第二百五話 土佐の小京都
土佐の海は、九州の海とは少し違っていた。
潮の匂いが濃い。
山が近い。
海から見上げる緑が、すぐそこまで迫っている。
府内を出た阿蘇の大船は、風と潮に助けられ、無事に土佐へ入った。
親英は、最後まで風を見ていた。
種茂は、文箱と贈答の品を確認していた。
義弘は、土佐の山と港を見て目を輝かせていた。
卜伝は、相変わらず静かであった。
愛洲小七郎は、船の揺れにもすぐ慣れたらしく、どこか楽しそうである。
惟種は、それを横目で見て少し思った。
一人増えたな。
やはり増えているな。
そして、宗運に何と言おう。
だが、それは今考えても仕方がない。
まずは土佐一条家である。
◇
土佐の湊には、迎えが来ていた。
武者の数は多すぎない。
だが、少なくもない。
威圧ではない。
軽くもない。
その加減がよく整えられている。
先頭に立っていたのは、見覚えのある男だった。
土居宗珊である。
惟種は、その姿を見た瞬間、思わず顔が明るくなった。
「これは宗珊殿! ご健勝ですな!」
声が弾んだ。
宗珊は、一瞬だけ戸惑ったような顔をした。
阿蘇の若君が、思ったよりも親しげだったからだろう。
だが、すぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「恐れ入りまする。阿蘇殿におかれましても、ご無事の御着き、まことに祝着に存じます」
「うむ。土佐の風はよいな。山も近い」
「土佐は山と海の国にございます」
「よく分かる」
惟種は頷いた。
宗珊は、変わらぬ男であった。
丁寧で、落ち着いている。
だが、その奥に強い芯がある。
若き一条家を支えようとする者の顔である。
惟種は、その顔を見るだけで少し安心した。
やはり、来てよかった。
そう思えた。
「此度は、遠路をお越しいただき、土佐一条家一同、深く感謝申し上げまする」
「こちらこそ、招きに応じることができてよかった」
惟種はそう返した。
すると、宗珊の目がわずかに揺れた。
呼びつけたのではない。
阿蘇が自ら応じた。
その形を、惟種が崩さずに言ったことが伝わったのだろう。
宗珊は、もう一度深く頭を下げた。
「ありがたき御言葉にございます」
◇
湊から中村御所へ向かう道は、思った以上に整っていた。
土佐である。
遠い国である。
山が深く、海が近く、九州から見れば辺地にも思える。
だが、中村へ近づくにつれ、空気が少し変わった。
寺がある。
町屋がある。
道筋がある。
水の流れが整えられている。
そして、どこか京に似た匂いがあった。
もちろん、本物の京ではない。
京ほど大きくもない。
人の数も、建物の重なりも違う。
だが、ただの地方の城下とも違う。
土佐の山と海の中に、京の形を移そうとした跡がある。
惟種は、馬上から町を眺めた。
「なるほど」
思わず呟く。
宗珊が振り返った。
「いかがされましたか」
「いや。中村御所は、確かに京に近い」
宗珊の顔が、少しだけ和らいだ。
「恐れ入りまする。先代より、京の風を少しでもこの地へ残そうと努めてまいりました」
「よい町だ」
惟種は素直に言った。
土佐の小京都。
後の世では、そう呼ばれることになる地。
その言葉が、惟種の頭に浮かんだ。
ただの飾りではない。
ここには確かに、京を思わせる華やかさがある。
公家の名を背負う土佐一条家が、土佐の地で作った独自の武家文化。
京の雅と、土佐の荒さ。
その二つが混じっている。
悪くない。
いや、かなり面白い。
惟種は、少しだけ胸が高鳴った。
「殿」
後ろから種茂の声がした。
「何だ」
「お顔が楽しそうにございます」
「そう見えるか」
「はい」
「気のせいだ」
「では、そういうことに」
種茂の声が少し宗運に似ていた。
惟種は聞かなかったことにした。
◇
中村御所の前には、土佐一条家の者たちが並んでいた。
宗珊が一歩進み、紹介する。
「こちらは、依岡左京進にございます」
精悍な顔つきの武将が頭を下げた。
「依岡左京進にございます。阿蘇殿にお目通り叶い、恐悦至極に存じます」
「うむ。此度は世話になる」
惟種は頷いた。
依岡の名は知っている。
土佐一条家に連なる者。
中村周辺の動きに関わる家である。
次に、宗珊が別の男を示した。
「こちらは、加久見左衛門」
「加久見左衛門にございます」
落ち着いた声であった。
顔には派手さはない。
だが、よく周りを見ている。
土佐の国衆らしい、土の匂いがある男だった。
「うむ。加久見殿も、よろしくお願いいたす」
「はっ」
さらに、宗珊はもう一人を紹介した。
「こちらは、安並和泉守にございます」
「安並和泉守にございます。此度の御来訪、まことにありがたく存じます」
「こちらこそ、世話になる」
安並和泉守。
これも聞き覚えのある名である。
惟種は、頭の中の記憶を軽く撫でた。
土佐一条家の中で、後に名が出てくる者たち。
今はまだ、目の前で丁寧に頭を下げている。
それが少し不思議だった。
未来で名前を知っている者が、今、目の前にいる。
この感覚には、いつまで経っても慣れない。
だが、顔には出さない。
出してはいけない。
