第二百七話 二つの一条
土居宗珊の屋敷は、中村御所から少し離れたところにあった。
派手さはない。
だが、手入れが行き届いている。
庭の木も、石の置き方も、必要以上に飾られてはいない。
武家の屋敷である。
土佐の地に根を張り、主家を支える者の屋敷。
惟種は、そう感じた。
通された一室は、静かだった。
人払いはされている。
ただし、本当に無人というわけではない。
戸の外には、鍋島種茂が控えている。
さらに、宗珊の近習も少し離れたところに控えている。
声は届かぬ。
だが、互いの身に何かあれば、すぐに動ける。
それくらいの距離である。
要人同士の密談としては、それが自然だった。
宗珊は、惟種の前に座ると、深く頭を下げた。
「惟種殿」
「うむ」
「まずは、礼を申し上げまする」
宗珊の声は低かった。
「先ほどの広間にて、兼定様の面目をお守りいただきましたこと、まことにありがたく存じます」
「礼を言われるほどのことではない」
「いえ」
宗珊は、なおも頭を下げたまま言った。
「阿蘇殿があの場で流されておれば、兼定様は御当主でありながら、下がった形のままにございました。あれは、小さく見えて、大きなことにございます」
「そうだな」
惟種は否定しなかった。
種茂が止めなければ、自分は本当に流していたかもしれない。
それを思うと、少しだけ背中が冷える。
「それと、もう一つ」
宗珊は、顔を上げた。
その表情は重い。
「一条房通殿の振る舞いにつき、土佐一条家の者としてお詫び申し上げまする」
「宗珊殿が詫びることではあるまい」
「されど、あの場を整えるべきは、それがしの役目にございました」
「宗珊殿は整えようとした」
「足りませなんだ」
宗珊は静かに言った。
自分を責める声だった。
惟種は、少しだけ眉を下げた。
この男は、やはり真面目である。
真面目すぎるほどだ。
「それに」
宗珊は続けた。
「それがしの意をお汲みいただき、あの場でそれがしの名を立てていただきました。兼定様の前で、土佐の者たちの前で」
「うむ」
「その御厚情にも、礼を申し上げまする」
惟種は、軽く首を振った。
「わしは、見たままを申しただけだ。宗珊殿は、土佐を見ている」
「恐れ入ります」
宗珊は、もう一度頭を下げた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
顔を上げた時、その目は先ほどよりも硬かった。
「惟種殿」
「何だ」
「これより申し上げることは、それがし一存の考えにございます。土佐一条家としての正式な言葉ではございませぬ」
「分かった」
「ですが、惟種殿を信じて、腹を割って申し上げます」
宗珊の声には、迷いがなかった。
惟種は、姿勢を正した。
「ぜひに」
短く答える。
宗珊は静かに頷いた。
◇
「御覧の通り、我ら一条家は幼き主君を戴いておりまする」
宗珊は言った。
「兼定様は、まだ御若年。されど、御当主にございます。土佐一条家の名を背負われる御方にございます」
「うむ」
「ですが、今の一条家は、実のところ二つに分かれておりまする」
「二つ」
「はい」
宗珊は言葉を選びながら続けた。
「それがしは、土佐を見ております。国衆、兵、田、港、山、道、米、銭。土佐の現実を見て、兼定様をお支えする役目にございます」
「分かる」
「一方、一条房通殿は、京の一条家を背負っておられます。京の家格、公家衆との交わり、朝廷への筋、都での面目。そちらを担っておられる」
「土佐と京か」
「左様にございます」
宗珊は頷いた。
「これまでは、それでよかったのです。土佐は土佐で支え、京は京で名を保つ。互いに役目が違うだけで、敵ではございませなんだ」
「今までは、か」
「はい」
宗珊の目が、少しだけ鋭くなった。
「近頃、京の一条家の動きが怪しゅうございます」
惟種は黙って聞いた。
「まず、資金の無心が増えておりまする」
