第二百十三話 阿蘇の旗を立てよ
三間土居家の館に、雨が叩きつけていた。
風は強い。
戸板が鳴り、庭木が大きく揺れる。
海へ出るどころではなかった。
西園寺家の港には、土佐より回していた阿蘇の大船が入っている。
だが、この風では船を出せない。
惟種たちは、予定を変え、土居家の館に足止めされることになった。
「申し訳ございませぬ」
土居清晴は、何度目か分からぬほど頭を下げた。
「この風では、いかに阿蘇の大船といえど危ううございます」
「清晴殿が詫びることではない」
惟種は、外の雨を見た。
「嵐に文句を言っても仕方ない」
「されど」
「虎松も奥方もいる。無理に出して海に投げ出される方が困る」
清晴は、静かに頷いた。
虎松は母の近くに座っている。
阿蘇へ行く支度は、すでに整えられていた。
小さな荷。
着物。
身の回りのもの。
母の手で整えられたものが、部屋の端に置かれている。
それを見るたびに、惟種は少しだけ胸が重くなった。
この子を連れて帰る。
この母も連れて帰る。
ただの帰路ではなくなっている。
◇
嵐は、二日ほど続いた。
その間、惟種は土居家に留まり、清晴と話を重ねた。
前線のこと。
落ちた小城のこと。
宇都宮氏の動き。
河野氏の動き。
村上水軍の影。
聞けば聞くほど、話は軽くない。
西園寺実充は、まだ言葉を選んでいたのだ。
清晴は、もっと切実なところを見ている。
虎松を出すのも、妻を同行させるのも、単なる学びや友好ではない。
血を外へ残す。
その意味が、少しずつ濃くなっていく。
惟種は、心の中で何度も同じことを呟いた。
宗運に、早く相談せねばならぬ。
だが、嵐は人の都合など聞かない。
雨は降り、風は吹き、海は荒れた。
◇
ようやく風が弱まったのは、三日目の朝だった。
空にはまだ雲が残っている。
だが、雨は細くなり、海の荒れも少しずつ収まりつつあるという。
港から使いが来た。
今日ならば、出られるかもしれない。
それを聞いた惟種は、すぐに支度を命じた。
「長居しすぎた。出られるなら出る」
種茂が頷く。
「承知しました」
親英も、港の方角を見ていた。
「潮を見ます。無理ならば止めますが、今を逃せばまた荒れるやもしれませぬ」
「頼む」
虎松と母も支度を終えた。
虎松は、少し緊張している。
母は落ち着いていた。
だが、その手は虎松の肩に置かれている。
清晴は、館の者たちへ声をかけた。
「惟種殿を港までお送りする。虎松と妻も同行する。護りを固めよ」
土居家の武士たちが、短く応じた。
多くはない。
清晴が連れて行ける手勢にも限りがある。
館を空にするわけにはいかない。
それでも、選ばれた者たちは皆、顔を引き締めていた。
惟種はそれを見て、軽く頷いた。
「世話になる」
「命に代えましても」
清晴は、そう答えた。
その言葉が、少し重かった。
◇
港へ向かう道は、ぬかるんでいた。
嵐の後である。
土は水を含み、ところどころで馬の足が滑る。
荷も重い。
虎松と母の荷。
惟種たちの荷。
西園寺家から受け取った文。
土居家から託された品。
そのすべてを運びながら、港へ向かう。
空気は湿っていた。
風はまだ残っている。
木々の葉から水が落ちる。
道の先には、薄く海の匂いがした。
港まで、あと少し。
そう思った時だった。
木陰から、一人の男が現れた。
泥を跳ね上げ、息を切らしている。
姿は粗末だ。
だが、惟種には分かった。
宗運の手の者である。
男は、種茂の前で膝をついた。
「急ぎ、お耳に」
種茂の顔が変わった。
男が短く何かを告げる。
次の瞬間、種茂は惟種へ振り向いた。
「殿」
「何だ」
