第二百一話 土佐への船
土佐行きが決まった翌朝。
惟種は、塚原卜伝のもとへ向かった。
卜伝は、館の一角で静かに茶を飲んでいた。
木刀は脇に置いてある。
ただ座っているだけなのに、妙に隙がない。
惟種は、それを見るたびに思う。
この人、本当に人間なのだろうか。
「卜伝殿」
「若君」
卜伝は、茶碗を置いて顔を上げた。
「少し、土佐一条家へ向かうことになった」
「土佐でござるか」
「うむ。中村御所にて、若き一条殿と会う」
「なるほど」
卜伝は、それだけ言って静かに頷いた。
驚いた様子はない。
ただ、遠い地の名を聞いたという顔であった。
「しばらく稽古は空くかもしれぬ」
惟種は、そう告げた。
土佐へ向かうとなれば、数日で戻れる話ではない。
船を使うにしても、風と潮を見ねばならぬ。
中村御所での対面もある。
帰路には、三間土居家へ寄るつもりでもある。
つまり、しばらく剣の稽古は止まる。
そのつもりで言った。
だが、卜伝はあっさり言った。
「では、某も参りましょう」
「……は?」
惟種は、思わず聞き返した。
卜伝は、当然のような顔をしている。
「道中でも稽古はできまする」
「いや、そういう話では」
「土佐の武者も見てみたい。若き主も見てみたい。海を渡るのも悪くござらぬ」
「卜伝殿」
「何でござる」
「軽いな」
「旅とは、そういうものでござる」
いや、そうではない。
少なくとも、惟種にとってはそうではない。
土佐一条家との友好。
中村御所。
一条兼定。
土居宗珊。
帰路の三間土居家。
土居清晴と虎松。
どれも軽くない。
だが、卜伝の口から出ると、ただの旅のように聞こえる。
惟種は少し困って、横に控えていた宗運を見た。
宗運は、じっと卜伝を見ていた。
それから、静かに頷く。
「塚原殿に御同行いただけるなら、これ以上ない抑えとなりましょう」
「抑え」
惟種は、少し声を落とした。
「警護か」
「警護ではございませぬ」
宗運は即座に否定した。
「道中の御指南役にございます」
「実質、警護ではないか」
「言葉が大事にございます」
「便利な言葉だな」
「便利に使うための言葉にございます」
卜伝は、二人のやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。
「某は、若君の剣を見まする。それだけでござる」
「その場に卜伝殿がいるだけで、並の者は手を出せぬ」
「それは、相手の考えることでござる」
「強い人の言い方だ」
「強きかどうかは、斬り合ってみねば分かりませぬ」
「いや、分かる。分かっている」
惟種は、深く息を吐いた。
ありがたい。
あまりにもありがたい。
ただし、ありがたすぎて怖い。
土佐へ向かう供に塚原卜伝が加わる。
それだけで、道中の空気が変わる。
兵を多く連れずとも済む。
土佐一条家へ威圧を与えすぎず、それでいて隙を見せずに済む。
宗運がそう考えていることも分かる。
分かるのだが。
「卜伝殿を、こういう形で頼ってよいのか」
惟種が問うと、卜伝は静かに答えた。
「若君」
「うむ」
「某は、阿蘇へ来て、飯を食い、湯にも入り、稽古の場もいただいておりまする」
「それは、こちらが望んだことだ」
「ならば、某が少し旅の道を共にするのも、こちらが望むことにござる」
惟種は、言葉に詰まった。
卜伝は茶碗を手に取り、ゆっくりと茶を飲んだ。
「土佐の風も、見てみたい」
その一言で、話は決まった。
◇
同行者は、すぐに定まった。
鍋島種茂。
これは当然であった。
惟種が動く時、種茂はたいてい側にいる。
文を持ち、道を見、場の空気を読み、時に惟種の余計な一言を止める。
止めきれないことも多いが、それでも必要な者である。
次に、甲斐親英。
船を使う以上、外せない。
阿蘇の船手を束ね、港を見、潮を読み、船頭たちを動かす。
府内より土佐へ渡るなら、親英がいなければ始まらない。
そして、塚原卜伝。
表向きは道中の御指南役。
実質は、最強の抑止力。
最後に、島津義弘。
これについては、惟種が少しだけ首を傾げた。
「義弘も行くのか」
「はい」
宗運が淡々と答えた。
「いつの間に決まった」
「殿が土佐へ行くと聞いた時点で、本人が行く気になっておりました」
「本人が」
「はい」
「止めなかったのか」
「止める理由が薄うございます」
宗運は涼しい顔で続けた。
「島津家の若き者に、土佐一条家を見せることは悪くございませぬ。海を渡り、他国の御所を見、若き当主を見る。よい学びとなりましょう」
「なるほど」
「それに、島津義弘殿は、すでに殿の供回りに馴染んでおります」
「馴染んでいるな」
「もはや、当然のような顔で控えております」
「それはそれで、どうなのだ」
「阿蘇としては悪くございませぬ」
そう言われれば、そうである。
島津義弘はまだ若い。
だが、目が良い。
動きも良い。
何より、惟種の無茶に慣れ始めている。
それが良いことなのか悪いことなのか、惟種には分からない。
だが、宗運が認めているなら、使い道はあるのだろう。
少なくとも、義弘本人は嬉しそうだった。
「殿、此度も御供いたします」
そう言って頭を下げる顔は、実に晴れやかであった。
