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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百二話 陰流の男

 府内館の港に、潮風が吹いていた。


 阿蘇の大船は、静かに水面へ影を落としている。


 高い舷側。

 太い帆柱。

 広い甲板。


 土佐へ向かうための支度は、すでに整いつつあった。


 贈答の品も積まれている。

 文箱も積まれている。

 薬も、茶も、紙も、布も積まれている。


 中村御所へ向かう船である。


 土佐一条家との友好を確かめるための船である。


 戦に向かう船ではない。


 そうであるはずだった。


 だが、惟種が船へ向かおうとした時、声がした。


「そちらにおられるは、塚原卜伝殿にござるか」


 港の端に、一人の男が立っていた。


 旅装である。


 だが、ただの旅人ではない。


 腰に刀。

 顔には笑みがある。


 だが、立ち方が違った。


 潮風の中でも、身体の軸がぶれない。


 卜伝が、わずかに目を細めた。


「剣の者でござるな」


 男は、ぱっと顔を明るくした。


「おお、やはり。やはり塚原卜伝殿でござったか」


 その声は、思ったよりも気さくだった。


 無礼といえば、かなり無礼である。


 阿蘇の若き主が船に乗ろうとしている。


 その供に向かって、港の端から声をかけてくる。


 普通なら、その時点で止められている。


 だが、止められていない。


 惟種は、周囲へ目を向けた。


 港には、宗運が置いた目がある。


 親英の船手もいる。

 府内館の警固もいる。

 種茂も、義弘も、すでに動ける位置に立っている。


 それでも、誰も男へ詰めていない。


 つまり、すでに見られている。


 危ういが、すぐ斬る相手ではない。


 そして、おそらく。


 止めようとして、簡単に止まる相手でもない。


 惟種は、小さく息を吐いた。


「中村御所へ行く前から、これか」


 義弘が、少し楽しそうに男を見ている。


 種茂は、文箱を抱えたまま、静かに距離を測っていた。


 親英は、船手に目配せだけを送る。


 卜伝は動かない。


 男は、その場で深く頭を下げた。


「まずは、非礼をお詫び申す。船出の前に声をかけるなど、礼を欠くことは承知しておりまする」


 分かっているなら、なぜやる。


 惟種はそう思った。


 だが、男は悪びれた様子もなく、実に晴れやかな顔で続けた。


「されど、塚原卜伝殿にお目にかかれる機会、逃すわけには参りませなんだ」


「名を聞こう」


 惟種が問うと、男は改めて頭を下げた。


「愛洲小七郎と申します。陰流の者にございます」


 愛洲小七郎。


 陰流。


 その名に、惟種の内心がわずかに跳ねた。


 知っている。


 愛洲の名。

 陰流の名。


 後の剣の流れに、確かに影を落とす名である。


 だが。


 今、この時期、この場所か。


 惟種は、胸の奥で小さく呟いた。


 たしか、今頃は常陸にいるはずではなかったか。


 唐ヶ崎の戦い。


 常陸の兵乱。


 小田、佐竹、そのあたりの争い。


 未来の記憶が、少しだけ軋む。


 史実がずれたか。


 いや。


 ずらしたのは、自分かもしれない。


 九州を大きく動かした。


 大友を変え、島津を変え、龍造寺も鍋島も相良も変えた。


 幕府にも、越後にも、尾張にも手を伸ばした。


 世がずれぬはずがない。


 そのずれが、こうして港の端に、剣客の姿で現れたのかもしれなかった。


「愛洲殿」


 卜伝が静かに言った。


 知っているのか。

 名だけ聞いているのか。


 どちらとも取れる声だった。


「陰流の名は、聞いておりまする」


「それは光栄にございます」


 小七郎は、にこりと笑った。


 思ったより、柔らかい男である。


 剣の者にありがちな、ぎらついた押しつけがましさはない。


 だが、目は強い。


