第二百六話 幼き主の面目
大変申し訳ございません。
同じ話が連続してしまいました。
改めて投稿させていただきます。
天文二十一年(一五五二年)三月
土佐中村御所の広間には、静かな香の匂いが流れていた。
庭の砂は白く整えられ、障子越しの光は柔らかい。
土佐の山と海に囲まれた地でありながら、そこには確かに京の気配があった。
だが、京そのものではない。
土佐の土の上に、京の形を根づかせようとした場所。
それが中村御所であった。
惟種は、改めてそう思った。
目の前には、一条兼定がいる。
まだ幼い。
重い衣をまとい、背筋を伸ばし、懸命に当主としての顔を作ろうとしている。
その近くには一条房通が穏やかな顔で控え、土居宗珊は少し下がった位置から座全体を見ていた。
兼定は緊張している。
袖の中の手が、わずかに固い。
それでも、逃げてはいない。
この場に座り、阿蘇惟種と向き合おうとしている。
もちろん、口には出さない。
出せば、種茂が咳払いする。
宗運がいれば、もっと深く刺してくる。
その兼定が、ゆっくりと口を開こうとした時だった。
「恐れながら」
土居宗珊が、静かに声を挟んだ。
声は柔らかい。
だが、わずかに張りがある。
「兼定様は土佐一条家の御当主にございます。阿蘇殿との御対面にあたりましては、改めて対面の形を整えた方がよろしゅうございましょう」
惟種は、そこで初めて座の形を意識した。
一条房通が、いくらか上座寄りにいる。
兼定は当主でありながら、少し控えた形になっていた。
礼法に詳しくない惟種でも、何となく分かる。
これは、少しおかしい。
土佐一条家の主は兼定である。
いかに房通が京の一条家の当主であり、兼定の後見に近い立場であっても、この地で阿蘇と対面するならば、兼定を主として立てるべきだ。
宗珊は、それを正そうとしている。
だが、その前に房通が穏やかに笑った。
「このままで差し支えありますまいな、阿蘇殿」
柔らかい声だった。
だが、言葉の置き方が嫌だった。
惟種へ振っている。
ここで惟種が「構わぬ」と言えば、兼定はこのままになる。
阿蘇がそれを認めた形になる。
兼定の面目が、わずかに削れる。
大きな傷ではない。
だが、小さな傷ほど後で効く。
惟種は、面倒だと思った。
本当に面倒だ。
京の礼だの、家の格だの、座の形だの。
自分はそこまで詳しくない。
どちらでも、と言って終わらせたくなる。
「どちらでも――」
そこまで言いかけた時、後ろに控えていた種茂が、わずかに身を寄せた。
小さな声で耳打ちする。
「殿。ここは、お流しになってはなりませぬ。兼定様の御当主としての面目に関わります」
惟種は、内心で舌打ちした。
やはり、面倒なやつだ。
ただし、正しい。
非常に正しい。
種茂が宗運に似てきている。
それもまた、ある意味非常によくない。
惟種は、少しだけ息を吸った。
そして、房通へ向き直った。
「房通殿」
「はい」
「恥ずかしながら、わしは京の礼に明るくございませぬ」
惟種は、素直に頭を下げた。
広間の空気が、わずかに揺れた。
「されど、兼定殿は土佐一条家の御当主。此度、阿蘇はその兼定殿との御縁を確かめるため、土佐へ参りました。よろしければ、わしの面目を保つためにも、正しき対面の形をお整えいただけませぬか」
房通の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
宗珊の目も、わずかに見開かれた。
惟種は自分を下げた。
礼を知らぬと言った。
だが、その上で房通へ返した。
あなたは京の礼を知る者であろう。
ならば、兼定の面目も、阿蘇の面目も立つ形に整えてくれ。
そういう言い方である。
房通は断れない。
断れば、京の礼を知る者としての面目を自ら傷つける。
房通は、ゆっくりと微笑みを戻した。
「なるほど。阿蘇殿のお考え、まことにごもっともにございます」
そう言って、兼定へ顔を寄せる。
何かを耳打ちした。
