第二百八話 悪さをする虫
中村御所を離れたのは、翌朝のことであった。
土居宗珊は、最後まで丁寧であった。
表向きは、土佐一条家としての見送り。
だが、惟種には分かる。
あれは、ただの見送りではない。
宗珊なりの礼であり、詫びであり、そして願いであった。
土佐を見た。
兼定を見た。
一条房通も見た。
そして、宗珊の腹も聞いた。
華やかな中村御所の奥にある影。
京より伸びる手。
阿蘇を土佐で縛ろうとする何か。
それを考えると、胸の奥が少し重くなる。
だが、いつまでも中村に留まるわけにはいかない。
次は、伊予である。
三間土居家。
土居清晴。
そして、虎松。
馬は、土佐一条家が用立ててくれたものだった。
阿蘇の船は親英の手の者に預け、先の港へ回す手筈にしてある。
親英自身は、惟種の側についた。
惟種は、馬上で小さく息を吐いた。
また道が増えたな。
宗運に言われる前から、自分でも分かっている。
◇
中村を離れ、西園寺領へ向かう道は、阿蘇領内の道とは違っていた。
道幅が狭い。
山が近い。
木々の影が濃い。
人家も、続いているわけではない。
ところどころに村はある。
だが、その間が長い。
峠に差しかかれば、見通しも悪くなる。
阿蘇領内では、道が整えられてきている。
警邏方もいる。
人別帳も進み、町や市には目も置かれている。
少なくとも、主要な道であれば、怪しい者が堂々と動きにくくなっている。
もちろん、完全ではない。
完全ではないが、以前とは違う。
それに比べると、この道はまだ荒い。
国境。
山道。
小さな村。
地侍。
物取り。
間者。
そうしたものが、木の陰や曲がり道の先に潜んでいてもおかしくない。
惟種は、改めて思った。
九州の内は、随分と整ってきていたのだな。
それを外に出て、ようやく実感する。
「若君」
種茂が、馬を寄せてきた。
「何だ」
「少し、道が悪うございます」
「うむ」
「警固を厚くしたいところですが」
「できぬな」
「はい」
大人数で動けば、安全は増す。
だが、そうすれば威圧になる。
土佐一条家を訪ね、さらに西園寺領へ入ろうとしている阿蘇が、大勢の兵を連れて山道を進む。
それは、どう見ても穏やかではない。
だからこそ、少人数で動いている。
鍋島種茂。
甲斐親英。
塚原卜伝。
島津義弘。
愛洲小七郎。
そして、最低限の供回り。
腕の立つ者は揃っている。
だが、数は少ない。
「宗運の手の者もいるのだろう」
「おります」
種茂は短く答えた。
「ですが、ここは他国にございます。阿蘇領内ほどには動けませぬ」
「そうか」
「はい。地の者ではございませぬので」
惟種は頷いた。
それも当然である。
いかに宗運の手の者が優れていても、知らぬ山、知らぬ村、知らぬ道では本調子にはならない。
この地には、この地の目がある。
この地の腹がある。
それを無視して動けば、すぐに足を取られる。
惟種は、少しだけ眉を寄せた。
「面倒だな」
「はい」
種茂は否定しなかった。
◇
そんな中で、一番自由に動いている男がいた。
愛洲小七郎である。
「あちら、少し見て参ります」
そう言って、小七郎はふらりと道を外れた。
惟種は目を瞬かせた。
「どこへ行く」
「よき景色が見られそうにございますので」
「今か」
「すぐ戻りまする」
そう言って、木の間へ消えた。
しばらくすると、本当に戻ってくる。
何食わぬ顔で。
「良い景色であったか」
「はい。なかなか」
「そうか」
その少し後だった。
また、小七郎がふらりと離れた。
「今度は何だ」
「少々、用を足して参ります」
「さっき行け」
「人の腹は、思うようにはなりませぬ」
「それはそうだが」
「すぐ戻りまする」
そして、また消えた。
戻ってきた時、小七郎の袖には少し葉がついていた。
