第二百四話 一人増える
府内館の稽古場には、まだ潮風が残っていた。
塚原卜伝と愛洲小七郎の立ち合いが終わった後も、誰もすぐには口を開かなかった。
木刀が触れた音。
卜伝の立ち姿。
そして、最後に喉元で止まった木刀。
それらが、惟種の頭の中に残っていた。
強い。
その一言では足りなかった。
惟種は、まだ半分ほど放心していた。
そこへ、愛洲小七郎が改めて頭を下げた。
「阿蘇殿」
「う、うむ」
「先ほど申し上げました通り、もしお許しいただけますれば、某をお仕えさせていただきたく存じます」
「……うむ?」
惟種は瞬きをした。
先ほど。
申し上げた。
仕えたい。
何か言っていた気はする。
確かに、何か言っていた。
だが、その時の惟種の頭の中は、ほとんど卜伝の剣で埋まっていた。
愛洲小七郎の言葉は、耳には入っていた。
しかし、頭には入っていなかった。
「そんな話だったか?」
思わず呟く。
種茂が横で小さく咳払いした。
「殿」
「何だ」
「そのような話にございました」
「そうか」
「はい」
種茂の目が、少しじとりとしている。
その目を見て、惟種は嫌な予感がした。
これは、宗運に似ている。
よくない。
非常によくない。
惟種は、助けを求めるように卜伝を見た。
「師匠」
「はい」
「どう思う」
卜伝は、少しだけ苦笑した。
それは、困った笑みではなかった。
どこか面白がっているようでもあった。
「若君がよろしければ、よいのではございませぬか」
「よいのか」
「愛洲殿は、なかなかの手合いにござる」
卜伝は静かに言った。
「剣は確か。礼も知っておりまする。少し、押しは強うござるが」
「それはそうだな」
港で待ち伏せしていた男である。
押しは強い。
かなり強い。
小七郎は、悪びれずに笑った。
「お恥ずかしい限りにございます」
「恥じている顔ではないな」
「お目にかかれた喜びが勝っておりますので」
「正直だな」
惟種は、また困った。
嫌いではない。
気さくで、明るい。
腕も立つ。
礼も知る。
だが、突然現れ、卜伝に手合わせを願い、その場で仕官を申し出る男である。
普通に考えれば危うい。
間者の可能性もある。
どこかの家の意を受けているかもしれない。
それくらいは、惟種にも分かる。
分かるのだが。
師匠がよいと言った。
師匠が、この男の剣を認めた。
それだけで、惟種の中ではずいぶん重みが変わる。
「小七郎殿」
「はっ」
「阿蘇に召し抱えることは認める。ただし、役目、扶持、置き所は帰ってから改めて定める。宗運に諮り、正式な沙汰はその後だ」
小七郎の顔が明るくなった。
「まことにございますか」
「うむ。此度は、まず道中の御供だ。武芸の指南役、兼、警固。そういう扱いにする」
「ありがたき幸せ」
小七郎は、深く頭を下げた。
その頭の下げ方は、先ほどまでの気さくさとは違っていた。
まっすぐである。
軽くない。
惟種は、それを見て少しだけ安心した。
だが、隣の種茂はまだじとりと見ている。
「種茂」
「はい」
「何だ、その目は」
「いえ」
「言いたいことがある顔だ」
「ございます」
「あるのか」
「はい」
種茂は、静かに一礼した。
「愛洲殿の腕は、某にも分かります。卜伝殿が認められたことも重うございます。ただ、突然の御召し抱えにございますれば、宗運殿への報せと、身元の改めは必要かと」
「うむ」
「道中も、配置と目付を定めます」
「目付」
「はい。失礼ながら、間者でないとは、この場では言い切れませぬ」
小七郎は、そこで顔を上げた。
怒るかと思った。
だが、怒らなかった。
むしろ、にこりと笑った。
「もっともにございます」
「よいのか」
惟種が問うと、小七郎は軽く頷いた。
「いきなり港で声をかけ、さらに仕官を願う男など、怪しまれて当然にございます」
「分かっているなら、なぜやった」
「会いたかったので」
「そういうところだぞ」
「よく言われまする」
「誰に」
「いろいろな方に」
惟種は、額を押さえた。
ますます厄介である。
だが、どうにも憎めない。
義弘は、横で目を輝かせていた。
「殿」
「何だ、義弘」
「これで手合わせの相手が増えますな」
「そこか」
「はい。陰流の動き、先ほどはほとんど追えませなんだ。ぜひ、後ほど教えを請いたく」
小七郎は義弘を見て、楽しそうに笑った。
「島津の若武者殿か。よろしければ、いつでも」
「まことか」
「もちろんにございます」
