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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二百話 若き主への道

 天文二十一年(一五五一年)二月 中旬


 尾張よりの密文が阿蘇の館に波を残してから、幾日かが過ぎた。


 信秀は死ぬ。


 ただし、死なぬ。


 尾張では近く喪の気配が流れ、織田家中の火種が炙られる。


 惟種はその文を思い出すたび、少しだけ遠い目になった。


 東も面倒である。


 だが、西も静かではない。


 阿蘇の館には、今日も文が届く。


 蔵の文。

 道の文。

 銭の文。

 兵の文。

 港の文。

 寺社の文。

 そして、遠国よりの文。


 その一つを、宗運が惟種の前へ置いた。


「土佐よりにございます」


「土佐」


 惟種は顔を上げた。


「土居宗珊殿か」


「はい」


 文の封は丁寧だった。


 惟種は封を切り、しばらく読み進める。


 途中で、目が止まった。


「……兼定殿が、中村御所へ戻られたか」


「そのように」


 文には、土佐一条家の若き当主、一条兼定が京より中村御所へ帰座したことが記されていた。


 まだ幼い主である。


 本来ならば、もう少し京に留まり、都の空気を身につける時でもあった。


 だが、阿蘇家との友好が形になった。


 ならば、若き当主が土佐へ戻り、自ら家を見、国を見、阿蘇家との縁を確かめる。


 そういう筋であった。


 文は、その帰座を知らせるとともに、惟種へ願っていた。


 もし御都合許されるならば、中村御所にて若き一条殿と御目通りの機会を賜りたい。


 阿蘇家に御足労を願うこと、まこと畏れ多きこと。


 されど、それが叶えば、土佐一条家としてこの上なき面目である。


 そう、丁寧に書かれていた。


 惟種は文を畳まず、しばらく眺めた。


「上手いな」


「上手うございます」


「こちらを呼びつけた形にはしていない」


「はい」


「だが、願いははっきりしている。中村御所に来てほしい、か」


「その通りにございます」


 宗運は静かに言った。


「殿」


「何だ」


「利用されているのは、分かっておられますな」


 惟種は、少しだけ口元を緩めた。


「分かっている」


「ならば、なぜそのようなお顔を」


「どのような顔だ」


「嬉しそうなお顔にございます」


「……そう見えるか」


「見えます」


 宗運の声は冷静だった。


 冷静だからこそ、痛い。


 阿蘇惟種が中村御所へ足を運べば、土佐一条家の内外に示せる。


 若き兼定には、阿蘇との縁がある。


 土居宗珊が結んだ友好は、ただの文ではない。

 阿蘇は土佐一条家を見捨てていない。

 そう見せられる。


 利用である。


 だが、悪意ではない。


 宗珊は、若き主を守ろうとしている。


 土佐一条家を立たせようとしている。


 そのために、自分の持つ札を切った。


 その札の一つが、阿蘇惟種である。


 惟種は、それが分かっていた。


 分かった上で、少し心が動いていた。


「兼定殿を、一度見ておきたい」


「若き一条殿を、でございますか」


「ああ」


「それだけではございませぬな」


 宗運の目が細くなる。


 惟種は少し視線を逸らした。


「中村御所も見てみたい」


「やはり」


「土佐の海も見ておきたい」


「増えましたな」


「土佐一条家が、どのように立っているのかも見たい」


「もっともらしい理由も増えましたな」


「全部本音だ」


「最後の一つだけであれば、まだよろしゅうございました」


 惟種は、聞かなかったふりをした。


 宗運は深く息を吐く。


「阿蘇が上にございます。こちらから赴かねばならぬ筋ではございませぬ」


「分かっている」


「土佐一条家に請われ、阿蘇が応じる。その形を崩してはなりませぬ」


「分かっている」


「若き一条殿を見下ろすようでもならず、過度に持ち上げるようでもならず」


「難しいな」


「ですので、余計なことは仰せになりませぬよう」


「わしがいつ余計なことを言った」


 宗運は黙った。


 黙ったまま、じっと惟種を見た。


「何か言え」


「奄美」


「やめろ」


「一の太刀」


「やめろ」


「阿蘇蔵省」


「それは悪くなかっただろう」


「止めました」


「……分かった。気をつける」


「ぜひ」


 宗運の返事は、妙に力が入っていた。


     ◇


 土佐へ向かうとなれば、話は簡単ではない。


 府内へ港の報せを求める文。


 土佐一条家へ返す文。


 宗珊への内々の返事。


 贈答、供回り、警固。


 道中で会うべき者、会わぬべき者。


 全て、宗運の前で札になっていく。


 惟種は、その札の増え方を見て、少し顔をしかめた。


「また増えたな」


「殿が行くと仰せになりましたので」