「義弘」
「はっ」
「土佐見物ではないぞ」
「承知しております」
「本当にか」
「はい。中村御所、一条家、土佐の武者、港、山、道、すべて見て学びます」
「……見物ではないか」
「学びにございます」
惟種は宗運を見た。
宗運は目を逸らした。
「おい」
「若き者の学びは大事にございます」
「便利な言葉だな」
「殿も、よく使われます」
「そうだったか」
「はい」
種茂が横で小さく笑いを堪えていた。
親英は、すでに船のことを考えている顔をしていた。
卜伝だけが、静かに木刀を拭いていた。
こうして、土佐行きの供は決まった。
鍋島種茂。
甲斐親英。
塚原卜伝。
島津義弘。
それに、最低限の供回りと警固。
兵は多すぎぬようにする。
土佐へ戦を運ぶのではない。
だが、阿蘇の若き主が海を渡る。
軽く見せるわけにもいかなかった。
◇
出立までの数日は、慌ただしかった。
宗運は阿蘇に残る。
当然である。
惟種が動く以上、阿蘇の内は宗運が押さえねばならない。
銭の定め。
阿蘇大蔵方。
阿蘇本蔵。
山の改め。
道普請。
城の整理。
尾張からの密文への備え。
どれも、止めるわけにはいかない。
「宗運も来るか」
惟種が軽く言うと、宗運はじとりとした目で見てきた。
「殿」
「冗談だ」
「冗談に聞こえませぬ」
「半分は冗談だ」
「残り半分が問題にございます」
宗運は、文箱を三つ並べた。
「土佐一条家への文。土居宗珊殿への内々の文。三間土居家への文。そして西園寺家へ筋を通す文。いずれも整えます」
「助かる」
「助かる前に、増やさぬよう願いたいものにございます」
「もう増やさぬ」
「信じてよろしいので」
「たぶん」
「たぶんでございますか」
宗運の目が、さらに細くなった。
「殿」
「何だ」
「土佐では、余計な約束をなされませぬよう」
惟種は、さすがに少しだけ姿勢を正した。
「宗運」
「はい」
「土佐へは、阿蘇の余裕として行く。呼ばれて下るのではない。だが、威張りに行くのでもない。若き一条殿を見、宗珊殿の願いを聞き、こちらの目で土佐を見る。それだけだ」
宗運は、しばらく惟種を見た。
やがて、静かに頭を下げる。
「その御心ならば、よろしゅうございます」
「信用が薄いな」
「これまでの積み重ねにございます」
「言うな」
「言わねば積み重なります」
最後まで宗運であった。
◇
数日後。
惟種たちは府内へ入った。
府内館の港には、すでに阿蘇の大船が待っていた。
惟種の新型船である。
高い舷側。
太い帆柱。
広い甲板。
腹の底には荷を抱え、必要なら大筒も載せられる。
だが、此度は大筒を見せすぎぬよう、覆いがかけられていた。
戦に行くのではない。
土佐一条家との友好を確かめに行くのだ。
旗も控えめにしてある。
それでも、船そのものがすでに大きすぎた。
「控えめとは」
惟種が呟く。
親英が真顔で答えた。
「これでも控えめにございます」
「そうか」
「大筒も隠しております。兵も絞っております。荷も贈答が主にございます」
「船が大きい」
「小さくはできませぬ」
「それはそうだな」
港では、府内の者たちが遠巻きに船を見ていた。
見慣れている者もいる。
それでも、阿蘇の大船が帆を張る姿は目を引く。
これが土佐の湊に入れば、嫌でも阿蘇の力は伝わるだろう。
惟種は、少しだけ額に手を当てた。
「威圧にならぬか」
種茂が答えた。
「兵を並べるよりは、よろしいかと」
「そうか」
義弘は、船を見上げて目を輝かせていた。
「何度見ても、大きい船にございますな」
「義弘、遊びではないぞ」
「承知しております」
「本当にか」
「はい」
「その顔は」
「学びにございます」
「便利な言葉が広まっている」
卜伝は、船を見上げて静かに言った。
「これは、城でござるな」
「船だ」
「海に浮く城にござる」
惟種は、少しだけ黙った。
それは、言い得ていた。
海に浮く城。
阿蘇の船は、まさにそういうものになりつつある。
ただし、城は動かない。
この城は動く。
それが、恐ろしくもあり、頼もしくもあった。
「卜伝殿、船は得意か」
「得意ではござらぬ」
「そうなのか」
「斬る相手が揺れるならよいが、己が揺れるのは困りまする」
「卜伝殿でも困るのか」
「人でござるゆえ」
「よかった。人だった」
「若君」
卜伝が少しだけ笑った。
「某を何だと思っておられる」
「剣の化け物」
惟種が正直に言うと、種茂が咳き込んだ。
義弘は目を丸くした。
親英は聞かなかったふりをした。
卜伝は、しばらく黙った後、静かに笑った。
「では、船の上では人に戻りましょう」
「ぜひそうしてくれ」
そう言って、惟種が船へ向かおうとした時だった。
「そちらにおられるは、塚原卜伝殿にござるか」
声がした。
惟種は足を止めた。
港の端に、一人の男が立っていた。
旅装である。
だが、ただの旅人ではない。
腰に刀。
立ち方に隙がない。
潮風の中でも、身体の軸がぶれない。
卜伝が、わずかに目を細めた。
「剣の者でござるな」
男は静かに頭を下げた。
惟種は、思わず小さく呟いた。
「……中村御所へ行く前から、これか」
土佐への道は、府内の港へ入った瞬間、剣客に声をかけられた。




