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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百十話 違ひ羽の鷹

 松葉城の広間には、重い空気が満ちていた。


 茶は出されている。


 礼も尽くされている。


 西園寺実充の言葉も、決して粗くはない。


 だが、場の奥には焦りがあった。


 宇都宮氏。

 河野氏。

 領土を巡る争い。

 疲れた村。

 槍を持つ男たち。

 硬い顔をした家臣たち。


 それらが、広間の外からも染み込んでいるようだった。


 惟種は、正面に座る西園寺実充を見た。


 老いた武将、というほどではない。


 だが、疲れていた。


 年よりも深く刻まれた皺があり、目の奥には、長く家を背負ってきた者の重さがあった。


 それでも、目はまだ死んでいない。


 追い詰められている。


 疲れ切っている。


 それでも、どうにか自家を保とうとしている目だった。

「阿蘇殿」


 実充が口を開いた。


「率直に申し上げたい」


「うむ」


「我が西園寺家は、今、厳しきところにございます」


 実充の声は低い。


 広間の者たちが、わずかに息を呑んだ。


「宇都宮、河野。いずれも油断ならぬ。押せば押し返され、守れば削られる。領地は揺れ、兵は疲れ、村もまた疲れておりまする」


「見て分かる」


 惟種は静かに答えた。


 実充は頷いた。


「されど、阿蘇殿。御家は九州を静められた」


「静めたと言うには、まだ早い」


「それでも、我らから見れば十分に大きい。大友を押さえ、龍造寺、鍋島、相良、島津、名和。諸家を束ね、海を押さえ、銭と道を整えておられる」


「過分な言葉だ」


「過分ではござらぬ」


 実充は、身を少し乗り出した。


「九州を治められたならば、四国もまた、阿蘇殿のお力で静められましょう」


 来たか。


 惟種は、内心でそう思った。


 やはり、これは単なる挨拶ではない。


 阿蘇の名を聞き、阿蘇の力を見込み、何とか引き込みたい。


 西園寺実充は、そのためにこの場を設けている。


「今、阿蘇家が一手を伸ばしてくだされば、宇都宮も河野も軽々には動けますまい。いや、御家が介入してくだされば、一瞬で片が付くやもしれませぬ」


 実充の声には、切実さがあった。


「どうか、我らと同盟を。叶うならば、兵を」


 広間が、さらに重くなる。


 清晴は黙っている。


 西園寺家臣たちも、口を挟まない。


 だが、皆が惟種を見ていた。


 期待。

 焦り。

 不安。


 そのすべてが、視線になって刺さってくる。


 惟種は、ゆっくりと首を振った。


「無理だ」


 短い言葉だった。


 実充の顔が、わずかに強張る。


「阿蘇殿」


「西園寺殿。今の阿蘇は、九州を完全に安定させたわけではない」


 惟種は、言葉を選びながら続けた。


「府内はまだ固めている途上だ。肥後、豊後、日向、大隅、肥前、筑後、薩摩。どこも帳を整え、兵を整え、道を整えている最中にある。銭も、蔵も、人別も、まだ途中だ」


「されど」


「今、阿蘇が四国へ兵を出せば、九州の目が薄くなる」


 惟種は淡々と言った。


「阿蘇の兵は無尽蔵ではない。水軍も、兵糧も、銭も、ただ湧くものではない。ここで四国に深く入れば、九州の内が緩む」


「それほどに」


「それほどに、である」


 本当は、惟種の一存で決められないわけではない。


 阿蘇惟種は、今や九州の政を大きく動かす立場にいる。


 実際、決めようと思えば決められる。


 だが、それはできるからこそ危うい。


 西園寺家へ兵を出す。


 宇都宮、河野へ圧をかける。


 その瞬間、阿蘇は四国へ入る。


 土佐一条家にも響く。


 一条兼定にも、土居宗珊にも、そして京の一条房通にも響く。


 阿蘇式の統治を入れれば、西園寺領だけでは済まない。


