第二百十二話 三間の芽
松葉城を辞した後、惟種たちは三間土居家の館へ向かった。
西園寺実充への挨拶は済ませた。
援助の話もした。
米。
金。
武具。
そして、水軍の見分と訓練。
阿蘇としては、かなり踏み込んだ。
それでも、兵は出さない。
阿蘇の旗を伊予に立てることもしない。
その線だけは守った。
守ったはずだった。
だが、惟種の胸には、まだ重いものが残っている。
宇都宮氏の後ろに大内。
河野氏の後ろに三好。
さらに村上水軍。
西園寺家は、思っていたよりも深い泥の中に足を取られている。
そのことを知ってしまった以上、ただ土居清晴の館へ寄って、虎松の顔を見て、帰ればよいという話ではなくなっていた。
惟種は馬上で小さく息を吐いた。
また、道が増えた。
宗運の声が、幻のように聞こえた気がした。
◇
三間土居家の館は、松葉城ほど大きくはない。
だが、よく締まった館だった。
門は堅い。
庭は整っている。
人の動きに無駄が少ない。
派手ではない。
しかし、家を守る者の気配がある。
土居清晴は、惟種たちを丁重に迎えた。
「惟種殿。ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ、世話になる」
惟種が答えると、清晴は深く頭を下げた。
館の内へ通されると、清晴の家族が待っていた。
まず、清晴の妻。
落ち着いた女である。
表情は穏やかだが、目は強い。
その横に、すでに元服した若者が二人。
土居治清。
そして、土居久清。
どちらも若いが、すでに武家の男として座っている。
清晴に似て、背筋がまっすぐだった。
さらに、その少し後ろに虎松がいた。
小さな体で、また一生懸命に背筋を伸ばしている。
惟種は、その姿を見て、自然と笑みが出た。
「虎松、先ほどの飴はうまかったか」
虎松は、ぱっと顔を上げた。
「はい! とても甘うございました!」
「そうか。ならばよい」
惟種は頷いた。
清晴の妻が、少し困ったように微笑む。
「惟種殿より賜った菓子、虎松はたいそう大事にしておりました」
「食べたのではないのか」
「一つ食べ、残りは包み直しておりました」
「ほう」
惟種は虎松を見る。
虎松は、少し恥ずかしそうにした。
「父上と母上と兄上たちにも、あとで分けようと思いまして」
惟種は、思わず目を細めた。
よい子である。
これはよい。
惟種の中で、虎松への評価がさらに上がった。
「よくできた子だ」
惟種が言うと、清晴が恐縮した。
「恐れ入りまする」
「褒めているのは虎松だ」
「なおさら恐れ多うございます」
清晴の妻は静かに頭を下げた。
治清と久清も、弟を見て少しだけ表情を緩めていた。
家の空気は、悪くない。
むしろ、温かい。
だが、その温かさの中に、どこか覚悟のようなものがある。
惟種は、それを感じた。
◇
挨拶が終わると、清晴は姿勢を正した。
「惟種殿」
「うむ」
「本日、改めてお願い申し上げたきことがございます」
「虎松のことだな」
惟種が先に言うと、清晴は静かに頷いた。
「はい」
虎松の肩が、わずかに動いた。
だが、逃げる様子はない。
清晴は続けた。
「以前申し上げました通り、虎松を阿蘇家にて学ばせていただきたく存じます」
「うむ」
「阿蘇の学び所。御家の政。道、蔵、兵、銭、人の見方。それらを、幼いうちに見せたいのです」
清晴の声は、真剣だった。
「この子に、ただ槍や刀だけを覚えさせたいのではございませぬ。国を見る目を持たせたい。人を支える術を学ばせたい」
惟種は、黙って聞いた。
清晴の言葉は、きれいごとだけではない。
本心である。
同時に、別の意味もある。
清晴は、それを隠さなかった。
「また、世の習いとしては、人質の意味も帯びましょう」
部屋の空気が少しだけ締まった。