「金か」
「はい。京の暮らしには金が要ります。公家衆の交わりにも、寺社との付き合いにも、贈答にも、面目を保つにも。そこまでは分かりまする」
「うむ」
「ですが、近頃の求めは、それだけではございませぬ。額が増え、急ぎも増え、使途が曖昧になっておりまする」
宗珊の声は低い。
「さらに、文の端々に、どこからかの圧が混じっております」
「圧」
「はい。京の一条家としての意だけではない。房通殿ご自身の考えだけでもない。何者かが、房通殿を通じて土佐へ手を伸ばそうとしているように見えまする」
惟種は、ゆっくりと息を吸った。
「幕府か」
「恐らく違いまする」
「朝廷は」
「それも違うかと」
「では」
「分かりませぬ」
宗珊は、悔しそうに言った。
「申し訳ございませぬ。そこまでは掴めませなんだ」
「謝ることではない」
「されど、惟種殿に関わる話にございます」
「わしに」
「はい」
宗珊は惟種をまっすぐ見た。
「狙いは、阿蘇家の封じ込め。あるいは、嫌がらせ。少なくとも、阿蘇家の動きを土佐、四国筋にて縛ろうとする意図があるように思えまする」
惟種は、黙った。
房通の言葉が蘇る。
土佐、四国の安寧。
力添え。
綺麗な言葉だった。
だが、綺麗な言葉ほど、縄になりやすい。
「三好か」
惟種は呟いた。
「あるいは」
「大内かもしれませぬ」
宗珊が言った。
「三好は京に近く、京の者を動かす手がありまする。大内もまた、京の公家衆や寺社との縁は深い。あるいは、西国のどこかが京の公家衆を使っているのかもしれませぬ」
「そうだな」
惟種は、指先で膝を軽く叩いた。
考える。
土佐一条家。
京の一条家。
一条房通。
資金の無心。
誰かの圧力。
阿蘇の封じ込め。
土佐、四国の安寧という言葉。
どれも一つ一つは小さい。
だが、並べると形が見えてくる。
阿蘇を直接叩くのは難しい。
ならば、阿蘇が善意で動かざるを得ない場を作る。
土佐一条家。
幼い兼定。
京の一条家の面目。
四国の安寧。
それらを並べ、阿蘇に「関われ」と言わせる。
関われば、手が取られる。
九州の統治に割くべき目が、四国へ向く。
悪い手ではない。
実に、嫌な手である。
「房通殿は、昔からああなのか」
惟種が問うと、宗珊は少しだけ首を振った。
「昔は、違いました」
「違ったか」
「はい。もちろん、京の御方にございます。家の格、面目、礼の筋を重んじられる方ではございました。されど、今日のような、あからさまに兼定様の面目を削るような御方ではなかった」
宗珊の声が、少し沈む。
「京へおられるうちに、変わられたのか。あるいは、変わらざるを得なかったのか。それは分かりませぬ」
「京は人を変える」
「恐ろしいところにございますな」
「まったくだ」
惟種は本気で頷いた。
京は面倒である。
本当に面倒である。
あの都は、人を笑顔で縛る。
言葉で縛る。
礼で縛る。
金で縛る。
房通も、もしかすると縛られている側なのかもしれない。
だが、だからといって兼定を踏ませてよいわけではない。
宗珊を削らせてよいわけでもない。
◇
「宗珊殿」
「はい」
「なぜ、ここまで重要なことをわしに話す」
惟種は、静かに問うた。
「一歩間違えれば、土佐一条家の内を阿蘇へ売ることになる」
「承知しておりまする」
「それでも話すのか」
「はい」
宗珊は、まっすぐ答えた。
迷いはない。
「惟種殿より、それがしらへ向けられるものに、悪意は感じませぬ」
惟種は、少し目を丸くした。
「わしにか」
「はい」
「買いかぶりではないか」
「そうかもしれませぬ」
宗珊は、少しだけ笑った。
「自意識過剰かもしれませぬ。されど、惟種殿より、それがしへ向けられるものには、利用するだけの目もございませぬ」
「そう見えるか」
「はい」
宗珊は、少し言葉を探した。
「恐れながら、尊重されているように感じまする。土佐を支える者として。兼定様を支えようとする者として」
