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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百九十九話 尾張よりの密文

 天文二十一年(一五五二年)二月


 阿蘇の館に、尾張よりの使者が入った。


 名は、平手政秀。


 表向きは、年始の挨拶であった。


 阿蘇家の伸張への祝辞。

 織田家よりの礼。

 信秀の近況。

 信長の成長。


 そうした文を携えての来訪である。


 だが、惟種は平手の顔を見た瞬間、少しだけ眉を上げた。


 重い。


 笑みはある。


 礼も乱れていない。


 だが、目の奥が疲れている。


 これは、ただの挨拶ではない。


 隣に控える宗運も、同じことを見て取ったのだろう。何も言わず、侍女と小姓を下がらせた。


 部屋には、惟種と宗運、そして平手政秀だけが残った。


「遠路、よう参られた」


 惟種が声をかけると、平手は深く頭を下げた。


「惟種殿におかれましては、ますます御威光盛んにて、恐悦至極に存じます」


「堅いな」


「堅くもなりまする」


 平手は、少しだけ苦笑した。


「此度は、弾正忠様より、表の文とは別に、内々の文を預かっております」


「やはりか」


 惟種は宗運を見た。


 宗運はすでに文箱を受け取る支度をしている。


 平手は懐より細く畳まれた文を出した。


 封には、織田弾正忠信秀の花押。


 さらに、別の小さな紙片が挟まれている。


「これは」


「三郎様より」


 信長からもか。


 惟種は、少しだけ目を細めた。


 宗運が封を改め、問題ないと見てから、惟種の前へ置く。


 惟種は、まず信秀の文を開いた。


 筆跡は力強い。


 病人の文には見えなかった。


「……元気そうだな」


 惟種は、思わず呟いた。


 平手の顔に、わずかな安堵と疲れが同時に浮かんだ。


「はい。頗る」


「頗るか」


「頗るにございます」


 惟種は文へ目を戻した。


 そこには、信秀が近頃酒を断ち、塩を控え、夜更けの評定を減らし、阿蘇より届いた薬も用いていることが記されていた。


 さらに、三郎信長への家督移譲の支度も、少しずつ進めているとある。


 惟種は、口元を押さえた。


 本来なら、もう尾張では喪の支度が始まっていてもおかしくない頃である。


 それが、酒をやめ、塩を控え、無理を減らし、薬を飲んだだけでここまで変わる。


 養生、大事。


 しみじみ思った。


「若君」


 宗運が横から声をかける。


「顔に出ております」


「何がだ」


「また、何かをご存じの顔にございます」


「気のせいだ」


「便利な言葉でございますな」


 惟種は咳払いし、文を読み進めた。


 読み進めるうちに、顔から笑みが消えた。


 尾張東部への今川の調略。


 三河筋からの揺さぶり。


 信長への家督移譲を快く思わぬ者たち。


 そして、甲斐、相模、駿河の間に結ばれつつある、不穏な縁。


 惟種は、文の一節で指を止めた。


「北条、武田、今川……」


 宗運の目が細くなる。


「三家が結ぶ、と」


「まだ気配だ。だが、信秀殿は嗅いでおる」


 惟種は低く言った。


「甲斐の武田晴信。相模の北条。駿河の今川。これが本当に結べば、今川は背を気にせず西へ向ける」


「尾張へ、でございますな」


「ああ」


 惟種は文を畳みかけ、まだ続きがあることに気づいた。


 そこから先は、さらに重かった。


 近く、尾張にて弾正忠が御不例深き由、広く伝わるやもしれませぬ。


 されど、これは織田家中を定めるための一手にて、阿蘇家におかれましては、御心を騒がされませぬよう願い奉る。


 惟種は、そこで動きを止めた。


 宗運も、文を横から読み、わずかに眉を上げる。


「平手殿」


 惟種が顔を上げる。


「これは」


 平手政秀は、深く頭を下げた。


「弾正忠様は、死なれませぬ」


「死なぬのに、喪の支度をするのか」


「そのようにございます」


 部屋の空気が、少しだけ奇妙になった。


 惟種は文をもう一度見た。


 文には、そこまで詳しくは書かれていない。


 だが、平手がここまで来た意味は分かった。


 信秀は、自らの病と死期の噂を利用するつもりであった。


 病篤しと見せる。

 喪が近いと思わせる。

 織田家中の不満分子を動かす。

 今川に通じる者を炙り出す。

 信長の継承を妨げようとする者に、先に手を出させる。


 そして、出たところを叩く。


 惟種は、しばらく黙った。


 やがて、ふっと笑った。


「悪くない」


 宗運が横目で見る。


「若君」


「いや、悪くないだろう」


「失敗すれば、尾張が割れますぞ」


「それも分かる」


 惟種は、文を指で叩いた。


「だが、本当に信秀殿が死ねば、どうせ割れる。ならば、生きているうちに割れ目を見つける方がよい。死の気配を見せれば、隠れていた者が顔を出す。顔を出せば、名が分かる。名が分かれば、叩ける」


 宗運は否定しなかった。


 ただ、平手を見た。


「平手殿」


「は」


「たいそう、胃に悪うございますな」


 平手政秀は、深く頷いた。


「まことに」


 その返事は、あまりに早かった。


「弾正忠様は、もともと御体を崩しがちでございました。ゆえに、噂を流す土台はございます。そこへ阿蘇殿よりの御文が効きまして、酒を断ち、塩を控え、薬を用い、今はかえって顔色も良い」