清晴の妻は、目を伏せない。
治清と久清も、表情を引き締める。
虎松は、まだ幼い顔で清晴を見ている。
「阿蘇家と土居家、そして西園寺家との友好の証として、虎松をお預けしたい」
清晴は、深く頭を下げた。
「それがしの誠意として」
惟種は、すぐには答えなかった。
人質。
その言葉は重い。
もちろん、戦国の世では珍しいことではない。
むしろ、当然のように行われる。
だが、惟種にとっては、ただの人質では済まない。
虎松は、幼い。
まだ、惟種平飴を嬉しそうに食べる子である。
その子を預かるということは、命を預かるということだ。
未来を預かるということだ。
惟種は、虎松を見た。
「虎松」
「はい」
「お前は、それでよいのか」
虎松は、少しだけ緊張した顔になった。
だが、すぐに頷いた。
「はい」
「阿蘇は遠いぞ」
「はい」
「父や兄たちとは、しばらく会えぬかもしれぬ」
「はい」
「寂しくはないか」
虎松は、少しだけ唇を結んだ。
それから、小さな声で言った。
「寂しいです」
清晴が、わずかに目を伏せた。
治清と久清も、弟を見つめている。
虎松は続けた。
「でも、父上が学べと申されました。母上も、そばにいるから学べと申されました。兄上たちも、しっかりしてこいと」
そこで虎松は、惟種をまっすぐ見た。
「それに、惟種殿の飴は甘かったです」
惟種は、一瞬言葉に詰まった。
種茂が後ろで小さく咳払いした。
笑いを堪えたのかもしれない。
いや、たぶん違う。
惟種が変な顔をしたからだろう。
虎松は真剣だった。
甘い飴をくれた人。
だから、怖くない。
子どもらしい判断である。
だが、それはそれで重かった。
「そうか」
惟種は、柔らかく言った。
「ならば、責任をもって預かろう」
清晴が、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
清晴の妻も頭を下げる。
「虎松を、どうかよろしくお願いいたします」
「承った」
惟種は頷いた。
治清と久清も頭を下げた。
兄たちの顔には、複雑なものがあった。
弟を出す寂しさ。
だが、家のためには必要だという理解。
そして、どこか弟を誇る気持ち。
そういうものが混じっていた。
惟種は、それを見て思った。
よい家だ。
だからこそ、守るのは難しい。
◇
惟種の頭の中では、すでに別のことも動いていた。
万満丸。
又七郎。
そこへ虎松を加える。
年も近い。
身分も、学ばせる意味もある。
それぞれ別の家の子でありながら、阿蘇の学び所で共に育つ。
悪くない。
いや、かなりよい。
幼いうちに、阿蘇の政を見せる。
ただ武で勝つのではなく、道を作り、米を回し、銭を整え、人を救い、時に罰する。
そういう国の作り方を見せる。
虎松には、きっと合う。
惟種は、そう感じた。
「清晴殿」
「はい」
「虎松は、万満丸や又七郎と共に学ばせようと思う」
「それは」
「近しい年の者がいた方がよい。ひとりで置くより、よほど学びになる」
清晴の表情が、少しだけ和らいだ。
「ありがたきことにございます」
「ただし、甘やかしはせぬぞ」
「望むところにございます」
「泣いても、学ばせる」
「はい」
虎松が、少し不安そうにした。
惟種は笑った。
「泣いてもよい。泣いても、また学べばよい」
「はい」
虎松は、少し安心したように頷いた。
清晴の妻が、その姿を見て静かに目を伏せた。
母の顔だった。
惟種は、その顔を見て、軽くは扱えないと改めて思った。
◇
そこで、清晴が妻へ目を向けた。
「惟種殿。これも以前申し上げた通りにございますが」
「奥方のことだな」
「はい」
清晴は深く頷いた。
「虎松は、まだ幼うございます。遠き阿蘇へ一人でお預けするには、あまりに心許ない。ゆえに、妻もまた、しばらく虎松に付き添わせたく存じます」