足元には土もある。
惟種は、それを見て首を傾げた。
「ずいぶん奥まで行ったのか」
「よき場所を探しておりましたので」
「用を足すのにか」
「礼を失してはなりませぬゆえ」
「そういうものか」
よく分からない。
だが、小七郎は平然としている。
気さくで、悪びれない。
本当にふらふらする男である。
惟種は、少しだけ遠い目になった。
「本当、ふらふらするな」
小さく呟く。
種茂は、黙って小七郎を見ていた。
その目は笑っていない。
義弘は、逆に少し身を乗り出している。
「若君」
「何だ、義弘」
「某も、小七郎殿について行きましょうか」
「なぜ」
「山道の見分も、学びになります」
「学びという言葉を使えば何でも許されると思うな」
「しかし、足運びを見たいのです」
「それは本音だな」
「はい」
義弘の目は輝いていた。
困ったものである。
親英は、そんなやり取りを横目に見ながら、無言で惟種の近くへ寄った。
海の男である親英は、山道では目立たない。
だが、危うい空気は読める。
惟種の近くに立つだけで、守りの厚みが変わる。
卜伝は、何も言わずに進んでいた。
小七郎が消えても、戻ってきても、特に止めない。
ただ、静かに道を見ている。
その姿が一番怖い。
きっと、卜伝は分かっている。
分かっていて、黙っている。
惟種は、そう感じた。
◇
昼を過ぎた頃、道はさらに細くなった。
片側は山の斜面。
もう片側は浅い谷。
木々が迫り、風も通りにくい。
そこでまた、小七郎が足を止めた。
「若君」
「何だ」
「少し、あちらへ」
「またか」
「はい」
「便所か」
「そのようなものにございます」
「薬、要るか」
惟種は真面目に聞いた。
何度も離れる。
腹の調子が悪いのかもしれない。
旅先では水も変わる。
食も変わる。
腹を壊すのは珍しくない。
惟種がそう考えていると、小七郎はにこりと笑った。
「お気遣い、感謝いたしまする」
「本当に大丈夫か」
「何分、悪さをする虫がいるもので」
「虫か」
惟種は真剣に考えた。
この時代、寄生虫は珍しくない。
むしろ、かなり普通にいる。
水、土、魚、野菜。
どこからでも入る。
腹の虫。
虫下し。
薬方でも、もっと考えるべき課題である。
「虫下しの薬も、もう少し整えねばならぬな」
惟種が呟くと、種茂が横で咳払いした。
「若君」
「何だ」
「おそらく、その虫ではございませぬ」
「違うのか」
「はい」
小七郎は、笑みを崩さなかった。
「戻りましたら、道が少しは綺麗になっておりましょう」
「腹ではなく、道か」
「はい」
そう言って、小七郎はふらりと消えた。
今度は、義弘も少し動きかけた。
だが、卜伝が静かに言った。
「義弘殿」
「はっ」
「今は、見ぬがよろしゅうござる」
「……承知しました」
義弘は、すぐに下がった。
卜伝の声には、逆らいにくいものがある。
惟種は、木々の奥を見た。
音はしない。
鳥の声が一度止んだ。
風も止んだように感じた。
それから、少し離れた場所で、枝が折れる小さな音がした。
低い声が、かすかに漏れる。
すぐに静かになる。
しばらくして、小七郎が戻ってきた。
息は乱れていない。
顔も変わらない。
ただ、袖口に少しだけ土がついていた。
惟種は、それを見て目を細めた。
「虫はいたか」
「おりました」
「多かったか」
「数匹ほど」
「払えたか」
「はい。悪さをする前に、退いていただきました」
小七郎は、にこりと笑った。
その笑みは明るい。
だが、先ほどよりも少しだけ怖かった。
惟種は、ようやく理解した。
この男は、消えているのではない。
道の先にいる怪しいものを、先に取り除いている。
物取りか。
間者か。
ただの野伏せりか。
それは分からない。
だが、小七郎はそれを虫と呼んでいる。