兼定は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。
宗珊は、表情を崩さぬまま、手早く座を整えさせた。
しかし、惟種には分かった。
宗珊の顔が、少し引きつっている。
おそらく、心の中ではこう思っている。
そこまで返されるか、この御方。
惟種は、苦笑しそうになるのを堪えた。
笑ってはいけない。
ここは笑うところではない。
兼定のためにも、宗珊のためにも。
◇
改めて、座が整えられた。
一条兼定が、土佐一条家の当主として正面に座る。
一条房通は、後見の位置に控える。
土居宗珊は、少し下がりながらも、場全体を見渡せる位置にいる。
これで、ようやく形になった。
兼定は改めて背筋を伸ばした。
小さな体で、懸命に主として座っている。
惟種は、その姿を見て少しだけ目を細めた。
「改めまして」
兼定が口を開いた。
声はまだ幼い。
だが、先ほどよりも少しだけ落ち着いている。
「一条兼定にございます。阿蘇殿に遠路お越しいただき、土佐一条家として、深く感謝申し上げます」
「阿蘇惟種にございます。兼定殿にお目にかかれ、嬉しく思います」
惟種は丁寧に返した。
兼定の目が、わずかに揺れた。
自分が主として扱われたことが、きちんと伝わったのかもしれない。
その横で、房通が穏やかに言った。
「阿蘇殿には、京におられた折、ご挨拶叶いませなんだ。まことに申し訳なく存じます」
「いえ。こちらも京に長く留まるつもりはございませんでした。あの時は、何かと慌ただしく」
惟種は、そう返した。
これは本心である。
京には長くいたくなかった。
本当に、長くいたくなかった。
義藤は面白いが、京は面倒である。
公家も、幕府も、寺社も、商人も、皆が別の腹を持っている。
思い出すだけで疲れる。
「もし、あの折に阿蘇殿とお話しできておりましたならば、また違った縁も結べたことでしょう」
房通は、にこやかに続けた。
「阿蘇殿の御働きは、京でも聞こえております。九州を静め、海を整え、諸家を束ねるお力。まこと、得難きものにございます」
「恐れ入ります」
「土佐も、四国も、乱れなき世を望んでおります。阿蘇殿には、ぜひとも土佐、ひいては四国の安寧にも、お力添えいただきたく存じます」
惟種は、表情を変えなかった。
だが、内心では少し眉をひそめた。
言葉は綺麗だ。
平穏を願う。
安寧を望む。
それは悪いことではない。
むしろ、惟種が望むことでもある。
だが、この言い方は危うい。
この場で軽く頷けば、あとで言われる。
阿蘇は四国の安寧に力を貸すと約した。
土佐一条家のために動くと申した。
京の一条家も、そのように聞いた。
言葉尻一つで、勝手に約定にされかねない。
面倒だな。
惟種は、本気でそう思った。
もう終わらせて帰るか。
一瞬、そう考えた。
だが、すぐにやめた。
それをすれば、宗珊が困る。
兼定も困る。
房通は、きっとこう見せたいのだ。
阿蘇との縁を、自分が京の一条家として扱った。
土佐一条家の幼い当主も、土居宗珊も、その下にある。
そういう形を、場の者へ見せたい。
惟種は、心の中で冷たく笑った。
面倒な手合いである。
ならば、別の方向へ流せばよい。
「平穏は、わしも望むところにございます」
惟種は、ゆっくりと口を開いた。
「ただし、阿蘇の手は九州を本としております。土佐、四国へ軽々しく口を入れることはできませぬ」
房通の笑みは変わらない。
だが、目の奥が少しだけ動いた。
「もっとも、此度わしが土佐へ目を向けることができたのは、宗珊殿のお声があったからにございます」
広間の空気が、わずかに変わった。
宗珊が目を上げた。
房通の笑みが、ほんの少し固くなる。
惟種は続けた。
「宗珊殿は、土佐の地をよく見ておられる。山も、海も、人も、国衆の腹も。京の理だけでは見えぬものを、土佐の地に立って見ておられる」
「惟種殿」
宗珊が、思わず声を漏らした。
惟種は、軽く頷いた。