義弘の顔がさらに明るくなった。
惟種は、少しだけ遠い目になった。
若武者が増えた。
剣客も増えた。
きっと稽古場の騒ぎも増える。
宗運の小言も増える。
増えるものばかりである。
「殿」
親英の声が飛んだ。
静かだが、少しだけ急いている。
「そろそろ、本当に船を出さねばなりませぬ」
「そうだった」
「風が変わります」
「それは困る」
「はい。大変困ります」
親英の顔は真剣だった。
剣客が一人増えようが、土佐行きの目的が増えようが、親英にとって今一番大事なのは風と潮である。
実に正しい。
惟種は頷いた。
「小七郎殿」
「はっ」
「支度は」
「すぐに」
「早いな」
「府内で待っておりましたので、荷はまとめております」
「本当に張っていたのだな」
「はい」
小七郎は悪びれずに答えた。
「では、急ぎ支度をして参ります」
「半刻もないぞ」
「四半刻もかけませぬ」
そう言うと、小七郎は一礼し、軽やかに稽古場を出ていった。
足音が軽い。
走っているのに、乱れがない。
義弘がそれを見て、また感心していた。
「見事な足運びにございますな」
「義弘」
「はっ」
「遊びではない」
「学びにございます」
「便利な言葉が、本当に広まっている」
卜伝が小さく笑った。
惟種は、その笑みに気づいて尋ねた。
「師匠、何かおかしいか」
「いえ」
卜伝は、穏やかに首を振った。
「若君は、不思議なお方にござる」
「不思議」
「突然現れた剣の者を、疑いながらも受ける。危うくもあり、また大きくもある」
「軽率と言いたいのか」
「それも含めて、器量にござる」
「褒めているのか」
「半分ほど」
「残り半分は」
「種茂殿と宗運殿が補いましょう」
「それは、そうだな」
惟種は認めた。
認めざるを得ない。
自分は広げる。
誰かが縛る。
それで、何とか阿蘇は回っている。
よくない気もするが、今さらである。
◇
小七郎は、本当に四半刻もかけずに戻ってきた。
荷は少ない。
刀。
木太刀。
着替えの包み。
小さな文箱。
それだけである。
「少ないな」
惟種が言うと、小七郎は笑った。
「剣の者に、そう多くの荷は要りませぬ」
「身軽だな」
「身軽でなければ、待ち伏せもできませぬ」
「それを誇るな」
「失礼いたしました」
やはり悪びれていない。
種茂が、じっと小七郎の荷を見ていた。
「愛洲殿」
「はい」
「その文箱は」
「故郷よりの文、流派の覚書、旅の記にございます」
「道中は、こちらでお預かりすることになります。中身を無闇に改めるわけではございませぬが、必要があれば確認もいたします」
「承知しております」
「不快ではございませぬか」
「当然のことにございます。召し抱えられる者が、主家に腹を見せぬわけには参りませぬ」
小七郎は、さらりと言った。
種茂の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「では、道中は某の指示に従っていただきます」
「無論」
「勝手に卜伝殿へ手合わせを求めることも」
「控えまする」
「控える、ではなく、禁じます」
「承知」
「本当に」
「本当に」
今度は、惟種が少し笑いをこらえた。
種茂が宗運に似てきている。
いや、もともと近いものがあったのかもしれない。
よくない。
非常によくない。
◇
府内館の港へ戻ると、船手たちはすでに出立の支度を終えていた。
親英が、ほとんど無言で惟種を見た。
「すまぬ」
「いえ」
親英は短く答えた。
「風はまだ使えます」
「助かる」
「次は、船出の前に剣客を増やさぬよう願います」
「増やそうと思って増やしたわけではない」
「結果として増えております」
「そうだな」
反論できない。
惟種たちは船に乗り込んだ。
甲板の上に、同行者が揃う。
鍋島種茂。
甲斐親英。
塚原卜伝。
島津義弘。
そして、愛洲小七郎。
一人増えた。
明らかに一人増えた。
しかも、ただの一人ではない。
陰流の剣客である。
親英が船手へ合図を送る。
綱が解かれる。
帆が上がる。
船がゆっくりと港を離れ始めた。
惟種は甲板に立ち、府内の港を見た。
土佐へ向かう。
中村御所へ向かう。
惟種は、小さく呟いた。
「……宗運に、何と言おう」
種茂が、何も言わずにこちらを見た。
その目が、少し宗運に似ていた。
土佐へ向かう船は、府内の港を離れたばかりである。
なのに、惟種の悩みは、すでに一人分増えていた。