「それで、死に近いふりをするのか」


「はい」


「元気なのに」


「元気であるからこそ、裏で動けるとの仰せにございます」


 惟種は、思わず笑った。


「信秀殿らしいと言えば、らしいな」


「殿は、それを逆手に取ると申されました」


「信長殿は」


 惟種が問うと、平手の顔が少し疲れた。


「若は、面白がっておられました」


「やはりか」


「ただし」


 平手は、そこで声を落とした。


「目は笑っておられませなんだ」


 惟種は、静かに頷いた。


 それでよい。


 信長がただ面白がっているだけなら危うい。


 だが、面白がりながら、その裏で相手の首筋を見ているなら、信長である。


「若は、こう申されました」


 平手は続けた。


「死んだ父に逆らう者より、生きている父に逆らう者の方が扱いやすい、と」


 宗運が、わずかに目を細めた。


「なるほど」


「怖いな」


 惟種は苦笑した。


「実に怖い」


「若君が申されますか」


「宗運、今は尾張の話だ」


「承知しております」


 承知している顔ではなかった。


 惟種は、今度は信長からの小さな紙片を開いた。


 そこには、短い文がある。


 阿蘇の若君へ。

 父上は死ぬ。

 しばらくの間だけ。

 尾張が少し騒がしくなるが、心配はいらぬ。

 騒ぐ者ほど、よく見える。


 惟種は、額に手を当てた。


「雑だ」


「三郎様らしい文にございます」


 平手の声には諦めがあった。


「これは、雑だ」


 宗運が紙片を見て、静かに言った。


「しかし、意味はよく通りますな」


「通るから困る」


 惟種は紙片を畳んだ。


「この紙片は」


 惟種が問うと、平手は静かに頭を下げた。


「三郎様より、御覧の後は焼くようにと」


「だろうな」


 惟種は火鉢へ目を向けた。


 宗運が無言で紙片を受け取り、火に近づける。


 紙は、すぐに黒く縮れた。


「雑な文ほど、残ると厄介だ」


「まことに」


 平手は深く頷いた。


 惟種は、改めて信秀の文を畳んだ。


「織田家は、当家にこれを知らせるほどには、こちらを信じているということだな」


「はい」


 平手は頭を下げた。


「弾正忠様も、三郎様も、阿蘇家には先に知らせるべきと申されました。もし尾張に喪の気配が流れ、阿蘇家が慌てられれば、余計な波が立ちますゆえ」


「確かに、知らねば慌てる」


 惟種は宗運を見た。


「宗運など、すぐ裏を取らせるだろう」


「すでに手の者を考えました」


「早いな」


「尾張の弾正忠様が亡くなるやもしれぬとなれば、当然にございます」


「死なぬがな」


「死なぬと知っていても、確認はいたします」


「それもそうか」


 平手が、さらに胃を押さえたような顔をした。


「どうされた」


「いえ。阿蘇家にも尾張へ目があると思うと、胃が」


「安心せよ。悪いようにはせぬ」


「ありがたき……ことに、ございます」


 ありがたそうに聞こえなかった。


 宗運は、もう一度信秀の文へ目を落とした。


「北条、武田、今川の縁につきましては、どこまで確かに」


 平手は姿勢を正した。


「まだ、文として掴んだものではございませぬ。ただ、駿河の動き、甲斐の使者、相模の気配、いずれも重なっております。弾正忠様は、今川が東を固めてから西へ出るつもりではないかと」