 柔らかいのに、退く気はない。


 そういう目だった。


「して、愛洲殿」


 卜伝は続けた。


「我らは、これより土佐へ向かう途中にござる。またいずれ、ゆるりとお話しできれば」


 穏やかな断りだった。


 惟種も、それで済むならそれがよいと思った。


 船出前である。


 風も潮もある。


 ここで剣客と話し込んでいる場合ではない。


 ところが、小七郎は、困ったように笑った。


「実は、その『いずれ』を何度か願いましてな」


「何度か」


 卜伝の眉が、わずかに動いた。


「はい。府内館へも、阿蘇の方へも、何度か面会を願い出ました」


 惟種は、種茂を見た。


 種茂は、わずかに目を伏せた。


 心当たりがある顔だった。


「種茂」


「はい」


「聞いているか」


「剣の者が塚原殿への面会を願っている、という話は上がっておりました」


「なぜ止まっていた」


「宗運殿が、今はお通しする時ではないと」


「ああ」


 惟種は納得した。


 宗運である。


 おそらく、卜伝の名を聞いて寄ってくる剣客を、一人一人通していてはきりがないと判断したのだろう。


 それは分かる。


 分かるが。


 小七郎は、それで諦めなかったらしい。


「何度願っても叶わぬゆえ、ならば府内で待つしかあるまいと」


 小七郎は、実にあっさり言った。


「待っていたのか」


 惟種が問う。


「はい」


「どれほど」


「数日ほど」


「数日」


「はい。船が出るなら、必ず港へ来られると思いまして」


「張っていたのか」


「言い方を選ばねば、そうにございますな」


 惟種は、額に手を当てた。


 気さくだ。


 気さくだが、普通ではない。


 府内館で張るな。


 阿蘇の港で待ち伏せるな。


 だが、その顔には悪意がない。


 ただ、会いたかっただけ。


 手合わせを願いたかっただけ。


 そういう顔である。


 だから、余計に困る。


「愛洲殿」


 卜伝が、少し低い声で言った。


「船出の前に待ち受けるは、いささか」


「承知しております」


 小七郎は、すぐに頭を下げた。


「無礼千万。お叱りは甘んじて受けまする。されど、塚原殿に一目お目にかかり、もし叶うならば、一度だけ手合わせを願いたかった」


 港に、少しだけ沈黙が落ちた。


 風が帆を鳴らす。


 船手たちが、動きを止めずに横目で見ている。


 義弘の目が輝いた。

 種茂は少しだけ眉を寄せた。

 親英は、潮を見ている顔をしているが、耳は完全にこちらを向いている。

 惟種は卜伝を見た。

 卜伝は、静かに小七郎を見ていた。


 その目は、相手の顔を見ているようで、足を見ている。


 肩を見ている。


 呼吸を見ている。


 刀の重みの置き方を見ている。


 やがて、卜伝は小さく言った。


「なかなかの手合いにござるな」


 小七郎は、嬉しそうに笑った。


「そのように見ていただけるなら、これほどの誉れはございませぬ」


 惟種は、また頭を抱えたくなった。


 卜伝が認めた。


 つまり、弱くない。


 いや、相当強い。


 宗運の手の者が止めなかったのも、止めるべきでないと見たのか、止めきれぬと見たのか。


 どちらにせよ、ただの迷惑な剣客ではない。


 惟種は、船を見た。


 帆はまだ完全には張られていない。


 荷はほぼ積み終わっている。


 風はよい。


 親英に視線を向ける。


「親英」


「は」


「船は」


「今すぐ出るのが、もっともよろしゅうございます」


「そうか」


「ですが、半刻なら、風を待つ名目にできます」


「半刻か」


「それ以上は、潮が変わります」


「分かった」


 惟種は卜伝を見た。


「卜伝殿」


「はい」


「府内館の稽古場で、親善の立ち合い……という形なら、どうだ」


「親善」


 卜伝が少し笑った。


「便利な言葉でござるな」


「宗運がいないうちに使う」


「宗運殿がおられれば、何と」


「道中の御指南、と言うだろう」


