第二百十一話 宇和の渦潮
その夜、松葉城では小さな宴が設けられた。
大きな宴ではない。
酒も、控えめである。
膳は整えられているが、華美ではない。
西園寺家の内が苦しいことは、城へ入るまでの道で惟種も見ていた。
だからこそ、この宴が精一杯の礼であることも分かった。
西園寺実充は、惟種の正面に座っていた。
昼間の広間で見せた焦りは、少しだけ薄れている。
兵は出せぬ。
だが、米、金、武具は添える。
惟種がそう言ったことで、実充はわずかに息をつけたのだろう。
しかし、疲れが消えたわけではない。
むしろ、酒が入った分、声の奥にあった切実さが見えやすくなっていた。
「惟種殿」
「うむ」
「昼のこと、改めて礼を申し上げまする」
実充は、深く頭を下げた。
「兵を出せぬこと、理解しております。されど、米、金、武具を支えていただけるだけでも、当家は大いに助かりまする」
「できる範囲でだ」
「承知しておりまする」
「過分に期待されても困る」
「分かっております」
実充はそう言った。
だが、目は分かっていない者の目ではない。
分かった上で、それでも期待を捨てられない者の目である。
惟種は、膳の上の椀に目を落とした。
期待は重い。
助けたい気持ちはある。
だが、助ければ縄になる。
それは、土佐一条家でも感じたことだった。
西園寺家もまた、別の形で阿蘇を四国へ引き込もうとしている。
いや。
西園寺実充は、引き込みたいのではない。
助かりたいのだ。
その違いは、大きい。
◇
「実充殿」
「はい」
「なぜ、そこまで押されている」
惟種は、あえて問うた。
「宇都宮氏、河野氏との争いが厳しいことは聞いた。だが、西園寺家がそこまで軽い家とも思えぬ」
実充は、杯を置いた。
少しだけ沈黙する。
そして、声を低くした。
「惟種殿には、隠しても仕方ありますまい」
「うむ」
「宇都宮氏の後ろには、大内の影がございます」
惟種の指が、止まった。
「大内」
「はい。表立って大軍が来るわけではございませぬ。されど、米、銭、武具、そして文。何かしらの支えが入っておりまする」
「陶か」
「そこまでは掴めませぬ。されど、大内筋の手があることは間違いありませぬ」
実充は続けた。
「そして、河野氏の後ろには三好の影がございます」
「三好」
今度は、種茂がわずかに顔を上げた。
親英も、静かに実充を見た。
「これもまた、表に三好の旗が立つわけではございませぬ。されど、河野氏の動きが近ごろ妙に強うございます。銭も、武具も、船の動きも。こちらの手が届かぬところで、何者かが支えている」
「それが三好か」
「おそらくは」
実充は苦い顔をした。
「宇都宮に大内。河野に三好。こちらは、その二つを相手に押し返さねばならぬ。西園寺の力だけでは、いかにも苦しゅうございます」
惟種は、静かに息を吸った。
大内。
三好。
その二つの名が、ここで出る。
偶然か。
考えすぎか。
だが、惟種の胸の奥に引っかかっていたものが、また動いた。
阿蘇が四国へ手を伸ばさぬよう、先に四国の火種を大きくしているのか。
西園寺を圧迫し、阿蘇を誘う。
阿蘇が動けば、九州の内が薄くなる。
阿蘇が動かねば、西園寺は削られる。
どちらに転んでも、阿蘇には負担となる。
考えすぎか。
だが。
大内と三好が、それぞれ西園寺の敵側に影を落としている。
それを、ただの偶然と見るには臭すぎる。
惟種は、杯に触れず、膳の上で指を組んだ。
「さながら、西園寺家を通しての代理戦争か」
小さく呟いたつもりだった。
だが、実充には聞こえたらしい。
「代理戦争」
「いや。こちらの考えだ」
「されど、言い得ております」
実充は、苦い声で言った。
「我らは宇都宮、河野と戦っている。されど、その向こうに別の家がいる。こちらがどれほど押し返しても、後ろから支えが入る。泥を掻いているようなものにございます」
「厄介だな」
「はい」
実充は短く答えた。
◇
「さらに、海でございます」
実充は続けた。
「河野氏の船手には、村上の一党の影がございまする」
その名を聞いた瞬間、惟種の目がわずかに動いた。
村上。
瀬戸内の海を渡る者たち。
胸の奥に、昔の不快な記憶が蘇る。
公方様を京へ送った時のこと。
惟種は、心の中で呟いた。
村上め。
いつか必ず、潰してやる。
もちろん、口には出さない。
出せば、場が荒れる。
だが、指先には力が入った。
「海路も厳しいのか」
「はい」
実充は頷いた。
「陸だけではございませぬ。船荷も、港も、海の道も、河野氏と村上筋の影で思うように動かせませぬ。こちらの船手は弱くはございませぬが、村上の者どもを相手にすれば、どうしても苦しゅうございます」