「阿蘇惟種である。此度は、土佐一条家との友好を深めるため参った。どうぞよろしくお願いいたす」
三人は揃って頭を下げた。
その動きは丁寧だった。
だが、目は見ている。
阿蘇の若君。
その供。
大船。
贈答。
そして、塚原卜伝。
さらに、愛洲小七郎。
土佐の者たちは、よく見ていた。
見られている。
惟種はそれを感じた。
ただ歓迎されているだけではない。
測られている。
それは当然である。
阿蘇もまた、土佐を見に来たのだから。
◇
中村御所は、思っていたよりも華やかだった。
派手という意味ではない。
作りそのものは、土佐の地に合わせた堅実さがある。
だが、そこに置かれた調度や、庭の整え方、襖の色、香の匂い。
そうしたものの端々に、京の名残があった。
公家の屋敷の雅を、そのまま土佐に移したわけではない。
土佐の土の上に、京の形を根づかせようとしたもの。
それが、この御所だった。
惟種は、静かに息を吸った。
阿蘇の館とは違う。
府内館とも違う。
島津の館とも、相良の館とも違う。
ここには、土佐一条家だけの空気がある。
中村御所。
確かに、見る価値はあった。
宗運に言えば、また「見物ではございませぬ」と言われそうだが。
惟種は、心の中で少しだけ笑った。
そして、すぐに表情を整えた。
奥へ通される。
いよいよ、一条兼定との対面である。
◇
広間に入ると、幼い少年が座っていた。
小柄である。
まだ、あどけなさが残っている。
だが、背筋は伸ばしていた。
袖の中で手を握っているのが、わずかに分かる。
緊張している。
それでも、主としてそこに座っている。
あれが、兼定くんか。
惟種の頭に、ついそんな言葉が浮かんだ。
一条兼定。
後の世では、暗君と呼ばれることが多い名である。
酒色に溺れた。
家を傾けた。
土佐一条家を衰えさせた。
そんなふうに書かれる名。
妙な言葉で励まされるような扱いまで受けていた記憶がある。
だが、目の前にいるのは、ただの幼い子だった。
九つほどの少年である。
重い衣を着て、重い名を背負い、重い視線の中で座っている。
頑張っている。
惟種は、そう思った。
頑張っているではないか。
惟種の胸に、少し柔らかいものが生まれた。
その横に、もう一人の男がいた。
一条房通。
京の一条家の当主。
兼定の後見として、あるいは京側の見届け役として、この中村御所にいる男である。
惟種は、その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな棘を感じた。
笑っている。
穏やかな笑みである。
品もある。
いかにも京の公家らしい、整った物腰であった。
だが、その笑みの奥に、何かがあった。
歓迎ではない。
いや、歓迎はしているのだろう。
阿蘇を敵に回す気はない。
むしろ、丁重に扱うつもりはある。
だが、それだけではない。
値踏みしている。
惟種は、そう感じた。
遠国の若き主。
九州を大きく動かした子ども。
使えるのか。
利用できるのか。
あるいは、どの程度まで下に見られるのか。
そんな視線が、笑みの裏から薄く伸びてくる。
もちろん、表には出ていない。
言葉にも出ていない。
ただの直感である。
だが、惟種はその直感を無視しなかった。
「遠路、ようこそお越しくださいました」
房通が穏やかに言った。
「阿蘇殿の御名は、京にもよく聞こえております」
「恐れ入ります」
惟種は丁寧に頭を下げた。
余計なことは言わない。
宗運がいなくても、それくらいは分かっている。
兼定も、少し遅れて頭を下げた。
「一条兼定にございます。阿蘇殿、此度はよくお越しくださいました」
声は、まだ幼い。
だが、一生懸命に整えていた。
惟種は、自然と表情を柔らかくした。
「阿蘇惟種にございます。兼定殿にお目にかかれて、嬉しく思います」
兼定の目が、ほんの少しだけ丸くなった。
おそらく、思っていたよりも惟種が親しげだったのだろう。
それでも、すぐに姿勢を正す。
「こちらこそ、阿蘇殿との御縁、ありがたく存じます」
頑張っている。
本当に頑張っている。
惟種は、内心で小さく頷いた。
その幼い背の後ろに、土居宗珊がいる。
そして、横に一条房通がいる。
この二人が、今の土佐一条家を支えているのだろう。
いや、支えているというより、仕切っている。
宗珊は、土佐の現実を見ている。
国衆、兵、港、道、米、山。
土佐の地に根を張り、兼定を支えようとしている。
房通は、京の理と家の格を見ている。
一条の名。
公家の面目。
都との縁。
そして、おそらくは阿蘇という札。
同じ一条家を見ていても、二人の見ているものは違う。
惟種は、それを感じた。
広間は華やかだった。
香が静かに流れている。
庭は美しい。
兼定は幼く、懸命に主として座っている。
宗珊は、控えながらも周囲を見ている。
房通は、笑みを浮かべて惟種を見ている。
土佐の小京都。
その中心は、確かに美しかった。
だが、兼定の幼い背に乗るものは、あまりに重い。
そして、その左右にいる者たちの見ている先は、同じではない。
惟種は、胸に残った棘を押し隠しながら、改めて頭を下げた。
土佐一条家。
華やかに見えるこの御所は、思ったよりも危うい。