惟種は、清晴の妻へ視線を向けた。
「奥方も、それでよいのか」
清晴の妻は、静かに頭を下げた。
「はい」
声は落ち着いていた。
「母として、幼き子を一人、遠き地へ出すわけには参りませぬ。阿蘇にて虎松が学ぶならば、しばらくは側にて支えとうございます」
「道中も楽ではないぞ」
「承知しております」
「阿蘇での暮らしも、この地とは違う」
「それも承知しております」
清晴の妻は、顔を上げた。
「されど、虎松だけを出すよりも、母が付き添う方が、この子も落ち着きましょう。また、土居家としても、それが誠意になると考えております」
惟種は、ゆっくりと頷いた。
以前、清晴から話は聞いていた。
虎松を阿蘇へ出す。
その際には、妻も同行させる。
幼い子を一人で遠国へ出すわけにはいかない。
それは当然だ。
当然ではある。
だが、こうして本人を前にすると、やはり重い。
虎松だけではない。
清晴の妻も出す。
それは、土居家が本気で阿蘇に縁を預けるということだ。
「分かった」
惟種は答えた。
「奥方にも、不自由はかける」
「覚悟しております」
「阿蘇に着けば、住まいと身の回りは整えさせる。虎松の学びについては、こちらで責任を持つ」
「ありがたく存じます」
「ただ、五つほどの子を一人で預かるほど、阿蘇も無茶はせぬ。奥方がいてくれるなら、こちらとしても助かる」
清晴の妻は、少しだけ表情を緩めた。
「その御言葉、ありがたく」
虎松は、母と惟種を交互に見ていた。
母も一緒に行く。
そのことが、彼の顔を少しだけ安心させている。
惟種は、それを見て思った。
やはり、一人では無理だな。
五つほどの子に、戦国の覚悟を背負わせるには、あまりに早い。
それでも背負わせねばならないのが、この時代である。
◇
話は、それで終わりではなかった。
清晴が、さらに頭を下げる。
「惟種殿」
「何だ」
「できれば、今回の御帰路にて、虎松と妻をお連れいただきたく存じます」
「今すぐか」
惟種は、思わず聞き返した。
「はい」
「急だな」
「承知しております」
「支度は」
「すでに進めております」
「進めていたのか」
「はい」
清晴は、まっすぐに答えた。
「此度、惟種殿がお越しくださると聞いた時から、家中にて話し合っておりました。妻にも、治清にも、久清にも、虎松にも」
惟種は、清晴の妻を見る。
彼女は静かに頷いた。
「衣、薬、身の回りのもの。虎松が道中困らぬよう、できる限り整えております」
「本当に、今日明日にでも出られるのか」
「はい」
清晴の妻は答えた。
「母としては、寂しゅうございます。されど、行くと決めた以上、迷いは持ちませぬ」
治清も口を開いた。
「虎松は、我らの弟にございます。されど、土居の子でもございます」
久清が続ける。
「家のため、学ぶべき時に学ぶべきかと」
虎松は、少しだけ胸を張った。
「行きます」
惟種は、しばらく黙った。
家族全員が、すでに覚悟している。
自分だけが、急に現実を突きつけられた形である。
だが、彼らにとっては急ではない。
ずっと考えていたことなのだ。
「そこまで厳しいのか」
惟種は、静かに問うた。
清晴の顔が、硬くなった。
「はい」
「松葉城でも聞いた。宇都宮氏、河野氏との争いは厳しいと」
「それ以上に、前線が削られております」
「どの程度だ」
清晴は、一度目を伏せた。
そして答えた。
「小城、出城を含め、すでに三つほど失っております」
惟種は、内心で固まった。
やばいやん。
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
もちろん、顔には出さない。
出してはいけない。
だが、思っていたよりも危ない。
