第二百三話 師匠
府内館の稽古場に、潮風がかすかに入り込んでいた。
港は近い。
船は待っている。
本来ならば、惟種たちはすでに土佐へ向かう支度を終え、乗船している頃であった。
だが、今、府内館の稽古場には二人の剣客が向かい合っていた。
一人は、塚原卜伝。
もう一人は、愛洲小七郎。
陰流の者である。
二人の手には木刀がある。
真剣ではない。
試合でもない。
果し合いでもない。
名目は、あくまで道中の御指南である。
惟種に、剣を見る目を養わせるため。
そういうことになっていた。
そういうことにした。
少なくとも、惟種はそう思うことにした。
宗運がいない時に使うには、実に便利な言葉である。
稽古場の端には、惟種が座っていた。
その少し後ろに鍋島種茂。
横には島津義弘。
甲斐親英は、半ば諦めたような顔で港の方角を気にしている。
船出前の半刻。
それ以上は待てない。
だが、その半刻で、今から何かとんでもないものが見られる。
そんな空気だけは、素人の惟種にも分かった。
愛洲小七郎は、礼をした。
「改めまして。愛洲小七郎、陰流の者にございます」
声は明るい。
気さくである。
港で声をかけてきた時と変わらない。
だが、木刀を手にした途端、その空気がわずかに変わっていた。
笑みはある。
肩にも力はない。
むしろ、あまりにも自然である。
足を置く。
膝を緩める。
手を下げる。
ただそれだけで、そこに立つ男の周囲だけ、すっと音が遠のいたように感じた。
陰流。
その名の通りだ。
惟種は、思わず息を細くした。
対する卜伝は、静かであった。
「塚原卜伝。微力ながら、お相手いたしましょう」
微力。
その言葉に、惟種は心の中で突っ込んだ。
どこがだ。
だが、口には出さない。
前回、つい「剣の化け物」と口にしたばかりである。
これ以上、余計なことを言うと、また種茂に咳払いされる。
卜伝は木刀を持っていた。
だが、構えたようには見えない。
ただ立っている。
本当に、ただ立っているだけに見える。
それなのに、場が変わる。
愛洲小七郎の周りには、陰が差したような気配がある。
卜伝の周りには、それすらない。
何もない。
何もないのに、どこにも入れない。
惟種は、自分が何を見ているのか分からなかった。
「始め」
種茂が低く告げた。
その瞬間、小七郎が動いた。
速い。
だが、速さを押しつける動きではない。
前へ出た、と思った時には、もう横へ流れている。
斬り込む、と思った時には、木刀の角度が変わっている。
足が浮かない。
体がぶれない。
力でねじ伏せる剣ではない。
相手の力を受けず、逃げず、ただ流れを変える。
木刀が、すっと卜伝の脇へ入った。
惟種の目には、愛洲が先を取ったように見えた。
押している。
そう見えた。
だが、胸の奥で何かが叫んだ。
違う。
絶対に違う。
惟種の体が、理屈より先にそう思った。
卜伝は動いていた。
いや、動いたようには見えなかった。
小七郎の木刀が入る前に、卜伝の足はすでにそこになかった。
受けたのではない。
避けたのでもない。
そもそも、そこにいない。
小七郎の木刀は、何もない場所を通った。
次の瞬間、卜伝の木刀の先が、小七郎の手元に触れていた。
軽く。
本当に軽く。
それだけで、小七郎の木刀の軌道が崩れた。
「っ」
小七郎の目が、わずかに細くなる。
驚きではない。
喜びに近い。
すぐに小七郎は身を沈めた。
今度は低い。
足を払うでもなく、胴を打つでもない。
相手の中心をずらしながら、打つ場所を消していくような動き。
柔らかい。
惟種には、そう見えた。
柔の理。
力で押すのではなく、体の運びで相手の攻めを殺す。
自然な体の動き。
高度な体捌き。
それを剣の中に溶かしている。
愛洲小七郎は、間違いなく強い。
惟種にも、それだけは分かった。
だが。
卜伝は、そのさらに先にいた。
小七郎が崩そうとする前に、卜伝は崩れぬ場所にいる。
小七郎が誘う前に、卜伝は誘いの外にいる。
小七郎が間を詰めたと思った時には、卜伝が間を決めている。
相手の攻撃を受けてから無力化しているのではない。
相手が攻撃に入る前に、その攻撃が実らない場所へ立っている。
未然に察している。
いや、察しているというより、最初から知っている。
惟種の背中に、ぞわりとしたものが走った。
何だ、これは。
剣なのか。
本当に、剣なのか。
愛洲小七郎の木刀が、三度、角度を変えた。
上。
下。
横。
どれも素直な打ちではない。
体の沈み、肩の抜き、足の置き方で、斬る場所を変えてくる。
だが、卜伝はすべて消した。
打ち払ったのではない。
力で弾いたのでもない。
木刀の先が少し触れる。
足が半歩ずれる。
体の向きがわずかに変わる。
それだけで、小七郎の攻めは形を失う。
まるで、まだ芽のうちに摘まれているようだった。
惟種には、途中から何が起きているのか分からなかった。
分からないのに、怖い。
小七郎が押しているように見える。
卜伝は下がっているようにも見える。
だが、違う。
押しているのは、きっと小七郎ではない。
卜伝が、押させている。
そう感じた。
隣で、島津義弘が息を呑んでいた。
その顔から、いつもの若々しい明るさが消えている。
真剣だった。
本当に、真剣だった。
義弘の目は、卜伝の足から離れない。
次に、小七郎の肩を見る。
また卜伝の手元を見る。
