第二百九話 惟種平飴
山道を抜けた先で待っていた土居清晴と虎松は、惟種らを丁重に迎えた。
夕刻にはまだ少し早い。
だが、山の影はすでに長く、風には土佐とは違う冷たさが混じっていた。
清晴は、惟種の姿を見ると深く頭を下げた。
「阿蘇殿。遠路、ようこそお越しくださいました」
その横で、小さな少年も慌てて頭を下げる。
「おこしくださいました」
虎松である。
背筋を伸ばし、父の隣に立っている。
まだ幼い。
だが、以前見た時よりも、少しだけ顔つきがしっかりしていた。
惟種は馬上からそれを見て、自然と頬が緩んだ。
「清晴殿、ご健勝かな」
「はっ。おかげさまをもちまして」
「虎松も元気そうでなにより!」
惟種は馬を降りると、虎松の前に立った。
虎松は、少し緊張した顔で見上げてくる。
惟種は笑った。
「うむ。どんどん育て!」
そう言って、懐から小さな包みを取り出した。
紙に包まれた菓子である。
砂糖を煮詰め、小さく固めたもの。
金平糖にはまだ遠いが、子どもに渡すには十分な甘さがある。
ただし、阿蘇ではなぜか別の名がついていた。
惟種平飴。
誰がそんな名を広めたのか。
だいたい見当はついている。
宗運め。
惟種は心の中で呟いた。
おそらく、子どもや客人へ渡すために宗運が整えさせたのだろう。
それ自体はありがたい。
ありがたいが、なぜ自分の名をつけるのか。
そこが納得いかない。
だが、今はそれを考える時ではない。
「ほれ、虎松。甘いぞ」
惟種が包みを差し出すと、土居清晴が慌てた。
「阿蘇殿、そのようなものを! 恐れ多いことでございます!」
「子に菓子をやるのに、恐れ多いも何もあるまい」
「しかし」
「虎松」
惟種が呼ぶと、虎松はぱっと顔を上げた。
「いるか」
「いる!」
清晴が目を見開いた。
「虎松!」
だが、虎松はすでに小さな手を伸ばしていた。
惟種から包みを受け取ると、ぱっと顔を明るくする。
「ありがとう!」
子どもらしい声だった。
惟種は、思わず笑った。
「うむ。よく食べ、よく学び、よく育て」
「はい!」
虎松は嬉しそうに頷いた。
清晴は、恐縮しきった顔で頭を下げる。
「まこと、恐れ入りまする」
「よい。虎松に会うと分かっていたから持ってきたのだ」
「それは、なおさら」
「気にするな」
惟種は虎松を見た。
小さな包みを大事そうに両手で持っている。
まだ開けない。
父の顔を見て、食べてよいか迷っている。
清晴が困ったように頷くと、虎松はようやく包みを開いた。
小さな砂糖菓子を一つ口に入れる。
すると、目が丸くなった。
「甘い!」
「そうであろう」
「すごく甘い!」
「うむ。阿蘇の飴だ」
「阿蘇の飴」
「惟種平飴、とも言うらしい」
「これたねひらあめ!」
虎松は、嬉しそうに繰り返した。
惟種は少しだけ遠い目になった。
広まるな。
その名は広まるな。
だが、虎松が嬉しそうなので、何も言えなかった。
◇
しばらくして、清晴は姿勢を正した。
「阿蘇殿」
「うむ」
「本来であれば、このまま我が館へお迎えしたいところにございます。されど、その前に、どうしてもお目通りいただきたい御方がございます」
「西園寺実充殿か」
「はい」
清晴は深く頷いた。
「我ら土居家は、西園寺家に属する身。阿蘇殿がこの地へお越しくださった以上、まずは大殿にお会いいただくのが筋にございます」
「それはそうだな」
惟種は素直に頷いた。
土居清晴と虎松に用がある。
それは確かである。
だが、ここは西園寺領である。
土居家だけを訪ね、大殿である西園寺実充を飛ばすのは、さすがによろしくない。
清晴の立場も悪くなる。
西園寺家中にも、余計な火種が生まれる。
「実充殿を飛ばすのは、僭越というものだ」
「御理解いただき、ありがたく存じまする」
「松葉城か」
「はい。ご案内いたします」
惟種は軽く頷いた。
「頼む」
清晴は、ほっとしたように頭を下げた。
虎松は、その横でまだ惟種飴を大事そうに持っている。
惟種はそれを見て、少しだけ笑った。
小さな菓子一つで、子どもの顔は明るくなる。
ならば、大人の顔を明るくするものは何だろうか。
米か。
銭か。
兵か。
名か。
面目か。
そんなことを考えながら、惟種は馬に乗った。
◇
松葉城へ向かう道は、中村から来た山道とはまた違った空気をまとっていた。
道そのものが荒れているわけではない。
むしろ、城へ続く道として、ある程度は整えられている。
だが、人の顔が硬い。
村の入り口に立つ者の目が疲れている。
田の脇には、鍬を持つ者だけでなく、槍を持つ者の姿もある。
若い男の数が少ない村もあった。
城へ近づくほど、武者の気配が増えていく。
歓迎の備えではある。
だが、それだけではない。
この地そのものが、少し疲れている。
惟種はそう感じた。
「清晴殿」
「はい」
「宇都宮氏、河野氏とのことか」
清晴の顔が、わずかに硬くなった。
「お耳に入っておりましたか」
「多少は」
「はい。領土を巡る争いは、いまだ軽くございませぬ。こちらが押せば、あちらが動く。あちらが動けば、こちらも備えねばならぬ。村も、兵も、国衆も、気を休める間が少のうございます」
