました。どうか、お許しくだされ」
惟種は丁寧に頭を下げた。
すると、景虎は不思議そうに首を傾げる。
そして、口元に笑みを浮かべた。
「はて? 何のことかな?」
「……ほぇ?」