 道を整え、銭を整え、蔵を整え、兵を帳に入れる。


 それは強い。


 だが、強いからこそ周囲を変える。


 今、四国でそれを始めれば、何もかもが広がりすぎる。


 惟種は、心の中でため息をついた。


 増やせない。


 これ以上、今は増やせない。


「ならば」


 実充が言った。


「ならば、西園寺家が阿蘇家へ恭順の意を示すと申せば」


 清晴の肩が、わずかに動いた。


 広間の空気が硬くなる。


 惟種は、顔には出さなかった。


 だが、内心ではさらに困った。


 それは、それで困る。


 今来られても困る。


 恭順を受けるとは、ただ名を受けることではない。


 守らねばならない。


 支えねばならない。


 税も、兵も、揉め事も、国衆の腹も、すべてがこちらへ来る。


 西園寺家を受けるなら、宇都宮氏、河野氏との争いも阿蘇の争いになる。


 土佐一条家との関係も揺れる。


 三間土居家の扱いも難しくなる。


 惟種は返答に詰まった。


 実充は、それを見たのだろう。


 膝の前に置いていた扇を、どん、と畳へ打った。


 音が広間に響く。


 次の瞬間、実充は歌を詠んだ。


「違ふ羽の

 鷹と名に負ふ

 阿蘇なれど

 風を恐れて

 空へも立たず」


 広間が凍った。


 あまりにも踏み込んだ歌である。


 違い鷹の羽。


 阿蘇の紋を踏まえた上で、鷹と名乗りながら風を恐れて飛ばぬのか、と詰っている。


 要するに、臆したのか、軟弱なのか、という意味である。


 言葉で言えば、外交問題である。


 だが、これは歌だ。


 とっさに出た歌。


 和歌を嗜む武将の、焦りと怒りと願いが混じった歌。


 惟種は、しばらく実充を見た。


 種茂が、後ろでわずかに動いた気配がある。

 義弘の空気も硬くなった。

 親英は息を殺している。

 小七郎は、少しだけ面白そうに目を細めた。

 卜伝は、ただ静かである。


 惟種は、ゆっくりと口元を上げた。


 よい気概だ。


 気に入った。


 追い詰められてなお、歌で噛みつくか。


 ただ縋るのではない。


 ただ泣きつくのでもない。


 阿蘇を詰り、自分の願いを押し込んできた。


 惟種は、嫌いではなかった。


 むしろ、好きな部類である。


 だから、返した。


「霧深き

 阿蘇の裾野も

 まだ晴れず

 君が露身を

 今は支へじ」


 実充の目が見開かれた。


 広間の空気が、わずかに動く。


 惟種の歌は、拒絶である。


 阿蘇の裾野には、まだ霧が深い。


 つまり、阿蘇の内もまだ晴れていない。


 だから今すぐ、西園寺の露のように危うい身を兵で支えることはできない。


 そう告げたのである。


 だが、ただの拒絶ではない。


 今は、である。


 実充は、それを受け取った。


 そして、すぐに返した。


「待つほどに

 露の命は

 消えもせで

 阿蘇と並びて

 花を見むやは」


 待てと言う。


 だが、待っている間に露の命は消えぬと言えるのか。


 その先に、阿蘇と並んで花を見る日が来るのか。


 そう問う歌であった。


 惟種は、内心で舌を巻いた。


 うまい。


 追い詰められているのに、返してくる。


 西園寺実充は、ただ焦っているだけではない。


 和歌を嗜む武将というのは、伊達ではないらしい。


 ならば、こちらも返す。


 惟種は、少し息を整えた。


「弓矢こそ

 越えぬ海路の

 兵なれや

 米金添へて

 君を支へむ」


 兵は出せない。


 海路を越えて阿蘇の軍勢を動かすことはできない。


 だが、弓矢、米、金ならば添えられる。


 それをもって、西園寺実充を支える。


 そういう歌である。


 広間の空気が、少しだけ緩んだ。


 完全な救いではない。


 実充の望み通りではない。


 同盟でもなければ、出兵でもない。


 だが、空手ではない。