そして、虫を払って戻ってきている。
種茂の目が、さらに細くなった。
「愛洲殿」
「はい」
「次からは、離れる前に一言、もう少し詳しく」
「承知」
「勝手に動かれると、若君の周りが乱れます」
「それは失礼いたしました」
小七郎は素直に頭を下げた。
ただし、反省しているのかどうかは怪しい。
惟種は、少しだけ苦笑した。
「小七郎殿」
「はい」
「ありがたいが、あまり無理はするな」
「お気遣い痛み入ります」
「それと、虫と言われると、本当に薬の方を考えてしまう」
「では、次からは別の言い方を」
「いや、もう分かった」
種茂が、また小さく咳払いした。
「若君」
「何だ」
「薬方の話は、あとでお願いいたします」
「分かっている」
「道中にございますので」
「分かっている」
分かってはいる。
だが、虫下しの薬は必要である。
阿蘇へ戻ったら、薬方に話を出すべきだろう。
惟種は、場違いなことを考えながら、馬を進めた。
◇
その後も、小七郎は時折ふらりと消えた。
景色を見に。
水を見に。
道を確かめに。
腹を整えに。
理由は毎回違った。
だが、戻ってくるたび、道の気配が少し軽くなる。
山の陰から向けられていた視線が消える。
谷の下で動いていた気配が遠ざかる。
惟種にも、少しずつ分かってきた。
この道は、思っていたより荒い。
そして、愛洲小七郎は、思っていたより役に立つ。
もちろん、危うくもある。
勝手に動く。
説明が少ない。
気さくすぎる。
押しが強い。
種茂が後で宗運に細かく報せることになるだろう。
いや、きっともう報せる内容を頭の中で並べている。
惟種は、種茂の横顔を見た。
表情は静かだ。
だが、目が宗運に似ている。
まただ。
増えている。
宗運に似た目が、増えている。
よくない。
非常によくない。
「若君」
種茂がこちらを見た。
「何だ」
「なぜ、そのようなお顔を」
「何でもない」
「左様ですか」
疑われている。
間違いなく疑われている。
惟種は、少しだけ視線を逸らした。
卜伝は、相変わらず静かに進んでいる。
小七郎が戻ってくるたび、ほんのわずかに目を向けるだけ。
やがて、卜伝がぽつりと言った。
「愛洲殿は、よく見えておりまする」
「道がか」
「人が、にございます」
「そうか」
「虫も」
「やはり虫なのか」
卜伝は、少しだけ笑った。
「悪さをするものは、どこにでもおりまする」
「それは、そうだな」
惟種は頷いた。
悪さをするもの。
山道の物取り。
京の一条家を動かす影。
阿蘇を縛ろうとする何か。
虫にも色々ある。
それを払う薬も、刃も、目も必要だ。
そんなことを考えながら、惟種は馬を進めた。
◇
夕刻が近づく頃、山道の先が少し開けた。
木々の間から、田と小さな集落が見えた。
空気が変わる。
土佐の山道を抜け、伊予へ近づいたのだと分かる。
親英が、ようやく少し息を吐いた。
種茂も、周囲を見ながら文箱を抱え直す。
義弘は、まだどこか物足りなさそうだった。
小七郎は、何食わぬ顔で歩いている。
この男がいなければ、道中で何度か足を止められていたかもしれない。
惟種は、それを認めざるを得なかった。
やがて、道の先に人影が見えた。
数人の武者。
その中央に、見覚えのある男が立っている。
土居清晴であった。
その横に、小さな少年がいる。
背筋を伸ばし、一生懸命に立っている。
虎松。
惟種は、思わず目を細めた。
土居清晴が進み出て、深く頭を下げる。
「阿蘇殿。遠路、ようこそお越しくださいました」
虎松も、少し遅れて慌てて頭を下げた。
「おこしくださいました」
幼い声だった。
だが、まっすぐだった。
惟種は、馬上からその姿を見て、小さく笑った。
悪さをする虫だらけの山道を越えた先に、ようやく目当ての芽が立っていた。