惟種には見えない何かを、義弘は必死に追っている。
「義弘」
惟種は、小さく声をかけた。
「見えるか」
義弘は、目を離さずに答えた。
「見えませぬ」
「そうか」
「ですが」
義弘の声は、少し震えていた。
「見えぬことだけは、分かります」
惟種は、その言葉にぞっとした。
武の才を持つ義弘が、見えぬと言う。
だが、見えぬほどのものがそこにあると分かっている。
それが、余計に恐ろしかった。
小七郎が一歩退いた。
初めて、はっきりと距離を取った。
笑みは消えていた。
だが、目は輝いている。
「これは」
小七郎が呟く。
「なんとも」
卜伝は静かに立っていた。
息も乱れていない。
木刀の先も震えていない。
ただ、小七郎を見ている。
「まだ参られるか」
卜伝が問う。
静かな声だった。
挑発ではない。
確認である。
小七郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「もう一手」
「承知」
二人がまた動いた。
今度の小七郎は、先ほどまでよりもさらに柔らかかった。
正面から行かない。
卜伝の視線を外す。
足音を消す。
体を沈め、浮かせ、また沈める。
人が一人いるはずなのに、影だけが滑ってくるようだった。
陰流。
その名にふさわしい剣である。
惟種の素人目にも、美しいと思えた。
美しい。
そして、怖い。
だが、卜伝はそこにもいない。
卜伝の木刀が、小七郎の木刀に触れた。
かん、と軽い音。
次の瞬間、小七郎の木刀の切っ先は床を向いていた。
卜伝の木刀は、小七郎の喉元にあった。
止まっている。
触れてはいない。
だが、そこにある。
稽古場が、静まり返った。
潮風の音だけが聞こえた。
小七郎は動かなかった。
やがて、ゆっくりと木刀を下ろした。
「参りました」
深く頭を下げる。
「これは、勝てませぬ」
その声に、悔しさはあった。
だが、それ以上に晴れやかさがあった。
強い者に出会った喜び。
自分の剣が届かぬ場所を見た驚き。
小七郎は、そんな顔をしていた。
卜伝も木刀を下ろした。
「見事な武でござった」
静かに言う。
「陰流、確かに見せていただいた」
「塚原殿にそう仰せいただけるとは、身に余りまする」
「柔らかき剣にござる。力で押さず、間を濁らせ、攻めを流す。よき剣にござった」
「されど、届きませなんだ」
「届かぬものを知るのも、剣にござる」
小七郎は、もう一度深く頭を下げた。
「まこと、恐れ入りました」
惟種は、黙っていた。
言葉が出なかった。
卜伝が強いことは分かっていた。
一の太刀を見た。
稽古で何度も転がされた。
この人は別格だと知っていた。
知っていたはずだった。
だが、今見たものは、それでも違った。
愛洲小七郎は強かった。
間違いなく強かった。
素人の惟種ですら分かるほど、体の使い方が違った。
その愛洲小七郎が、何もできずに止められた。
ただの負けではない。
歴然の差。
それも、剣の腕の差というより、立っている場所が違うような差であった。
卜伝は、惟種の方を見た。
「若君」
「……はい」
思わず返事が丁寧になった。
「今の、何か見えましたかな」
「まったく」
惟種は正直に答えた。
「ただ、分からぬほど凄い、ということだけは分かりました」
卜伝は、少しだけ笑った。
「それでよろしい」
「よろしいのか」
「分からぬと知ることは、大事にござる」
惟種は、深く頷いた。
今なら分かる。
自分は何も分かっていない。
剣のことも。
間のことも。
立つということも。
卜伝の言葉は、軽く聞こえるのに重かった。
その時、小七郎が惟種へ向き直った。
「阿蘇殿」
「う、うむ」
惟種は、まだ半分ほど心が戻っていなかった。
「此度、塚原殿との立ち合いの機会を賜り、まことにありがたく存じます」
「それは、まあ」
「もしよろしければ」
小七郎は、真剣な顔で頭を下げた。
「これより先、立ち合い、指南、道中の備えなど、某を阿蘇家にお仕えさせていただけませぬでしょうか」
「……お、おう」
惟種は、反射で返事をした。
頭の中は、まだ卜伝の木刀でいっぱいだった。
小七郎が何か大事なことを言っている気がする。
だが、耳を通り抜けていく。
卜伝は何も言わなかった。
ただ、小七郎を止めもしなかった。
それが、余計に重かった。
種茂が、横で微妙な顔をした。
「殿」
「何だ」
「今のは」
「後で聞く」
「後で、でございますか」
「今は無理だ」
惟種は、そう言って立ち上がった。
種茂は一度口を開きかけたが、卜伝と小七郎を見て、静かに閉じた。
愛洲小七郎は強い。
卜伝も、それを否定していない。
ならば今ここで止めるより、後で整える方がよい。
そう判断した顔だった。
惟種は、それに気づかない。
まだ卜伝の方を見ていた。
自然と背筋が伸びる。
頭が下がる。
「卜伝殿」
惟種は、そこで一度言葉を切った。
そして、改めて深く頭を下げた。
「いや、これよりは師匠と呼ばせていただきます」
卜伝が、少しだけ目を丸くした。
「若君」
「師匠」
惟種は、さらに頭を下げた。
「お見事でした」
稽古場に、静かな余韻が残った。
潮風が吹く。
船はまだ待っている。
土佐へ向かう前の半刻は、惟種に剣の深さと、自分の浅さをこれでもかと見せつけていた。
惟種は頭を上げながら、ふと思った。
……あれ。
なんか愛洲殿が言っていたか?