 阿蘇は見捨てない。


 兵は出さぬが、米と金と武具で支える。


 それが、今の阿蘇にできる精一杯であった。


 実充は、しばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げた。


「……かたじけない」


 声が震えていた。


「阿蘇殿。ご無礼をお許しくだされ」


 惟種は、わざと首を傾げた。


「何のことだ」


 実充が顔を上げる。


「阿蘇殿」


「歌を詠み交わしただけであろう」


 惟種は、軽く笑った。


「武士が思いを歌に乗せる。よきことではないか」


 実充の顔が、かすかに歪んだ。

 安堵か。

 悔しさか。

 感謝か。


 おそらく、すべてである。


「兵糧と金、そして武具。できる範囲で整えよう」


 惟種は、歌の外で言った。


「ただし、兵は出せぬ。阿蘇の旗を伊予に立てることも、今はできぬ」


「承知いたしました」


「それで持たせてくれ」


「持たせまする」


 実充の声は、先ほどよりも落ち着いていた。


 完全に救われたわけではない。


 だが、何も得られなかったわけでもない。


 米。

 金。

 武具。


 それがあれば、兵を食わせられる。


 城を保てる。


 国衆を繋ぎ止められる。


 宇都宮、河野への備えにもなる。


 阿蘇の名を大きく掲げなくとも、阿蘇の支えがあると内々に示すことはできる。


 実充にとっては、それでも大きい。


 惟種は、そう読んだ。


 そして、後ろから小さなため息が聞こえた。


 種茂である。


 顔は見えない。


 だが、気配で分かる。


 ああ、またやっている。


 たぶん、そう思っている。


 惟種は、後ろを振り返らなかった。


 振り返れば、宗運に似た目と合う。


 それは避けたい。


     ◇


 話はそこで終わりではなかった。


 実充は改めて、今の西園寺家の状況を簡潔に語った。


 宇都宮氏との境。

 河野氏との緊張。

 兵糧の不足。

 銭の不足。

 矢玉、槍穂、鉄砲の不足。

 国衆の不安。


 それらは、どれも重い。


 惟種は、余計な約束を避けながら聞いた。


 種茂が後ろで文に控える。


 親英は、船と荷の量を頭の中で測っているだろう。


 義弘は、伊予の戦の匂いに目を鋭くしている。


 小七郎は、飄々としながらも場の人の動きを見ている。


 卜伝は、相変わらず静かだった。


 実充が一通り話し終えると、惟種は頷いた。


「まずは米だ」


「米でございますか」


「兵は腹が減れば動けぬ。村も同じだ。次に金。これは国衆の腹を繋ぐ。武具は、その次だ」


「武具より米を先に」


「当然だ」


 惟種は言った。


「腹を空かせた兵に、よい槍を持たせても倒れるだけだ」


 実充は、少しだけ目を伏せた。


「耳が痛い」


「わしも、よく宗運に言われる」


「甲斐宗運殿に」


「うむ。兵を動かす前に飯を考えよ、と」


「まこと、その通りにございますな」


「腹立たしいほどにな」


 実充が、そこで少しだけ笑った。


 初めて、場の空気がわずかに柔らかくなった。


 惟種も笑った。


 だが、心の中ではすでに別のことを考えている。


 米、金、武具。


 どれくらい出せる。

 どこから出す。

 府内からか。

 名和の船口からか。

 博多の商を通すか。

 西園寺へ直接渡すか、土居家を通すか。

 表に出すか、内々にするか。


 阿蘇の旗を出さず、しかし阿蘇の支えと分かる形。


 面倒だ。


 非常に面倒だ。


 だが、もう言った。


 歌で返した。


 口でも言った。


 つまり、やるしかない。


 惟種は、静かに息を吐いた。


 宗運。


 後は頼んだぞ。


 完全に丸投げする気で、惟種は心の中でそう呟いた。


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