「今川義元は、尾張を欲しがるか」


 惟種が問う。


「欲しがりましょう」


 平手は即答した。


「三河を通じ、尾張東部へ手を入れ、織田の内が割れれば、必ず」


「だろうな」


 惟種は腕を組んだ。


 史実より早いか。


 いや、自分がいろいろ動かした。


 武田と村上を止め、長尾を動かし、東国の道を少し変えた。


 信秀も生きている。


 ならば、今川も史実通りではない。


 流れは変わる。


 変わった水は、別のところで渦を作る。


「平手殿」


「は」


「織田家中で、信長殿への家督移譲はどこまで進んでいる」


「表の筋は、かなり整いました。されど、腹の底まで整ったとは申せませぬ」


「信行殿の周りか」


 平手は、少しだけ目を伏せた。


「名を出すには早うございます」


「分かった」


 惟種はそれ以上問わなかった。


 信長の弟、信行。


 その周りに火種があるのは分かる。


 だが、ここで名を無理に出せば、平手も困る。


「では、信秀殿は、その火種を見たいわけだ」


「はい」


「今川に通じる者、信長殿を嫌う者、信秀殿の死を機に動く者。まとめて見る」


「そのように」


「よい計だ」


 惟種は、もう一度言った。


「危ういが、よい」


 宗運が静かに言う。


「よい計ほど、危ういものにございます」


「それもそうだ」


 平手は、遠い目をした。


「弾正忠様も三郎様も、危うい方がお好きで」


「平手殿」


 宗運が真顔で言った。


「胃薬をお持ち帰りなされませ」


「ぜひ」


 即答であった。


 惟種は少し笑い、文箱から別の小紙を出した。


「信秀殿には、養生を続けよと伝えてくれ。死んだふりをして本当に死んでは笑えぬ」


「まことに」


「酒はまだ戻すな。塩も控えよ。夜更けの評定も減らせ。薬は宗運に用意させる」


「ありがたく」


「信長殿には」


 惟種は少し考えた。


「父が生きている間に、父の死後の敵を見られるのは得難いことだ、と伝えよ」


 平手が顔を上げた。


「それは」


「ただし、見えた敵を全て斬ればよいわけではない。使える者は使え。許す者は許せ。だが、二度目は許すな、と」


 平手は、深く頭を下げた。


「必ず」


 宗運が横で言った。


「殿」


「何だ」


「尾張へそこまで口を出してよろしいので」


「向こうから胃の痛い文を持ってきたのだ。少しは返してよかろう」


「なるほど」


 宗運は涼しい顔で頷いた。


「では、こちらも胃の痛い返事でございますな」


「やめよ。平手殿が倒れる」


「もう少しで倒れそうにございます」


 平手が小さく言った。


 惟種は笑いを堪えた。


     ◇


 その後、細かな確認が行われた。


 阿蘇から織田へ送る薬。


 尾張で喪の気配が流れた場合の阿蘇家の表向きの返答。


 平手が阿蘇へ来た事実を、どこまで表に出すか。


 信秀の病篤き噂を疑わせぬため、阿蘇が過度に静まりすぎぬこと。


 かといって、大げさに騒ぎすぎぬこと。


 信秀の文を残すか、写しを取るか、誰の目に触れさせるか。


 宗運は、淡々と文案を整えた。


 恐ろしいほど早い。


「宗運」


「はい」


「もう慣れたか」


「慣れたくはございませぬ」


「だが、手が早い」


「殿が厄介事を持ち込まれるので」


「今回は尾張から来た」