「河野方の兵が迫っております」
惟種は、目を瞬かせた。
「は?」
「河野方に属する末端国衆、黒瀬掃部助。手勢、およそ三百」
「三百」
「こちらへ向かっております」
「嘘やん」
思わず、素の声が出た。
「いや、なぜこちらを狙う」
「河野本家の命か、黒瀬の功名か、あるいは誰かに焚きつけられたか。そこまでは分かりませぬ」
「やべえって」
また、声が漏れた。
今度は種茂も何も言わなかった。
実際、やばい。
阿蘇家の面々は旅装である。
具足を着けていない。
戦をする姿ではない。
土居家の手勢を合わせても、百には届かない。
それに、虎松と母がいる。
守るべき者がいる。
港までは近い。
だが、敵の方が速いかもしれない。
惟種は、一瞬だけ周囲を見た。
山。
道。
港。
海。
そして、虎松。
考える時間はない。
「急げ!」
惟種は叫んだ。
「船へ向かう! 荷は捨てよ!」
家臣たちが動く。
種茂がすぐに命令を継いだ。
「文箱と要の荷以外は捨てよ! 命を優先せよ!」
「高価なものもか!」
誰かが叫ぶ。
「命より高い荷はない!」
惟種が怒鳴った。
「捨てろ!」
荷が道端へ投げられる。
箱が転がり、布包みが泥に落ちる。
惟種は少しだけ胸が痛んだ。
あれ、結構高いやつもあった気がする。
だが、今はそれどころではない。
「阿蘇家の旗を立てよ!」
惟種はさらに叫んだ。
「隠すな! 見せつけろ! 阿蘇を襲っているのだと、相手に分からせよ!」
供の者が慌てて旗を広げる。
違い鷹の羽の旗が、湿った風の中で立った。
それを見た土居家の武士たちが、わずかに息を呑む。
阿蘇の旗。
九州を震わせた家の旗である。
だが、今はその旗が守りになる。
威圧になる。
相手の足を、少しでも鈍らせるための札になる。
◇
小七郎が惟種のそばへ寄った。
「殿」
「何だ」
「それがしが殿を」
「よい!」
惟種は即座に切った。
「とにかく走れ! 駄目な時は頼む!」
小七郎は、一瞬だけ笑った。
「承知!」
その笑みは、いつもの気さくなものではない。
刃の笑みだった。
義弘は悔しそうに周囲を見ている。
「殿、某は」
「虎松と奥方の近くにいろ!」
「はっ!」
親英は港の方角を見ていた。
「殿、急げば船に届きます」
「大筒は」
「覆いはかかっておりますが、出港準備の途中です。動かせます」
「なら勝てる」
惟種は言った。
「船に着けば勝てる」
問題は、そこまで持つかである。
◇
背後から、ざわめきが聞こえた。
黒瀬勢が見え始めたのだ。
先頭は、槍を持つ徒武者。
その後ろに弓。
数は多い。
三百ほど。
山道を抜け、港へ向かう惟種たちを追うように迫ってくる。
河野方に属する末端国衆、黒瀬掃部助。
河野本家の命かどうかは分からない。
だが、今この場ではどうでもよかった。
襲ってきている。
それだけで十分である。
土居清晴が、足を止めた。
「清晴殿!」
惟種が振り向く。
清晴は、すでに槍を取っていた。
「惟種殿は船へ!」
「何を」
「ここで止めます」
「無茶だ!」
「無茶をせねばならぬ時にございます!」
清晴の声が、嵐の残り風の中で響いた。
彼は、振り返らなかった。
ただ、土居家の武士たちへ向けて叫んだ。
「三間土居家に連なる者よ!」
土居勢が一斉に顔を上げる。
「ここが正念場ぞ!」
清晴は槍を掲げた。
「惟種殿を船へ届ける! 虎松と妻を逃がす! この場、命に代えても支えよ!」
「「「応!!!」」」
土居家の武士たちが応じた。
声は百に満たない。
だが、腹の底から出ていた。
虎松が、母の袖を握った。
「父上」
清晴は一度だけ、虎松を見た。
ほんの一瞬だった。