「なるほど」
惟種は、周囲を見た。
敵意ではない。
阿蘇に対する敵意があるわけではない。
むしろ、期待されているようにも見える。
だが、その期待が重い。
阿蘇が来た。
九州を静めた若君が来た。
この来訪を、何とかよい流れに変えられないか。
そう願う空気がある。
願いは、時に圧になる。
惟種は、それを感じて少しだけ息を吐いた。
「殿」
種茂が馬を寄せた。
「何だ」
「敵意ではなさそうにございます」
「うむ」
「ただ、切迫しております」
「分かる」
「阿蘇の名に期待している者も多いかと」
「厄介だな」
「はい」
種茂は否定しなかった。
惟種は苦笑した。
中村御所では、一条房通が綺麗な言葉で阿蘇を四国に縛ろうとしてきた。
こちらでは、もっと直接的に、領内の疲れと期待が空気となっている。
どちらも縄である。
ただし、質が違う。
一条房通の縄は、京の理と家の格で編んだもの。
西園寺領の縄は、疲れた土地と人の願いで編まれたもの。
惟種は、どちらも軽く扱えなかった。
◇
松葉城は、山の上に構えられていた。
大きさだけでいえば、阿蘇が今見ている城々の中では抜きん出たものではない。
だが、地に合っている。
山の形を使い、道を絞り、守るべきところを守る。
その実用の気配が強い城だった。
城へ入ると、礼は整っていた。
迎えの者もいる。
部屋も用意されている。
茶も出された。
ただし、空気は柔らかくない。
歓迎していないわけではない。
むしろ、歓迎している。
そのために整えている。
だが、皆の顔に余裕がない。
笑みが硬い。
言葉が少し沈む。
阿蘇を迎える緊張。
それだけではない。
この地の争いが、城の空気にまで染み込んでいる。
惟種は、座に通される前に小さく呟いた。
「重いな」
義弘が横で頷いた。
「戦の匂いが残っております」
「分かるか」
「はい」
義弘の顔は真剣だった。
先ほどまで虎松を見て柔らかくなっていた顔とは違う。
武の者の顔である。
親英も、静かに周囲を見ている。
小七郎は、いつもの気さくな笑みを薄めていた。
卜伝は、何も言わない。
ただ、城の気配を見ている。
種茂は文箱を抱え、惟種の少し後ろに控えた。
その目は、すでに宗運に近い。
惟種は、少しだけ肩を落としたくなった。
また面倒なことになりそうだ。
◇
広間に通されると、西園寺実充が待っていた。
年を重ねた男である。
顔には疲れがある。
だが、目はまだ鈍っていない。
礼は丁寧だった。
粗さはない。
阿蘇を軽んじている様子もない。
むしろ、よく整えて迎えようとしているのが分かる。
「阿蘇殿」
実充が口を開いた。
「遠路、ようこそ松葉城へお越しくだされた」
「阿蘇惟種にございます。此度は、突然の訪いにもかかわらず、お目通りをお許しいただき、ありがたく存じます」
惟種は丁寧に頭を下げた。
実充も頷く。
「土佐一条家へ赴かれた帰りと聞いております。さらに我が地へ足を運んでくだされたこと、まことにありがたい」
「土居清晴より、まずは西園寺殿にご挨拶をと伺いました。筋を通すのは当然にございます」
実充の目が、少しだけ清晴へ向いた。
清晴は静かに頭を下げている。
その横に虎松はいない。
さすがに、この場には下げられていた。
実充は、ゆっくりと息を吐くように言った。
「清晴は、よく気を回す」
「そのように見えます」
「土居家は、我が家にとって大事な家にございます」
その言葉には、重みがあった。
ただの褒め言葉ではない。
手放せない。
軽く扱えない。
阿蘇に勝手に持っていかれては困る。
そういう響きも混じっているように、惟種には聞こえた。
だが、敵意ではない。
警戒とも違う。
焦りだ。
領内が落ち着かず、周囲との争いが続く中で、土居家のような柱を失うわけにはいかない。
そして同時に、阿蘇との縁も欲しい。
その両方を抱えている。
実充は、惟種を見た。
「阿蘇殿の御名は、伊予にも聞こえております。九州を静め、海を渡り、土佐一条家にも迎えられた若き御方」
「過分なお言葉にございます」
「過分ではござらぬ」
実充の声は静かだった。
だが、どこか切実だった。
「今の世、力ある者が道を作り、銭を整え、兵を収めるなど、そうそうできることではござらぬ」
惟種は、表情を変えなかった。
だが、内心では小さく身構えた。
これは、単なる挨拶ではない。
この言葉の先には、何かがある。
宇都宮氏。
河野氏。
領土争い。
疲れた村。
硬い武者の顔。
土居清晴。
虎松。
それらが、頭の中で繋がっていく。
西園寺実充は、阿蘇を嫌っているわけではない。
むしろ、来訪を好機にしたい。
だが、好機にしたいからこそ、場が張りつめている。
失敗できない。
軽く扱えない。
西園寺家にとって、阿蘇惟種の来訪は、それほど重い札になっている。
惟種は、静かに息を吸った。
虎松に渡した惟種飴の甘さは、もう遠い。
目の前には、疲れた国と、焦る大殿がいる。
これは、単なるもてなしでは済まぬな。
惟種は、そう思った。