「中村御所を見るだけなのだが」


「見るだけで済む場所ではございませぬ」


「そうだな」


 惟種は地図を見た。

 九州。

 豊後。

 日向。

 海。

 土佐。

 中村。

 そして、その先に伊予。


 地図の上で見れば、近く見える。


 だが、実際には海と山と人の腹がある。


 中村御所へ行く。


 土佐一条家の若き主に会う。


 それだけでも、十分に大きなことだった。


 しかし、惟種の目はいつの間にか伊予へ動いていた。


 三間。

 土居清晴。

 虎松。


 まだ五つ、六つほどの幼い子。


 背筋を伸ばし、一生懸命に父の横で座っていた姿を、惟種は覚えている。


 清晴は、その子を阿蘇で預かってほしいと願った。


 学ばせたい、と。


 人質の意味もある。


 だが、それだけではない。


 阿蘇の学び、国の作り方、人を見る目、道を見る目。


 それを幼いうちから見せたい。


 清晴はそう言った。


 惟種は、その願いをすぐには受けなかった。


 幼い子を預かるとは、ただ人質を得ることではない。


 その命を預かることだ。


 その家の未来を、少し曲げることだ。


 だが、気になっていた。


 ずっと、気になっていた。


「宗運」


「はい」


「土佐へ行くなら、帰りに三間土居家へ寄るか」


 宗運は、しばらく黙った。


 それから、ゆっくりと息を吐いた。


「……やはり、そうなりますか」


「やはり、とは何だ」


「殿のお顔が、すでに伊予を見ておりましたので」


「わしの顔は帳ではない」


「読みやすい帳にございます」


 惟種は少し唇を尖らせた。


「虎松のことを、文だけで決めるのは危うい。清晴殿の本気も見たい。母君や家中がどう受け止めているかも見たい」


「それは、もっともにございます」


「だろう」


「ですが、中村御所も見たい。三間も見たい。虎松殿も気になる。そういうことでございましょう」


「……否定はせぬ」


「珍しゅうございますな」


「否定しても無駄だろう」


「はい」


 宗運は、もう一度ため息をついた。


 怒ってはいない。


 呆れている。


 そして、すでに考え始めている。


「三間へ寄るとなれば、西園寺家にも筋を通さねばなりませぬ。土居清晴殿へも、事前に文を送ります。土佐一条家にも、帰路について含みを持たせた返答が必要にございます」


「頼む」


「そこだけ素直になられましても」


「頼りにしている」


「助からぬ道を増やしておいて、そう仰せになりますか」


「助かっているのは本当だ」


 宗運は文箱を引き寄せた。


 筆を取り、しばらく考える。


「まず、土居宗珊殿への返答でございます」


「うむ」


「中村御所にて若き一条殿と御目通りすること、阿蘇として承る。ただし、これは友好と通交を深めるためであり、土佐一条家を下に見るものでも、阿蘇が土佐に口を入れるものでもない。その筋を柔らかく入れます」


「よい」


「次に、土居清晴殿へは、以前の願いにつき、改めて話を聞きたいという形がよろしいかと。虎松殿の件を決めに行くのではなく、見極めるためにございます」


「それでよい」


「西園寺家にも文を出します。三間土居家だけを見れば、面白く思わぬ者が出ます」


「そうだな」


「本当に分かっておられるなら、もう少し早めに仰せいただきたいものです」


「思いついたのだ」


「でしょうな」


 宗運は、ため息交じりに筆を下ろした。


 その手は早い。


 不満を言いながら、整えるのは早い。


 惟種は、その姿を見ながら少しだけ笑った。


「宗運」


「何でございましょう」


「助かる」


 宗運は筆を止めなかった。


 ただ、声だけを少し和らげた。


「承っております」


 土佐中村。

 一条兼定。

 土居宗珊。

 伊予三間。

 土居清晴。

 虎松。

 若き主と、幼き芽。


 阿蘇がそこへ足を運ぶ。


 無理に行く必要はない。


 呼ばれたから従うわけでもない。


 だが、行く。


 利用されると分かっていても。


 中村御所を見てみたいという、少し軽い本音があっても。


 三間の幼い芽が気になっても。


 それでも、その先に何かがある気がした。


 惟種は、ぽつりと言った。


「……また、道が増えたな」


 宗運は、筆を走らせながら答えた。


「殿が増やされたのでございます」


「言うな」


「文も増えました」


「言うな」


「供も増えます」


「宗運」


「はい」


「言うな」


 宗運はそこでようやく筆を止め、じとりとした目で惟種を見た。


「では、最後に一つだけ」


「何だ」


「殿は、土居家に甘うございます」


「……それも言うな」


 冬の終わりの風が、館の外を吹いていた。


 阿蘇の道は、また一つ、四国へ伸びようとしていた。



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