「殿が以前、織田家へ文を送られたからでございましょう」


「……そう言われると、少し困る」


 平手が、心底同情するように宗運を見た。


「甲斐殿も、ご苦労が絶えませぬな」


「平手殿ほどでは」


「いえ、甲斐殿ほどでは」


 二人は、互いに静かに頭を下げた。


 妙な連帯が生まれていた。


 惟種は、それを見て少しだけ居心地が悪くなった。


「二人で苦労人の座を作るな」


「必要かと」


「必要にございますな」


「やめよ」


     ◇


 日が傾く頃、話はようやく終わった。


 平手政秀は、文を納め、深く頭を下げた。


「此度のこと、織田家にとっても大事にございます。惟種殿にお知らせできたこと、弾正忠様も三郎様も安堵されましょう」


「安堵するには、まだ早い」


 惟種は言った。


「尾張はこれから騒ぐ。信秀殿は死なぬのに、死に近い者として扱われる。信長殿は病の父の陰で目を光らせる。平手殿は胃を押さえる」


「最後が一番確かにございます」


 平手は真顔で言った。


 惟種は、とうとう少し笑った。


「まあ……頑張れ、平手殿」


「その一言が、何より胃に響きまする」


「ならば、帰りは当家の船を使え」


 平手が顔を上げた。


「船、にございますか」


「うむ。博多まで出れば、当家の船手が使える。外海を回すには風を見る必要があるが、陸を長く戻るより早い。尾張へ急ぐなら、船の方がよかろう」


 宗運が頷いた。


「すでに手配いたします。阿蘇の船ならば、荷も人も守りやすうございます」


「ありがたき幸せにございます」


 平手は深く頭を下げた。


「ただし」


 惟種は言った。


「揺れるぞ」


 平手は、真顔で胃のあたりを押さえた。


「……胃が」


「胃薬も積ませる」


「重ね重ね、ありがたく」


 その顔は、本当にありがたいのか、さらに不安になったのか、判別がつかなかった。


     ◇


 平手政秀が退出した後、部屋には惟種と宗運だけが残った。


 信秀の文。


 信長の小紙。


 尾張の喪の気配。


 今川の調略。


 北条、武田、今川の気配。


 惟種は、それらを文箱に収めながら、深く息を吐いた。


「尾張も、大概面倒な国だな」


 宗運が静かに答えた。


「殿が申されますか」


「それは言うな」


「事実にございます」


「言うなと言った」


 惟種は、窓の外を見た。


 阿蘇は正月の大評定を終え、ようやく内を固め始めた。


 だが、外は待ってくれない。


 尾張では、近く喪の気配が流れる。


 だが、その喪の主は、まだ死なぬ。


 死なぬ男が死を装い、若き虎が尾張を噛み締める。


 その先で、今川が動くかもしれない。


 武田も、北条も、黙ってはいないかもしれない。


 惟種は、小さく呟いた。


「本当に、今年も働くことになりそうだ」


 宗運は、すでに文箱を閉じていた。


「はい。山ほどに」


「言うな」


 部屋の外では、冬の風が静かに吹いていた。


 尾張より届いた密文は、阿蘇の春を少しだけ早く騒がせることになった。


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宇佐美殿か胃友になりたがっておられるぞ
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