「なるほど」
惟種は、甲斐親英へ目を向けた。
「親英」
「は」
親英は、静かに身を正した。
「水の道については、当家に任せていただく」
惟種の声は穏やかだった。
だが、周囲の空気が少し変わった。
「阿蘇水軍に、訓練を兼ねて宇和海筋を見させる。西園寺家の船手とも合わせよ」
「承知」
「表向きは、海路の見分と訓練航海だ。荷の護送の確認も兼ねる。阿蘇が戦を運ぶのではない。だが、水の道を見ぬわけにはいかぬ」
「心得ました」
親英の目が鋭くなった。
海の話になった瞬間、この男の顔は変わる。
「西園寺家の船手と、合同で訓練を行います。港、潮、瀬戸、風、船溜まり。使えるところと危ういところを見分いたします」
「頼む」
実充が、驚いたように二人を見ていた。
「惟種殿」
「兵は出せぬ」
惟種は、実充へ向き直った。
「だが、海路の見分、荷の護送、船手の訓練ならば話は別だ。これは出兵ではない」
「しかし、それは」
「訓練だ」
惟種は言い切った。
「阿蘇水軍の訓練を兼ね、西園寺家の船手と合わせる。ついでに、宇和海の道を見る。それだけだ」
種茂が後ろで小さく息を吐いた。
またやっている。
そう思っているのが、気配で分かる。
惟種は振り返らない。
振り返ってはいけない。
「水軍への援助も、少なからず行わせていただく」
「水軍への」
「船具、帆、縄、矢玉、火薬。必要なら、船大工の手も少し回せる。大船を渡すわけにはいかぬが、船を保つための手は貸せる」
実充の顔が、はっきりと変わった。
米、金、武具。
それに加えて、海の助け。
これは大きい。
西園寺家にとって、陸の争いだけでなく海の圧も苦しい。
そこへ阿蘇水軍が訓練という名目で顔を出す。
村上筋にとっても、河野氏にとっても、軽く見られる話ではない。
「惟種殿」
実充は、深く頭を下げた。
「かたじけない。まこと、かたじけない」
「礼はまだ早い。こちらも見てからでなければ分からぬ」
「それでも、道が見えました」
実充の声は、少し震えていた。
「宇和の海を押さえられれば、当家はまだ戦えまする」
「戦うためだけではない」
惟種は言った。
「荷を通すためだ。米を運ぶためだ。銭を回すためだ。兵を飢えさせぬためだ。海は戦だけの道ではない」
「……まこと、その通りにございます」
実充は、深く頷いた。
◇
宴は、少しだけ空気を変えた。
昼間の広間ほど、張り詰めてはいない。
実充の言葉にも、わずかに力が戻っている。
清晴も、少しだけ安堵した顔をしていた。
種茂は、すでに頭の中で文を組んでいる顔である。
親英は、宇和海の風と潮を考えている。
義弘は、水軍の話に興味を示しながらも、どこか戦の匂いを嗅いでいる。
小七郎は酒を口にしながら、相変わらず人の動きを見ている。
卜伝は静かに杯を置いた。
惟種は、その中で一人、考えていた。
大内。
三好。
村上筋。
宇都宮氏。
河野氏。
西園寺家。
土佐一条家。
京の一条家。
線が、少しずつ繋がっていく。
確証はない。
だが、嫌な形が見えている。
阿蘇を直接叩かず、周辺で火を起こす。
阿蘇が善意で動かざるを得ない場所を作る。
動けば手を取られる。
動かなければ、縁ある者が削られる。
嫌な手だ。
だが、こちらもただ縛られるつもりはない。
陸には深入りしない。
だが、海を見る。
水の道を見れば、相手の腹も少しは見える。
村上筋。
その名を聞いた時、胸の奥に火がついた。
今すぐ潰すわけではない。
そんな余裕はない。
だが、いつか必ず水の道を正す。
海の上で、好き勝手に縄を張る者たちを、そのままにはしておかない。
「惟種殿」
実充が静かに呼んだ。
「うむ」
「昼は、拙い歌を詠みました」
「よき歌だった」
「ならば、今宵も一首」
実充は、杯を置き、少しだけ背筋を伸ばした。
宴の場が静かになる。
実充は、ゆっくりと詠んだ。
「巴なす
宇和の渦潮
しづめつつ
阿蘇の高嶺と
千代を契らむ」
巴のように巻く宇和の渦潮。
その乱れを鎮めながら、阿蘇の高嶺と末永く契りたい。
そういう歌である。
西園寺家の願い。
宇和の海を鎮めたいという願い。
阿蘇との縁を、長く保ちたいという願い。
惟種は、少しだけ目を細めた。
上手い。
追い詰められていても、言葉で縁を結びに来る。
惟種は杯を持ち上げた。
「よき歌だ」
「恐れ入ります」
「宇和の渦潮、見ておこう」
実充が、深く頭を下げた。
惟種は杯を口へ運びながら、心の中で呟いた。
西園寺家を通しての代理戦争。
そして、海の向こうには村上筋。
どうやら、土佐から伊予への道は、思った以上に面倒なところへ繋がっているらしい。