本城級ではないにしても、前線の拠点が三つ落ちている。
それは、ただ苦しいという段階ではない。
削られている。
西園寺家の外側が、すでに食われ始めている。
惟種は、自分が少し軽く見ていたことを認めざるを得なかった。
「実充殿は、そこまで言わなかった」
「大殿として、外へ出す言葉を選ばれたのでしょう」
「清晴殿は、なぜ言う」
「虎松と妻をお預けする理由でございますゆえ」
清晴は、まっすぐ惟種を見た。
「友好の証。それは間違いございませぬ。ですが、それだけならば、もう少し時を置けたかもしれませぬ」
「今でなければならぬのか」
「はい」
清晴の声は低かった。
「次があるとは限りませぬ」
部屋が静まり返った。
虎松は、意味を完全には分かっていないのかもしれない。
だが、空気は感じている。
小さな手を膝の上で握っていた。
清晴の妻は、そっとその手の上に自分の手を重ねた。
惟種は、その手を見た。
まだ小さい。
その小さな手が、もう家の未来の一つとして外へ出される。
友好の証として。
血筋を残すために。
戦の重さを背負って。
そして、その幼い手を離さぬために、母もまた阿蘇へ向かう。
惟種は、静かに息を吐いた。
◇
数年後。
西園寺家とは、いずれ正式に同盟を結ぶことになるだろう。
少なくとも、惟種はそう見ている。
米、金、武具、水軍の援助。
そこまで踏み込めば、関係は深くなる。
時間をかけて、道を整え、荷を通し、海を見て、互いの利を重ねる。
その先で、同盟という形を取る。
それが自然だと思っていた。
だが。
数年後では、遅いかもしれない。
西園寺家が、その前に潰れるかもしれない。
いや、潰れぬまでも、土居家が削られるかもしれない。
虎松と母が外へ出る理由は、そこにある。
惟種は、軽く考えていた自分を恥じた。
西園寺家は苦しい。
そう分かっていたつもりだった。
だが、分かっていなかった。
「清晴殿」
「はい」
「援助は急がせる」
惟種は、はっきりと言った。
「米、金、武具。実充殿へ約したものは、できる限り早く動かす。水軍の件も、親英へ急がせる」
「ありがたく存じます」
「ただし、兵は出せぬ」
「承知しております」
「阿蘇の旗を立てることも、今はできぬ」
「それも承知しております」
「だが、見捨てはせぬ」
清晴は、深く頭を下げた。
清晴の妻も、治清も、久清も頭を下げる。
虎松も、少し遅れて慌てて頭を下げた。
惟種は、その姿を見て、胸の奥が重くなった。
また一つ、背負った。
虎松を預かる。
清晴の妻も預かる。
土居家との縁を深める。
西園寺家を支える。
宇和海を見る。
大内と三好の影を見る。
村上水軍を見る。
すべてが繋がっていく。
そして、その先には必ず宗運の顔がある。
惟種は、心の中で呟いた。
宗運に、早く相談せねばならぬな。
きっと、ものすごく嫌な顔をされる。
いや、顔には出さないかもしれない。
無表情で、静かに刺してくる。
それでも、相談しなければならない。
惟種は、虎松を見た。
「虎松」
「はい」
「阿蘇へ行くぞ」
「はい!」
「母上の言うことをよく聞け」
「はい!」
「よく食べろ」
「はい!」
「よく学べ」
「はい!」
「そして、どんどん育て」
虎松は、力強く頷いた。
惟種は、清晴の妻にも目を向けた。
「奥方」
「はい」
「道中は不自由をかける。阿蘇へ着いてからも、慣れぬことは多かろう」
「承知しております」
「だが、虎松のことは、こちらも責任を持つ」
「ありがたく存じます」
清晴の妻は、深く頭を下げた。
その横で、虎松は母の袖をそっと掴んでいた。
その姿は、まだ幼い。
だが、三間の小さな芽は、母に付き添われて阿蘇へ移されることになった。
それが、どのような木になるのか。
惟種にも、まだ分からなかった。