それでも、父の顔だった。
「虎松」
「はい」
「惟種殿のもとで、学べ」
虎松は泣きそうな顔になった。
母が、その肩を抱く。
清晴は、妻へも目を向けた。
「頼む」
それだけだった。
妻は、深く頷いた。
「ご武運を」
清晴は、惟種を見た。
「惟種殿」
「清晴殿」
「虎松と妻を、お願いいたす」
惟種は、歯を食いしばった。
ここで格好よく残ると言うのは簡単だ。
だが、惟種が残れば、虎松も母も危うくなる。
阿蘇の旗も、阿蘇の未来も、すべて危うくなる。
「分かった」
惟種は叫んだ。
「必ず守る!」
「ありがたき!」
清晴は笑った。
そして、背を向けた。
「土居の者ども! 盾を並べよ! 槍を前へ! 弓は敵の先頭を狙え!」
土居家の武士たちは、港へ続く道の手前で陣を敷いた。
防ぐためではない。
勝つためでもない。
時を稼ぐためである。
惟種を船へ。
虎松と母を船へ。
そのためだけの陣だった。
◇
惟種たちは走った。
泥を跳ね上げる。
濡れた道で足を取られる。
虎松の母は、虎松の手を引いていた。
義弘が横につく。
小七郎が後ろを見る。
卜伝は、いつの間にか最後尾にいた。
抜いていない。
ただ歩くように走っている。
だが、その背中を見て、誰も軽く追えないだろうと惟種は思った。
港が見えた。
阿蘇の大船がいる。
嵐の後の海に、黒い巨体を浮かべている。
阿蘇の最新型船。
海に浮く城。
その姿を見た瞬間、惟種の胸に少しだけ力が戻った。
「乗れ!」
親英が叫ぶ。
船手たちが板を渡し、縄を投げる。
虎松と母が先に上がる。
義弘が支える。
種茂が文箱を抱えて続く。
惟種も船へ駆け上がった。
甲板に足が着く。
その瞬間、背後から土居勢の怒号が聞こえた。
黒瀬勢が迫っている。
土居家の陣にぶつかろうとしている。
惟種は振り返った。
港の手前で、清晴たちが踏みとどまっている。
だが、多勢に無勢である。
押されるのは時間の問題だった。
「親英!」
「は!」
「大筒を出せ!」
親英の声が船上に響いた。
「大筒用意! 覆いを外せ! 右舷、港手前の敵後方を狙え!」
船手たちが走る。
覆いが外される。
黒い筒が姿を現す。
大筒。
火薬と鉄と木と人の手で作られた、阿蘇の怒り。
「前の土居勢を巻き込むな!」
惟種は叫んだ。
「敵の後ろだ! 後方を砕け! 退き道を揺らせ!」
「承知!」
親英が頷く。
「船を少し振れ! 狙いを取る!」
船が動く。
わずかに向きを変える。
帆ではない。
櫂と縄と舵で、港の内で船体を調整する。
嵐の後で海はまだ完全には静かでない。
だが、阿蘇の船手は動いた。
清晴の陣が、黒瀬勢に押され始めている。
槍と槍がぶつかる。
土居勢は踏みとどまる。
清晴の声が、港まで届いた。
「退くな! 惟種殿は船に乗られた! 今少し支えよ!」
惟種は、歯を食いしばった。
「急げ」
火縄が運ばれる。
火薬が詰められる。
弾が込められる。
親英が目を細めた。
「狙い、敵後方」
惟種は、甲板の縁に立った。
違い鷹の羽の旗が、船上で大きく翻っている。
黒瀬勢の何人かが、それに気づいたようだった。
だが、もう遅い。
「阿蘇の怒りを思い知れ!」
惟種は叫んだ。
「撃て!」
轟音が、港を裂いた。
空気が震えた。
虎松が母に抱きつく。
母は、その体を抱き締める。
大筒の弾は、土居勢の頭上を越え、黒瀬勢の後方に落ちた。
地面が跳ねる。
土が噴き上がる。
木片が飛び、石が舞う。
黒瀬勢の後ろが崩れた。
人が叫ぶ。
馬が暴れる。
何が起きたのか分からぬまま、敵兵が足を止める。
「次!」
親英が叫ぶ。
「次弾用意!」
惟種は息を吸った。