「では、それでよろしい」


 卜伝は、静かに頷いた。


 小七郎の顔が、ぱっと明るくなった。


「では」


「ただし」


 惟種は小七郎を見る。


「これは勝負ではない。果し合いでもない。阿蘇の港で血を流されても困る。府内館に移し、木刀で行う。見届け人を置く。礼を外せば、その時点で終わりだ」


「無論にございます」


 小七郎は、深く頭を下げた。


「それで十分。いや、望外にございます」


「望外なら、港で待ち伏せるな」


「次より気をつけまする」


「次がある前提なのか」


「剣の縁は、どこで続くか分かりませぬゆえ」


 惟種は、言い返すのをやめた。


 この男、気さくだが厄介だ。


 そういう種類の男である。


     ◇


 府内館の稽古場は、すぐに整えられた。


 船出の前である。


 本来なら、寄り道をしている場合ではない。


 だが、塚原卜伝と陰流の愛洲小七郎が立ち合う。


 そう聞けば、人の足は勝手に止まる。


 もちろん、広く見せるわけにはいかない。


 見物人は絞られた。


 惟種。

 鍋島種茂。

 甲斐親英。

 島津義弘。

 府内館の警固数名。


 そして、宗運の手の者が、見えぬ場所にいる。

 惟種は、それを感じて少しだけ背筋を伸ばした。


 あとで必ず言われる。


 土佐へ向かう前に、なぜ剣客と立ち合いをさせたのか、と。


 その答えは、一つ用意してある。


 これは、惟種のための稽古である。


 塚原卜伝が、惟種に見せるための立ち合いである。


 剣とは何か。


 構えとは何か。


 間とは何か。


 そして、強き者同士が向かい合う時、場がどう変わるのか。


 それを見せるためのもの。


 そういう名目である。


 名目ではある。


 だが、嘘ではなかった。


 卜伝は、惟種の方を見た。


「若君」


「何だ」


「よく見ておかれよ」


 その声は、いつもより少しだけ真面目だった。


「剣は、振る前に始まっておりまする」


 惟種は、黙って頷いた。


 愛洲小七郎も、木刀を手にしていた。


 軽く握っている。


 力んでいない。


 笑みは消えていない。


 だが、港で見せていた気さくさとは、少し違う。


 そこに立つだけで、空気が細くなる。


 義弘が、小さく息を呑んだ。


 種茂も表情を引き締めている。


 親英でさえ、潮を気にする顔をやめていた。


 小七郎は、卜伝へ向かって深く礼をした。


「愛洲小七郎、陰流。塚原殿にお目通り叶い、まことに恐悦にございます」


 卜伝も、静かに礼を返す。


「塚原卜伝。微力ながら、お相手いたしましょう」


「微力とは」


 惟種は、思わず小さく呟いた。


 種茂が横で咳払いした。


 小七郎は笑った。


「天下に聞こえた塚原殿に、微力と言われては、こちらの立つ瀬がございませぬな」


「剣の前では、名は軽うござる」


 卜伝は静かに答えた。


「立てば、ただ一人と一人にござる」


 小七郎の目が、すっと細くなった。


「よきお言葉」


 卜伝は、木刀を手に取った。


 構えた、というほどでもない。


 ただ、立った。


 だが、その瞬間、稽古場の空気が変わった。


 惟種は、息を止めた。


 これだ。


 この人は、ただ立つだけで場を変える。


 小七郎もまた、笑みを残したまま、半歩だけ足を置いた。


 陰が差したように見えた。


 明るい男だったはずなのに、その身の周りだけ、すっと暗くなる。


 陰流。


 その名の通りだと、惟種は思った。


 卜伝の声が、静かに落ちた。


「では、愛洲殿」


 木刀の先が、わずかに下がる。


「若君のため、一手、お願いいたす」


 小七郎が、深く頷いた。


「喜んで」


 府内館の稽古場に、潮風の音だけが残った。


 船出の前の半刻。


 土佐へ向かうはずの道は、思わぬところで、陰流の男と塚原卜伝を向かい合わせていた。


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