「うむ」
「それがし自身、特に優れた者とは思っておりませぬ。特筆すべき武も、才も、名もございませぬ。ただ、土佐にあり、兼定様をお支えすることを己の役目と思っているだけにございます」
「それがよいのだ」
「惟種殿」
「続けてくれ」
宗珊は頷いた。
「そのように見ていただいたならば、それがしも応えねばなりませぬ。黙って、阿蘇家が土佐の名に縛られるのを見過ごすことはできませぬ」
宗珊の声は、静かだった。
だが、その奥に熱がある。
「それは、某の信じる道に反しまする」
惟種は、しばらく宗珊を見た。
そして、ゆっくりと笑った。
胸の奥が、少し明るくなる。
「ありがたい」
心からの言葉だった。
「流石は、わしが見た宗珊殿だ」
宗珊が、少し戸惑った顔をした。
「わしが見た、とは」
「わしが思い描いた宗珊殿だ」
惟種は言った。
「義に熱く、忠を尽くし、主君を敬う。それが武士だと、わしは思っておる」
宗珊は、言葉を失ったようだった。
しばらくして、深く頭を下げる。
「身に余りまする」
「余っておらぬ」
「それがしなど、そのような」
「宗珊殿」
「はい」
「わしのところの宗運に似ておる」
宗珊の顔色が変わった。
「甲斐宗運殿に、でございますか」
「うむ」
「それは恐れ多いにもほどがございまする」
「気にするでない」
惟種は、軽く笑った。
「あやつは阿蘇では、ただの口うるさい爺よ。はっはっは」
宗珊は、一瞬、本気で反応に困った顔をした。
甲斐宗運をただの口うるさい爺と呼ぶ者など、おそらく阿蘇惟種くらいである。
いや、惟種でも本人の前で言えば、あとでどうなるか分からない。
惟種は、その想像をして少しだけ背筋が冷えた。
宗運に言ったら怒られるな。
いや、怒られはしない。
静かに刺される。
それは宗運からまわってきた仕事に忙殺されるという意味で。
惟種は、心の中で訂正した。
宗珊は、ようやく少しだけ笑った。
「惟種殿は、不思議な御方にございますな」
「よく言われる」
「甲斐宗運殿をそのように申されるとは」
「本人には言わぬようにな」
「もちろんにございます」
「言ったら、わしが困る」
宗珊は、さらに笑った。
重い密談の場に、わずかな柔らかさが戻った。
◇
だが、惟種の胸の奥には、先ほどの話が残っていた。
笑ってはいる。
宗珊を信じる気持ちもある。
この男と話せてよかったとも思う。
だが、気になって仕方がない。
京の一条家を通じて、阿蘇を縛ろうとする何か。
資金の無心。
使途の曖昧な金。
房通の変化。
土佐、四国の安寧という言葉。
幕府ではない。
朝廷でもない。
ならば、どこだ。
三好か。
大内か。
それとも、もっと別の誰かか。
大内は今、陶と毛利の火種を抱えている。
三好は京を見ている。
西国の諸家も、決して侮れない。
さらに、京の公家衆や寺社を使えば、表に出ずとも圧はかけられる。
惟種は、膝の上で指を組んだ。
土佐一条家を使う。
幼い兼定を使う。
京の一条家の面目を使う。
宗珊の忠義すら、場合によっては縄になる。
嫌な話である。
本当に、嫌な話である。
「惟種殿」
宗珊が声をかけた。
「何だ」
「此度のこと、どうか御無理はなさらぬよう。土佐のことは、まずそれがしが受けまする」
「うむ」
「阿蘇家を土佐で縛るようなことは、それがしの本意ではございませぬ」
「分かっている」
惟種は頷いた。
「だからこそ、宗珊殿を信用できる」
「恐れ入りまする」
「ただ」
惟種は、少しだけ目を細めた。
「このまま放っておくのも、気持ちが悪い」
宗珊は、黙って頷いた。
惟種は、障子の向こうの光を見た。
中村御所は美しかった。
土佐の小京都。
京を移したような町。
だが、京の影まで移ってきているならば、笑って見ているわけにはいかない。
惟種は、静かに息を吐いた。
いったい、どこが阿蘇を土佐で縛ろうとしている。