「わしは、九州の政で手一杯にございます。道、銭、蔵、兵、港、寺社、学び所。見ねばならぬものが多い。ゆえに、宗珊殿が声をかけてくださらねば、土佐へ目を向けることも難しかったでしょう」
これは少し大げさである。
だが、嘘ではない。
宗珊がいなければ、阿蘇と土佐一条家の縁はここまで早く形にならなかった。
少なくとも、この場でそう言う意味は大きい。
惟種は、兼定へ視線を向けた。
「兼定殿」
「は、はい」
兼定は少し緊張した声で答えた。
「若き身で、重き家を背負われるのは大変でございましょう」
兼定の目が、わずかに揺れる。
「わしも、若輩にございます。偉そうなことは言えませぬ。阿蘇が助言できること、助けられることにも限りがあります」
惟種は、そこで少しだけ笑った。
「ですが、宗珊殿がおられる限り、阿蘇家と一条兼定殿との間に、隔たりはございませぬ」
広間が、静かになった。
今、惟種ははっきり言った。
一条家、ではない。
一条兼定殿。
そして、その間に宗珊がいる限り、と。
阿蘇は、房通ではなく、兼定と宗珊を見ている。
土佐一条家との縁は、宗珊が結んだ。
宗珊がいる限り、その縁は保たれる。
そう告げたのである。
宗珊は、深く頭を下げた。
「身に余る御言葉にございます」
「余ってはおらぬ」
惟種は軽く笑った。
「宗珊殿は本当に素晴らしい。土佐を見ている。だから、わしも安心して土佐へ来られた」
「恐れ入ります」
「兼定殿も、困った時は宗珊殿をよく頼られるがよい。わしも、宗珊殿より文が来れば、できる範囲で耳を傾けます」
「はい」
兼定は、少し強く頷いた。
その顔はまだ幼い。
だが、どこかほっとしているようにも見えた。
惟種は、明るく笑った。
「はっはっは。若き主同士、互いに大変でござるな」
兼定は一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ笑った。
「はい」
その笑みは、年相応だった。
惟種は、それを見て少し安心した。
やはり、まだ子どもだ。
頑張れ、兼定くん。
心の中で、そう思った。
◇
一条房通は、静かに笑っていた。
表には何も出ていない。
むしろ、惟種の言葉を喜んでいるようにも見える。
「阿蘇殿は、まこと土居宗珊を高く買われておりますな」
「はい」
惟種は即答した。
「宗珊殿なくして、此度の縁はございませぬ」
「なるほど」
房通は頷いた。
だが、その目の奥には、先ほどよりも少し冷たいものがあった。
恨みを買ったか。
惟種は思った。
まあ、よい。
別に房通と仲良くなりに来たわけではない。
土佐一条家の主は兼定である。
この地を支えるのは宗珊である。
京の理は京で大事にすればよい。
だが、ここは土佐だ。
この地で兼定を支えるのは、宗珊である。
惟種は、心の中だけでそう思った。
もちろん、顔には出さない。
出したつもりはない。
だが、後ろに控える種茂が、わずかにこちらを見た気がした。
気のせいだ。
たぶん。
「阿蘇殿のお言葉、兼定様にとっても、土佐一条家にとっても、大きな励みとなりましょう」
房通は、そう締めた。
「恐れ入ります」
惟種は頭を下げた。
これ以上、深追いはしない。
場は整った。
兼定の面目は守った。
宗珊の位置も押し上げた。
房通の言質取りも避けた。
これで十分である。
あとは、さっさと終わらせる。
そう思ったところで、宗珊が静かに口を開いた。
「惟種殿」
呼び方が、少しだけ柔らかかった。
「よろしゅうございましょうか」
「うむ」
「この後、差し支えなければ、我が家にてささやかながらもてなしを致したく存じます」
惟種は宗珊を見た。
宗珊の顔は落ち着いている。
だが、その目には、先ほどまでとは違う色があった。
礼か。
詫びか。
あるいは、房通のいないところで話したいことがあるのか。
惟種は、少しだけ笑った。
「ありがたい。ぜひ伺おう」
宗珊は、深く頭を下げた。
広間の香が、静かに流れている。
中村御所は美しい。
だが、その美しさの奥に、確かに影がある。
惟種は、その影を見たまま、静かに息を吐いた。