「前を巻き込むな! 横へ落とせ!」
二発目。
また轟音。
今度は敵の側面、道の脇を砕いた。
槍を並べていた兵たちが、恐怖で崩れる。
火。
煙。
音。
見たことのない暴力。
それが海から飛んでくる。
黒瀬勢の前進が止まった。
土居勢も、一瞬だけ呆然としていた。
だが、清晴がすぐに叫んだ。
「押せ! 今ぞ!」
土居家の武士たちが、気勢を上げた。
数は少ない。
だが、相手は乱れている。
正面の土居勢。
背後と側面を砕く大筒。
そして、船上に立つ阿蘇の旗。
黒瀬勢は耐えられなかった。
「阿蘇だ!」
「阿蘇家の怒りだ!」
「退け!」
誰かが叫んだ。
それが崩れの始まりだった。
黒瀬勢は、次々と後ろへ下がる。
下がる者にぶつかり、隊列が乱れる。
さらに三発目が、敵の後方の地面を砕いた。
もう、軍ではなかった。
人の群れが、ばらばらに散っていく。
清晴は追いすぎなかった。
深追いすれば、逆に危うい。
港を守り、虎松と妻を逃がす。
目的は、それで果たされた。
◇
煙が流れていく。
港には、火薬の匂いが満ちていた。
土居勢は荒い息をついている。
傷を負った者もいる。
だが、清晴は立っていた。
槍を支えにしながら、船を見上げる。
惟種は、甲板からその姿を見た。
「清晴殿!」
清晴は、ゆっくりと頭を下げた。
虎松が、船縁へ駆け寄ろうとした。
母が止める。
「父上!」
清晴は、遠くから虎松を見た。
そして、笑った。
声は届かない。
だが、口の形で分かった。
学べ。
そう言っていた。
虎松は、泣きそうな顔で頷いた。
惟種は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
土居清晴。
よい父であり、よい武士である。
この男を見捨てることはできない。
そう思った。
同時に、別の怒りも湧いてきた。
河野方。
黒瀬掃部助。
こちらが兵を出していないのを見て、狙ってきたのか。
虎松と母までいる一行を狙ったのか。
阿蘇の旗を見ても、止まらなかったのか。
惟種は、静かに拳を握った。
「河野め」
低く呟く。
「落とし前は、つけさせる」
種茂がそばに来た。
「殿」
「何だ」
「まずは出港を」
「分かっている」
「敵が散ったとはいえ、再び集まるやもしれませぬ」
「分かっている」
惟種は頷いた。
そして、少しだけ顔を歪めた。
「だがな」
「はい」
「捨てた荷の中に、結構高価なものもあったんだぞ」
種茂が、ものすごく微妙な顔をした。
「そこにございますか」
「そこにもある」
「命が無事で何よりにございます」
「それはそうだ」
惟種は、港の方を見た。
清晴たちが、まだ防衛の形を崩さずにいる。
阿蘇の船が港を離れるまで、最後まで見届けるつもりなのだろう。
惟種は、深く息を吸った。
「親英」
「は」
「船を出せ」
「承知」
「清晴殿へ、後で必ず礼を送る。それと、怪我人への薬もだ」
「心得ました」
「種茂」
「はい」
「宗運へ急ぎの文だ」
「内容は」
惟種は、遠ざかる港と、散っていく黒瀬勢の影を見た。
「西園寺家への援助を急がせる。水軍の見分も前倒しだ。それと」
「それと」
「河野方が阿蘇の一行を襲った」
種茂の目が細くなる。
「強い文になりますな」
「強くてよい」
惟種は、低く言った。
「阿蘇の怒りを、思い知らせる」
違い鷹の羽の旗が、嵐の名残の風に翻った。
船は、ゆっくりと港を離れていく。
その甲板の上で、虎松は母に抱かれながら、ずっと父のいる岸を見ていた。
惟種は、その小さな背を見て思った。
もう、これはただの援助では済まぬ。
西園寺家の火は、こちらの袖にまで燃え移った。




